第七章:私は変わらない
第七章:私は変わらない
SIDE:MAXIMA
学校がつらかった。宮奈さんも木戸さんも心配してくれたけど、元気が出なかった。高校に行ったらきっと楽しいってみんな言う。高校に行って、したければ進学して、仕事をして結婚する。将来って楽しいのかな。そんなことを言うと、きっと楽しいってみんな言うから、私は不安だった。真剣な顔で「どうだろうな」って考えてくれる人は、私にはもういない。
二人を心配させたくないから、放課後は部室に行った。青山さんは私を気にしてくれたけど、今日は来ただけ。あんまりしゃべれなくて、そのうち帰ろうとしたら、青山さんが一緒に来た。まだ少し早いけど、今日はいいの、ってカバンを持って帰る。最近危ないしね、って学校を出る。通学路を使う日は、もう数えるほどしかない。そのうちの一回がこんな感じで、申し訳なかった。表で事故があったようで、車が壊れて警察が来ていた。最近多いよねって青山さんが言ってたけど、私はよく知らなかった。
SIDE:ARUMA
……刑事に呼ばれて上の空だったことに気がつく。ぼうっとしてる暇は、本来はない。だが何をしても手につかず、何も気がつかない。幸い眼魔も深手を負ったようで動いている様子がない。次の兆候は、警察にいれば大きな事件としてだいたいつかめるはずだ。何もないから気が抜けているのだろうと思い、交通課の刑事の誘いに乗った。気分転換だ。
交通課では安全週間でキャンペーンをしているのに、事故が減らない。やり方が下手なんだろう、オレならポスターを見たら10秒経たずに忘れている。デザインのことなどわかるわけもなく、特に何も思わなかった。安全週間なのに交通事故はむしろ多く、呪いではないかなどと言う。お前らがどれほど事故防止を叫んでいるか知らないが、発生件数は普段より若干多い程度で現実離れはしていない。こういうもののわずかな兆候はむしろ分析が手間で、オレの苦手分野だ。今は眼魔捜索に全振りしないといけないくらいなので、まあ話を聞いていた程度だったのだが、電話が鳴った。ミナカタだ。そういえば、昨日電話していなかった。携帯を見ると留守電が1時間おきに4件入っていた。1時まで起きていたのだからご苦労なことだ。こちらも寝不足なので気が立っているが、電話には出た。
「アルマ君どうなってるんだ、連絡がないから……」
「こっちのセリフだ」
お前に聞いていた眼魔のスケールはせいぜい最下級妖魔、下手をすれば悪魔の範囲に入らない程度の相手。だからこちらも特に問題にせず引き受けたが、今戦っている眼魔はどう考えたってそんな柔な相手ではない。今までにも攻撃がほとんど効かなかったことはあるが、先の戦いは分身相手だというのにまるでノーダメージで侵攻を阻止できたのは偶然だ。適当なことを言うならこっちも仕事にならない、とミナカタ相手だというのに高圧的になった。
そんなわけないんだが、なんてまた適当なことを言うミナカタだったが、電話の向こうで事務所の固定電話がうるさいくらいに鳴っていた。いいからそっちをすませろ、と言って電話を切る。交通課の刑事はしつこく話を聞きたがった。なにせこれに先駆けて未解決事件の推測不能な部分を「こうじゃねえの?」と一つか二つ教えてしまったので「当たる!」というのが確定している。「当たる!」じゃねえよ、わかるヤツは当然のようにわかる単純なサイコメトリーだ。ましてオレはこの手の能力が本来ないので見よう見まね、特化したESPの持ち主には敵わない。FBIに問い合わせればもっと有能なサイコメトラーを紹介してくれる。その中には1000人に一人くらいは本当にできるヤツがいるので、FBIの仕事ぶりは立派なものだと感心するばかりだ。
オレだって魔導師の肩書きで警察に来ているのだから、デタラメは言えない。仕事が減る。嫌々ながら交通課の刑事の相談に乗っていた。ケガ人が出た事故をしきりに気にしていたので、しょぼい事故は何があったと聞いてみた。ケガさせたいなら一度させたらほぼ終わり、手を変え品を変え同じヤツを狙うという話でもなく頻発しているなら、事故の共通項から当たった方が早い。駅前の事故は物が壊れただけだというので何が壊れたか聞いてみた。社だという。駅の改修前からある稲荷をまつっていて、当時の作業員のすすめでなぜか残された……脳裏をよぎる記憶に無理やり蓋をした。聞きたくない話だが逆に気になって、できるだけビジネスライクに話を聞いた。
SIDE:MAXIMA
……自然と足が向いた駅の改札。アルマはもうこの駅を使っていないみたいで、待っていても通らなかった。もうわがまま言わないから、ごめんねって言いたかった。なんで怒ってるのかわからなかったから、また怒られるかもしれないけど、このままなんて嫌だった。会えたらそれを聞いてもう一回怒られて、もう一度言おう。ありがとう、楽しかったよ。……たぶんそれ以上はできないから、それだけはしたかった。電話じゃなくて、もう一度会いたかった。でもアルマは来てくれない。私は我慢して待っていた。いつもは我慢なんてしないんだけど、今日はした。我慢して帰るなんて嫌だったから、私は待っていた。今日は、ちょうちょが多い。ちょうちょって呼んでるけど、ちょうちょじゃない。それくらい知ってる。私しか見えなくて、飛んでるって言ってたら笑われるから、ずっと前に言わなくなった。いたずらばっかりの羽の生えた何かが、たくさんいた。……わかってるよ、壊れたからでしょ。お稲荷さんが。あそこからたくさん何かが出ていて、集まってきた。私はちょうちょがたくさん飛んでいるのを見ながら待っていたけど、日が暮れてしまった。帰らないといけないから駅を出ると、女の人がいた。知っている人だ。
「……ここじゃ無理だよ」
私はその人に話しかけた。困っているみたいだったし、私も話したかった。女の人は驚いたみたい。いきなりごめんなさい。ここのお社はあんまり強くないから、意味ないんじゃないかな。少し前にお寺の岩が壊れたから、もうこの町にはない。あってもあんまり強くないんだ。女の人はがっかりしたみたいで、今は何もできないから場所を探している。場所は知らないけど、話し相手はいる。アルマの話ができる人は、他に知らなかった。
アルマはまだこの近くにいる。でも、それ以外知らない。私はアルマのことをよく知らなくて、これだけしか言えない。女の人は黄色い石を出して、協力してって言ってきた。……ごめん。アルマに怒られちゃう。もう怒られたんだけど、また怒らせたくない。これ以上怒らせたら、わかってもらえない。だから今はできないの。ごめんね。女の人は言っていた。そんなに大事?って。うん。すごく大事。わかってくれる人って、いないんだ。だから私たちは、自分のことを忘れて違うものになる。もし、違うものにならなくてもわかってくれる人がいたら、とても嬉しい。たぶん他にはいないから、わかってもらいたかった。私はアルマのことが何にもわからない。だからいつも怒らせて、アルマは教えてくれる。私もアルマのことをわかってあげたいから、もう怒らせたくないんだ。女の人はもう私に何も頼まずに、一緒に歩いた。いつのまにかいなくなっていて、帰ったんだと思う。アルマに言ったら、怒るんだろうな。でも私は、話したかった。アルマだったら、わかってくれると思う。
SIDE:ARUMA
事故は人間を巻き込まない物損事故の方が多かった。正確にはケガ人が出たときも多少なり何かが壊れ、むしろ物を壊して回っているのではないかと思えた。なんでもかんでも壊しているわけではなく、昔から残っている建造物や史跡に大型車両が豪快に突っ込んだという話が多い。普段だったら気がつかないし、まして今は頭がぼうっとしている。それが功を奏するのだから、わからないものだ。地図の上を見て駅前の稲荷から次の場所に視線を移すと、等高線が目についた。同じ線の上。事故現場はよく見るとなだからにカーブしているが同じライン上、山とかその辺の地形との位置関係を見ると気脈が走っている可能性が高く、どうやらこれがこの町の異常性の原因だ。このラインからこう入って、こう渦を巻いて、ああ……。昔のヤツらはオレよりもう少し詳しくても不思議じゃないから、この町が拓かれたあたりでまじないでもして、ポイントを押さえて気脈を塞ぎ人が住めるようにした。全部押さえたわけではないからこんな変なことが起きるが、当時の技術と開発資金でできることは限られていて、よくがんばったなあといったところ。近年になって取り壊された物もあるから、だんだん現象が強くなっていった。だが……今オレが見ている印は、事故現場ではなかったか?ここが壊れたという話だ。気脈を解放する方向に、少しずつ壊されている。最初はめくらめっぽう壊していたとして、だんだん気脈の流れがはっきりしてくる。今はたぶん流れが変化して、一点に集まっている。そしてここを壊したとしたら、怒濤のように噴き出して……背筋に寒気が走り、ここには何がある!と叫んだ。常盤第二中学の近辺の一角に、正確に何があるかははっきりせずこれから調べる。自分の部下が走っていったというのに、サエグサ刑事は頭を抱えていた。わずかに覚えがあるらしい。何かがあった。何かを見た。しかしそこにあるのが変わった物とは思わず、記憶しなかった。もしかしたら時間との勝負、サエグサにわずかな印象で構わないと言ってイメージだけでも聞き出した。
「確か、こう、お地蔵さんのような……」
おあつらえ向きだ。当時の連中ならいかにも任せそうな守護者、その象徴でここに蓋をした。焦って動けばロスが出る恐れがあり、わずかなのだからサエグサ刑事の部下の報告を待った。そのとき、電話が鳴った。ミナカタからの折り返しで、何か言いづらいことがあるらしい。向こうで進展があったという。
「数日前に、依頼元の焚書室を調べた日本の魔導師がいるんだ。だいぶトラブルを起こしたようだけど……」
「ゴギョウか?」
ゴギョウハコベラという修験一家の跡継ぎは、偉そうな物言いで誰が相手でも容赦がない。こちらが年上だというのに敬語も使わず、喧嘩にもなったことのある同業者だ。喧嘩したとはいえこの業界で役に立つレベルの力を持ったヤツという意味ではまともな方で、よそ様の家に上がり込んで勝手なことをしたと聞けば最初に思い出す。そしたら案の定、名前を伏せていただけでゴギョウのことらしい。またやらかしたかとあきれていたのだが、本格的に向こうに責められる前に業界のネットワークのまだ信用のできそうな場所に写真を送ったという。焚書室の片隅にあったゴミ同然の羊皮紙。そこから新たな事実が浮かび上がった。
千五百年前にあった聖戦は、神の大勝に終わった。首謀者たる弱小妖魔の眼魔は異次元に追放されて帰ってこなかった、というお定まりの話の続きが、断片的に記されていた。聖戦のきっかけになった聖人の暗殺事件は眼魔の仕業と断定されていたが……どうやら違う。悪魔の誰かであることは間違いないが、そいつはおそらく魔界に雲隠れしたのではないかと推測される。弱小妖魔であれば紛れ込んでしまえばもう見分けようがなく、追及を逃れたいなら二度と出てこない。そして神の怒りの矛先は別の疑わしい存在に向いた。眼魔だ。
そりゃあ眼魔が悪くないなんてことはない。仮にも妖魔である眼魔は悪魔と大して変わらない行いをしていた。しかしそんなことを逐一責め立てるほど神も人も物好きではなく、だましだまされ、それは人も悪魔も変わらず連綿と続いている。眼魔は突然いわれのない罪でおよそ世界と呼べる全ての範囲から追い出され、千年を超える月日が流れている。それが間違いだったと知った神を崇拝する依頼元は……その事実を闇に葬って、忘れていたというのだ。タカの知れた妖魔だった眼魔は、生きていける保証のない見知らぬ位相で千年を超える月日、恨みを募らせていた。まして物理法則すら通用しない異界は、眼魔にどんな変化をもたらしたかわからないというのだ。
「眼魔は今どうなっている?」
予想の範囲だろうが出せる情報は全て出せ、とミナカタを問いただすと、変化していて、少なくとも……と言いづらそうに続けた。
「階級で言うと……中級第二位相当」
「なっ……!」
思わず言葉をなくした。人間界に現れる悪魔なんてせいぜい下級第三位、下級第二位が来たらもうお手上げの大物だ。この階級はそれほどに強烈な差を持ち、中級第二位なんて怪物という言葉しか思い当たらない。ましてこれは最低線、いまだ力の底は見えずまだここから強くなるかもしれないと悪い冗談を聞かされ続けた。依頼元はこの事実を隠し、何も知らない部外者に収拾させようとしていた。クソ野郎ども!思わず口に出して毒づくと、電話の向こうでミナカタがオレを呼んでいた。
「アルマ君、僕から無理は言えない。依頼元にはこっちで話をつけるから君は手を引いて……」
うるせえ!と怒鳴って電話を切った。尻尾を巻いて逃げれるものか。オレが逃げたらこの町は……槙島はどうなるというのだ?何も見えず、何もできず、何も知らずに生きていく人生は、どこに行ってしまうというのだ?サエグサ刑事の部下に呼ばれ、車に乗った。やはりそこには古い地蔵がある。オレは固く誓っていた。何が何でも倒す。恥ずかしいことだ。オレはこの期に及んで、そんなことを考えていたのだ。
SIDE:MAXIMA
……朝。中学に行くのは、今週が最後。通学路は変わって、学校も変わって、何も変わらない日が続く。私は、変わるのかな。おもしろそうで楽しそうで、そんなものを見てはしゃいでいられるのかな。足が重い。学校に行くのは、気が進まなかった。
お腹が鳴って、朝ご飯をあまり食べなかったことを思い出す。少しだけ、何か買おうかな。食べたいわけじゃないけど、近くのコンビニを見た。昔は別の店だったけど、今はだいたいの店が変わって、どんな場所だったか思い出せない。ここだけ、覚えている。お菓子屋さんで、おばあちゃんと買いに来た。親戚の人が集まるから少しいい物を買って、ついてきた私に一つ買ってくれた。一番安いどら焼きが好きで、すぐに決めた。もっといいものにすればいいのに、ってお母さんに言われたけど、これがいいの。大好きなおばあちゃんに買ってもらった一番好きなお菓子。私には、一番おいしかった。この前食べたときも、そうだった。
前このコンビニで買ってもらった、レジの横のピザまん。全然珍しくなくて、自分でだって買える。だけどすごくおいしかった。誰かと一緒にいるのが、すごく楽しくて、おいしかった。
向こうには駅が見える。いつもアルマを待っていた駅。もうアルマはあそこに来なくて、待っていても仕方がない。向こうに行ったら、先生もお母さんも、アルマもみんな怒る。あっちの方がいいんだって、みんな言う。学校に行かないと。いつも通りの通学路。向こうに行っちゃダメだって、みんな言う。向こうに行ったら遅刻しちゃう。何も見えない方がいいんだって。何も知らずに生きていく方がいいんだって、アルマは言ってた。でも、決めた。私はアルマについていく。ウソを本当だと思って生きていくなんて、私はごめんだ。
SIDE:ARUMA
夜通し張っていた地蔵さんの前には、特に何もいなかった。側溝もぐらが鳴りを潜めた今先兵もおらず、この下に何かが渦巻いていたとして地表には出ていない。にらみつければ地蔵の下に何かがうごめいているのはわかるが、オレでようやくわかるくらい。サエグサ刑事に至っては子どもの頃見ていたのは思いだしたが特に何も思わない、という程度。思ったよりもずっと強固に塞いであって、ここが要所だというのは当時の連中も知っていたらしい。刑事で固めて守りたいが、ここに来るとは限らずサエグサ刑事の権限も限られ、クラハシまで駆り出しているが手が足りない。有志に集まってもらっている範囲を出ず、いないよりはマシだろうという状態だった。サエグサ刑事合わせて四人、あとオレ。ここに全振りしても始まらないが、押さえないわけにはいかなかった。そのとき、警察車両に無線が入ったらしい。近くにいる者は応援に行けとの本部のお達しだが、こちらとて手を離せない。離せない割にはまったく忙しくないのでヒラ刑事まで巻き込むわけにも行かず、オレとサエグサ刑事、クラハシを除く二人はその場を離れた。サエグサ刑事とて立場がないが、組織内に侵入した異形に続けてモールに出た怪物を見たのだ、非常時だと言うくらいはわかる。経験者が相手だと、仕事がはかどる。クラハシの仕事は全面的に止まっている。
サエグサ刑事がここからの予想がつくかと聞いてきたので、何の保証もないが、と前置きして続けた。眼魔とて次元の壁を突き破る力はなく、こちらに渡ろうと思えば仕掛けがいる。想像するに、向こうとこちらで仕掛けを打てばギリギリ通れるのだろう。だから邪魔が入れば次元の壁を通過できない。本来神や悪魔も通らない場所なので、途中で失敗すれば少なからずダメージを負い、前回の失敗で力は削られた。……それでも規格外の怪物である点は変わらないので、また何か仕掛けてくるはずだ。前ほどの力が残っていないなら、こちらのエネルギー源が必要なはず……町の下を通る巨大な気脈は、いったいどこから流れてくるのか知らないが足しになるかもしれない。ここ以外に噴出点があるなら、違うかもしれないが……と話している途中で、サエグサ刑事に電話が入った。どうやら先ほどこの場を離れた部下二人で、電話で何かを言い合っているがオレにはわからない。クラハシは近くのベンチで居眠りし始めて、就業中であることを考えれば大目玉だがこの数日ろくに寝ていないのを知っていたので、放っておいた。叩き起こすより寝かしといた方がいざというときに役に立つだろう。そう思っていたのだが。
「なんだ、落ち着け!何が言いたい?」
サエグサ刑事も電話の向こうの部下相手に苦労しているようで、どこも仕事は大変なものだ。なにせ一番仕事をしていないオレでも大変なのに、こいつらは公的機関にいるからよほど大変だろう。そんなことをのんきに考えていた自分をぶん殴りたいと思ったのは、そのすぐ後だった。
「暴走車?トラックだと?運転手の他に……女?」
サッと身の毛がよだち、サエグサ刑事から電話をふんだくって怒鳴りつけた。女だと?どんなヤツだ!黒い服と長い髪、それ以外はわからないが最初は乗っていなかったはず……?来やがった、眼魔の分身とおおまかに特徴が一致する。迎え撃つ準備を、する暇はなかった。サエグサ刑事の部下は、必死になってわめいていたがオレには聞こえない。
「トラックは無茶なルートをたどって、一直線に……そちらに!」
聞こえたときには大型トラックがこちらに向かってきた。寝ぼけたクラハシを無理やり叩き起こして全員で避ける。こちらは無事だが、一人轢かれた。大型トラックの衝突を受けて地蔵さんがぶっ壊れ、その下から噴き出したのは、真っ黒な闇。地獄から噴き出したのかという恐ろしい圧力の闇が、みるみる広がっていった。
「逃げろ!」
焦って距離を取り、サエグサ刑事とクラハシを堤防の上に連れていく。ようやく振り返ると、壊れた地蔵の真上、空にばっくり割れ目が開き、その中からは見覚えのある単眼が覗いていた。真っ赤に血走った眼は、自分を割れ目にねじ込み強引に通ってくる。その目に宿る怨嗟の炎に、久しぶりに震えが来た。
止めどなく噴き出す、闇。凶星の接近により活性化された地脈の流れは上空へと吹き上げ、空に浮かぶ単眼に吸い込まれていった。何かをしようなどと考えるのも馬鹿らしいほどのスケールの前に立ち尽くし、霊感の感度のキャパシティはとうに通り過ぎてもう強さを知覚すらできない。眼魔の本体は吹き上げる闇をむさぼりなお大きくなり続け、今や次元の壁は完全に突破した。燃えるような怒りの眼差しに、言葉もない。すぐ近くで、誰かが笑った。
「……てめえ……!」
眼魔の分身の女は、本体を見て笑っていた。何をする気だと問い詰めたが、さあ、ととぼけるばかりだった。狙いを吐かせようと、オレは力を込めた。ひっくり返っても敵わないとわかっているのに、この方がまだマシな判断だった。しかし、女はオレを見てつまらなさそうに言った。本当よ、と。オレは小器用なヤツが苦手だが……眼魔が嘘をついているとは、今は思えなかった。眼魔の分身の女は、オレから目をそらした。
「あなたはわかってないのね。私が何なのか」
わかっている。お前は眼魔の分身……!そう言いかけて、ようやく気がついた。眼魔は今まで、本体を次元のこちら側に送り込むことができなかった。もし、かろうじて自分の一部を送り込めるとしたら、自分の中で一番強力な部分。この状況にある眼魔の最も肥大した箇所は、怒り、憎しみ、復讐心……まずその手のもので間違いない。だからこの女は眼魔復活のために犠牲を顧みず、眼魔本体の帰還を最優先にした。だから眼魔本体が何を思い、何を考えるかは、誰にもわからない。わからないのであれば、何を始めてもおかしくはない。空に浮かぶ単眼はもはや人間の手に負えるものではなく、人外の者に頼ったとしてどれほどのことができるか……有史以来記録されないほどの脅威に、対抗策など見つかるわけがない。オレは最後の悪あがきのために、走り出した。
肉体強化魔法を発動し、全速力で走った。命に代えて世界を守る筋合いなどない。そっちでやってろ!しかし、まきこまれて死ぬのは御免だ。オレも。限界ギリギリの強度で発動した剛健は、簡単に眼魔の分身に回り込まれて行く手を阻まれた。オレが何かしようとしたのは、もうバレている。
「何もできないでしょうけど……でも、念のため」
眼魔の分身は、全身に目を開いてバラバラに分かれ、飛び回った。周囲を飛ぶ目玉を攻撃してもキリがなく、突っ切るにはあまりにも数が多い。数個の目玉が集まって目玉の怪物の姿に戻り、空に飛んでいった。撃ち落とそうとしても大量の目玉が弾幕になり、まるで届かない。眼魔の分身は、本体に言った。その声は、あまりにも強く町に響いた。
「もう耐えることはない!さらけだせ!」
眼魔の憎しみたる分身は、本体の理性を取り払いにかかった。自分の感情を自分で誘導して、リミッターを外そうというわけだ。バカが!そんなことされたら、もうどうしようもねえだろ!いくらあがいても眼魔を止める手立てはなく、こんな片隅で暴れ続けることしかできない。そう思っていたとき。
「そうだよ。我慢しなくていいの」
堤防のずっと向こうにいる誰かが、そうささやいた。眼魔に向けられた言葉は眼魔を通してあたり一帯に響く。眼魔の分身が見下ろした先にいた槙島は、空に浮かぶ単眼をを見つめていた。
「泣きたいし、苦しいし、つらいし。我慢なんてしなくていいよ。みんなそうだから、おかしくなんかないよ」
槙島の言葉とともに、心なしか……眼魔の動きが鈍った。闇の吸収がわずかに遅くなり、巨大な単眼は目が泳いだように見えた。
「私、知ってるよ。一人って寂しいの。わかってもらえないとつらいの。そんなの全然おかしくないって、みんな知ってるんだよ」
……巨大な単眼が、ぶるぶる震え始めた。その視線はぎょろぎょろと動いて、まず何も見えていないだろう。眼魔の分身は、巨大な単眼を背に槙島に叫んだ。
「黙れ、小娘!人間ごときが!自分が何か、わかっているのか!?オレが何か、わかっているのか!?」
「うん、知ってる。あなたはとっても大きいけれど、きっと私と同じだよ」
眼魔の本体が下降し始めて、力を失っている。眼魔の分身は触手の一本をとがらせ、槙島に飛びかかった。オレはとっさに、槙島の名を呼んだ。
SIDE:MAXIMA
……大きな目はなんだかびっくりして、とても慌てていた。急ぐことなんてないから待っていたかったんだけど、小さい方の目玉のオバケが私の方に飛んできた。そんなことしちゃいけない。だって。そう思っていたら、ずっと向こうから声が聞こえた。
「槙島!」
「……アルマ!」
私の名前を呼んだアルマは、手から白い光を出してこっちに投げた。アルマは他に何も言わなかったし、私は聞いたことがなかった。でも、たぶんこっちだ。私は手に白い光を出して、飛んできた光の玉を思いきりひっぱたいた。跳ね返った白い光は目玉のオバケにぶつかってはじけて、オバケは燃えながら落ちていった。ごめんね。でも、きっとこの方がいい。大きな目は膨らんだり萎んだり、丸くなくなって動いていた。どうなるのかわからないけど、なんだかいけない気がした。そしたらアルマは、大きな目の下に走っていった。そこから真っ黒なものが飛び出していて、危ないから近寄っちゃいけない。でも、何かするんだろう。アルマだから。
アルマは真っ黒なものの前で、手に光を出した。右手に白、左手に青。それを目の前でぶつけて、パン、と手の鳴る音がした。アルマの得意な、光と闇の……その魔法は、地面から飛び出す真っ黒な何かを真っ白な光に変えた。大きな目は光に押し流されるみたいに高くのぼっていって、しばらくすると音がした。町が壊れそうなくらい大きな音と、風、炎。すぐに収まったけど、通学路の、お地蔵さんがあるあたりは大きな穴が空いていた。私は思わず、叫んでしまった。
「……アルマ!」




