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疲れを取るのには何が一番良いのだろうか。
親方曰く、銭湯だった。
「なぁ? あっという間に取れるだろ?」
「はい」
晃人は素直に同意した。
湯船に浸かると、これほど疲れが取れるとは思わなかった。
体中に溜まりに溜まった疲れが体の外に流れ出てくれるのだ。太ももを軽くマッサージするように揉めば、気持ちよかった。
「銭湯は俺たちにとっちゃ、極楽なんだよ」
隣りで浸かっている親方は、先程まで鋭い目で晃人だちに指示していた人間とは思えないほど、柔らかなおじさん顔を見せていた。
そうなるのも無理はない。
近くに親方がいなければ、すぐにでも寝てしまいそうだ。
「新人のわりには今日は良く動いていたからな、ちゃんとここで疲れを取っちゃえよ」
静かに湯船に入ってくるのは、晃人よりも一歳年上の先輩だ。
しかし、晃人とは違い、小さい頃から親方の側にいて、周りの人間よりも親方のことを知っているらしい。
まだ晃人はこの輪に入って数日しか経っていない。仕事の内容は簡単であるため、特に研修を行うこともなく、すぐに現場で働くこととなったのだ。
「今日はまだ楽な方だぜ。ただ掘っては運んでの繰り返しだからな」
晃人の仕事というのは土木業だった。
狭い土地を有効に使うために、過去の人間たちは空に向かうようにビルを建造した入り、地下街を作ったりした。同じ土地の面積でありながら、階が増えていくごとに土地は倍加していくのだ。だから、晃人たちは地下を広げていたのだ。
「これから少しずつ教えていく。一つ一つ覚えていけよ」
「はい」
晃人はこの仕事に就いてよかったと思っている。
親方も先輩たちも良い人ばかりだ。自分のことを良くしてくれていることを実感できている。だから、晃人は感謝していた。
「まぁ、それよりもその体を鍛えないとな。そんな体だといつかぶっ倒れるからな。良く寝て、良く食べて、そして掘って掘って掘りまくる。そうやっていけるように頑張るんだぞ、晃人!」
「痛っ!?」
背中を思いっきり叩かれて、晃人は驚く。
「思いっきり叩かれても痛くなくなれば、ようやく半人前だな」
「……それでも半人前ですか?」
「一人前なんてな、甘いもんじゃねえからな」
「わかってますよ」
背中を少し気にしながら、晃人は目をつぶる。
少しでもいいから、この場で疲れは取っておきたかった。
ただし、ここで眠るわけじゃない。寝てしまえば、また頭を覚ますのに時間がかかる。晃人には今日一日が終わるわけじゃないから、ここで寝てしまうわけにはいかない。ただ、疲れを取るだけだ。
「そういえば親方」
「なんだ?」
晃人を挟んで先輩が親方に話しかける。
「目の前の、あの絵ですけど、どうして背景が青いんですかね?」
先ほど晃人は、先輩が話にあげた絵を視界に収めていた。
湯船に入って正面、壁一面に描かれた壁画。その壁画には左右対称の美しい山が描かれていた。ところどころ岩肌が見えているが、頂上から山のすそまでお粉で化粧をした山。その背景には、飲み込まれそうな青で覆われ、山の美しさを際立たせていた。
「俺に聞くのか? 俺が知ってるわけねぇだろ」
「まぁ、そうっすよね」
「なんだと!」
素直に先輩が頷いたことに少し頭に血が上ったのか、耳が痛くなるほど大声を出す親方。ついでに立ち上がってしまうから、波ができて外にお湯が流れてしまう。
「青い部分は《空》って言うんです」
「《空》?」
二人にそう答えると、先輩は頭の中で《空》という言葉を探していたようだけれど、見つかることはなかったようで晃人の方に疑問を投げかけてきた。
「地上と宇宙との間にある空気の層のことです」
「空気が青く見えるのか?」
親方も少し興味を持ったのか、湯船に方が浸かるまで沈んで、晃人に聞いてくる。
「俺も実際に見たことがありませんから、本当に青いのかは知りません。でも綺麗ですよね。確か……、この絵って昔この辺りの地上で見れた《富士山》という山だったはずです」
そう。確かこの形の山というのは珍しかったはずだ。それもこれほど綺麗な山だ。小さい頃に兄貴が見せてくれた古そうな教科書に載っていて、心に残っていたのだ。
「《富士山》というのか。やっぱお前は頭良いな。兄貴が出来るからな」
「兄貴だけですよ。俺は別にそこまでは」
その言葉には嘘はない。晃人だけでは何もできない。
もし兄貴がいなければ、《富士山》のことについても知らなかったし、《空》についても知らなかった。
学校では教わることはないのだから。
「わかんねぇことがあれば、これからは晃人に聞けばいいな」
「頼りにしてるぜ?」
「その前にもっと筋肉つけろよ!」
これから湯船に浸かろうとすした先輩が、後ろから髪をぐしゃぐしゃと撫でられたとは程遠いことをする。
その後、他の仕事仲間のほとんどが湯船に浸かると、晃人は湯船から出る。
それを見て、親方は「具合でも悪くなったのか?」と聞かれたのだが、晃人は違いますよ、と笑顔を見せて答える。
「用事があるんです」
「そういえばそんなこと言ってたな」
「すみません。また明日お願いします」
「あぁ、寝込むんじゃねぇぞ」
先輩の一言でどっと笑いが溢れる。
そんな良い雰囲気から出るのを惜しみながら、晃人は着替えて銭湯から出る。
そして《空》に目を向ける。
だが、そこには《空》はない。
ただコンクリートで固められた器型の天井が目に入ってくるだけだった。
この世界には《空》なんてない。
人間は地下でしか生きていけないのだ。
「……」
晃人は歩き始める。
これから始まる本当の自分の仕事の準備のために。