コーヒーのような夏の色
「……姉ちゃん、いつまでそこで泳ぐの?」
「おっ、裕太そこにいたんだね。もっと浅瀬にいるかと思ってた」
私たち姉弟は、この海によく遊びに来る。夏はほぼ毎日遊びに来ている。この町には夏だからといって夏祭りを除いては、面白いことは特に何もない。海で泳ぐくらいしかやることがないのだ。
「もうすぐお祭りだね。今週の土曜か。早く土曜にならないかな」
裕太は浜辺に寝転がりながら、嬉しそうに私にそう言った。小学四年生の運動神経の悪い、優しい弟だ。
日が暮れてきたので、二人でゆっくりと歩いて家に帰る。家に近づくにつれて烏賊と里芋の煮物の匂いが漂ってきた。
「ただいまー」
家の中はとても静かだ。家中に煮物の美味しそうな匂いが充満していた。
「ねぇ裕太、オセロやろっか? 勝ったほうが負けたほうにデコピンね!」
「えー、嫌だよ。姉ちゃんのデコピン痛いんだもん」
「痛くなくちゃつまらないでしょ? ほら、やるよ」
「わかったよ。ボード持ってくるね」
裕太は駆け足で部屋を出て行った。無音。夕暮れ時、薄暗くなった部屋に急に一人になると、突然悲しい気持ちになってしまった。私はそっと棚からお煎餅を取り出し、一人で食べた。そして早く裕太が戻ってくればいいのに、と思った。無音の世界に汗が一滴垂れる。ぴちゃん。私は何でこんなに悲しい気持ちになってしまったのか、自分でもよく分からなかった。
しばらくすると足音が近づいてきて、襖が勢いよく開けられた。裕太は息を切らしながら、オセロのボードを胸に抱えて部屋に入ってきた。
オセロはいつものように私が勝ち、裕太のおでこに向けて思いっ切りデコピンをした。うまくいかなかったのでもう一回した。裕太は笑いながらも、少し涙目になっていた。それを見て私は腹を抱えて笑った。畳に涎が一滴垂れた。ぴちゃん。
気が付いたらもう夕飯の時間になっていた。お母さんが私たちを呼んでいる。いつの間にか帰ってきたみたいだ。今行くと返事をすると、裕太と二人で食卓のある部屋へと走っていった。
「いただきまーす」
裕太は食べるのがとても遅い。噛む回数がやけに多いのもあるが、基本的に一つ一つの行動がゆっくりなのだ。テレビの内容が面白いとさらに遅くなる。
「ごちそうさま。にゃーの餌はもうあげた?」私はお母さんに尋ねた。
「あ、まだだわ。優、あげておいてちょうだい」
「はーい」
我が家には一歳の雄猫がいる。生まれて間もない時、捨てられていたのを裕太が拾ってきたのだ。いつの間にか家族からはにゃーと呼ばれるようになってそれで定着してしまったので、名前は『にゃー』だ。
裕太はそこまで真剣に観る必要はあるのかと思う程の真剣な目付きで、テレビを観ながらご飯を食べていた。何気なくお父さんを見ると、全く同じ表情で箸を持ったままテレビを観ていた。私はお母さんにねぇねぇと言うと、二人を指差して笑った。お母さんも食べていた里芋を吹き出さないよう、手で口を押さえながら笑った。
調理場に置いてあったキャットフードの袋の中身はもうほとんど残っていなかった。玄関にストックがあったので、取りにいこうと襖を開けて居間を出た。そして玄関に向かって暗い廊下を一人で歩いているとき、悲しみの感情が襲ってきた。今度は胸が締め付けられるように苦しくなり、その場に倒れ込んで膝をついた。涙が溢れ出て止まらない。どうしてこんなに悲しいのだろう。誰か側にいて欲しい。このまま一人で震えながら泣いているなんて絶対に嫌だ。でもその思いは虚しく、声もなく泣き続ける以外の行動を取ることは、今の私には出来なかった。
時間の感覚が分からなくなるくらい、倒れ込んだまま私は泣き続けた。居間からはテレビの音とみんなの笑い声が聞こえた。私はどうしてしまったのだろう。何も悲しいことなんてないじゃないか。今の生活に不満なことはない。あえて言うなら、日々の退屈さくらいのものだ。私は人並みか、それ以上に幸せな人間のうちの一人のはずだ。それなのになぜ? なぜこれからの一秒先がこんなにも怖いのだろう。
私はそれからもしばらく泣き続け、涙も枯れた頃、突然居間から出て来た裕太に見つかった。私は涙を見せぬよう俯きながら急いで立ち上がると、玄関に向かって走り出した。私はキャットフードの袋を手に取り、何事もなかったかのように居間に戻っていきたいのだ。こんなところで泣き続けていたくなんかない。裕太は戸惑ったような表情で立ち尽くしている。私は涙を左の手の平で拭いながら、右手で勢い良くキャットフードの袋を持ち上げた。するとキャットフードの袋の重さと反比例するように、私の心は一気に軽くなったような気がした。にゃーがゆっくりとこちらに近付いてくる。私が握り締めているキャットフードの袋を真剣な眼差して見つめている。ほら、今あげるから待ってなさいね。今すぐお姉ちゃんがあげるから。