表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

灯花の約束

作者: ふみきり

春の夜の光と歌をテーマにした短編です。

「恋が終わること」と「記憶が残ること」は、きっと同じ灯りの形。

そんな思いで書きました。

ゆっくりとした呼吸で、夜の終わりまで読んでいただけたら嬉しいです。

 春祭りの夜は、まだ始まっていなかった。


 山あいの町を包む空気は甘く、花と蜜の匂いが混じっている。昼の熱が石畳に残り、指先で触れると、かすかな温もりが返ってきた。

 広場では紙を切る音、糊の匂い、子どもたちの笑い声。それらが一枚の絵のように重なり、夕風がゆるく撫でていく。


 灯花は、歌で灯る。


 ルミナは胸の奥に手をあて、息の深さを確かめ、ひと音、声をほどいた。

 薄い紙の灯籠がゆらぎ、内側に針の先ほどの光が生まれる。光は呼吸に合わせて膨らみ、声の高さに寄り添って色を変えた。


 青、白、桃。


 旋律が高くなると、光はひと筋の糸になって立ち上がり、まだ冷たい夜空の下で細く震えた。


「今年の歌は、少し切ないね」


 耳元で風が笑った。風の精アエラが、灯花の縁を指でつつく。

 光が膨らみ、笑いに応えるように瞬いた。


「切ないかな。優しくしたつもりだったんだけど」

「優しさは、いつも少し切なさに似てるんだよ」


 アエラの声は、路地で鳴る口笛のように細く高い。

 息を吸いなおし、次の旋律を探す。

 喉の奥に小鳥が住んでいる。胸の内側をこつこつ叩き、もっと高く、もっと遠くへ、とせがむ。

 小鳥の意地に負けて音を上げると、広場の端に積んだ灯花の枠が一斉に淡光を帯びた。花びらのように折られた紙の目が開き、町の影がほんの少し薄くなる。


「ねえ、アエラ。どうして灯花は歌で灯るの」

「心が芯だから。火の代わりに心が燃えるんだ。声はそのかたち」

「じゃあ、悲しい心は、暗い灯りになる?」

「暗い灯りは、暗いままできれいだよ」


 風の指が頬に触れた。涙になる前の水の温度をしている。

 そのやわらかさの向こう、屋根の影にひとつの影が立っていた。光に背を向けるように、夜と溶け合うように。


 視線をそっと戻し、なにも気づかないふりで次の音を灯した。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 日がすっかり落ちるまで、広場は幾度も小さな祭りを繰り返した。

 紙の切り屑が花吹雪になり、糊の滴が星座のように石畳に固まる。歌うたび光が生まれ、人々が笑い、また仕事に戻る。

 その繰り返しの隙間に、ひとりの影があった。屋根の影から影へ、灯りの線を避けるように歩く。誰とも目を合わさず、何にも触れない。


 一度目、偶然を装って視線を投げた。すぐ逸らされた。

 二度目、紙束が風に攫われたとき、その影が一枚を拾い、指先で紙の縁に触れる直前で止まった。紙の影がその手で揺れ、やがて地面にそっと置かれた。

 三度目、屋台の端を回り込み、広場を抜けようとしたとき、呼吸の間に言葉を差し込んだ。


「待って」


 少年の驚きが、振り返る速さに出た。

 月明かりが、少年の頬の輪郭を削る。近づくほどに輪郭は淡く、光のふちが透明になる。

 まるで、ここにいることを誰かに隠しているようだった。


「どうして、灯花を見ないの」


 言葉を探すように、沈黙が流れた。


「見ると、痛いから」

「光が?」


 小さく頷く。


「触れると、消えてしまいそうで」


 意味はわからなかった。

 けれど、その声の奥に、なにかを失った人の響きがあった。


「ごめんね。さっきたくさん灯しちゃった」

「君が灯す光なら、きっと大丈夫だと思う」


 声は風に似ていた。遠くから届くのに、胸の奥ではっきり響く。

 風の音はときどき距離を無視する。少年の声もそうだった。


「明日も、来る?」


 羽根のように軽い問いのつもりだった。けれど、その軽さが、かえって夜の空気を張りつめさせた。


 少年は少しだけ笑い、返事の代わりに踵を返した。足音が石畳の目地をゆっくり数える。


「追わないの?」


 アエラの声が耳をくすぐる。


「追いかけたら、ほどけちゃいそう」

「誰が?」

「わたしか、あの人か、夜が」


 風が唇を尖らせるように笑い、屋根の旗をひとふりさせた。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 広場の灯が落ち、人の気配が薄れる。店先の布は結ばれ、紙片は桶に戻され、糊の匂いが冷たい湯気に変わる。 夜は眠る前に一度、静かに瞼を閉じる。

 ルミナはその隙間で、息の位置を探した。


 胸の小鳥は、まだ起きている。


 声を出す。ひとつ、ふたつ。三つ目の音が石に降りたとき、灯花が膨らんだ。

 音が光に触れると、光は音になる。灯花の腹に鈴があるみたいに、かすかな音が生まれた。

 石段に当たって跳ね返り、足首にまとわりつく。きれいであることの理由を説明できないきれいさだった。理由のないものは、たいてい記憶に残る。


「──その音」


 背後から声がした。

 さっきの少年が立っていた。

 少し近く、少し淡い。


 声の高さを半分ほど下げると、灯花の光も同じだけ沈む。


「覚えてる」


 光の輪郭をなぞるように、視線が動いた。


「昔、誰かが、同じ歌を歌ってた。ここでじゃないかもしれない。夜だった気もするし、昼だった気もする。覚えてるのは、光が鳴ったことだけ」

「だれが歌ってたの」

「思い出せない。思い出せないっていう思い出だけが残ってる」


 言葉の形を風が覚え、少し運び、少し失くした。

 灯花の縁に指を添え、息をかける。光が震え、震えが音に変わる。音は少年の胸の奥を叩くかのように届いた。

 抱擁というより、ノックに近い音。──入ってもいい?と訊くような。


「明日、一緒に灯してみない」


 言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し熱くなった。

 しばらくの沈黙のあと、少年は小さく頷く。


「名前を……」


 声が頼りなく揺れた。


「ノア」


 名を名乗ると、輪郭が一瞬はっきりした。名前はいつだって、世界のこちら側へ身体を引き戻す。

 灯花の音が少し濃くなった。


「ノア」


 唇でその音を確かめるように繰り返した。

 遠い丘の向こうで誰かが試しに灯したのだろう、ひとつの灯花が空へ上がった。風が向きを変え、音も向きを変え、二人の間をすり抜けていく。

 そのとき、ノアの目に光が映った。

 痛みに怯えるような影は、もう顔になかった。


「また、明日」


 その言葉は夜の奥に沈み、星と混ざった。


 アエラが影の上で寝返りを打つ。


「恋の音って、いつも少し遅れて聞こえるんだよ」

「どうして」

「世界が追いつくのに、時間がいるからさ」


 灯花の火を掌で包む。

 熱はなく、心臓の鼓動よりも確かな脈が、指の腹をやわらかく押し返してきた。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 祭りの夜が来た。

 空には、まだ誰の灯花も浮かんでいない。

 人々は広場に集まり、息を潜めて歌の始まりを待っていた。風は凪いで、遠くの鈴の音だけが響く。

 この静けさの向こうで、ひとつの祈りが芽を出そうとしている。


 灯花の材料を抱え、ルミナは広場に立った。

 薄桃色の紙、金の糸、乾いた香草の香り。

 手のひらにのせると、鼓動に合わせて紙が微かに揺れた。

 もう、それは心を持っているかのようだった。


「来てくれたんだね」


 灯籠の陰に、ノアがいた。

 夜の粒子が身体のまわりに集まっている。

 光に怯える気配はない。ただ、息のひとつひとつが慎重だった。

 その静けさが、やさしさの形に見えた。


「約束したから」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥の小鳥が一度だけ羽を打つ。灯花を作る手が少し震えた。


「一緒に、灯してみよう」


 祭りの鐘が鳴り、子どもたちがいっせいに歌を重ねる。

 ルミナはノアに糸を渡し、自分の声をその糸に沿わせた。

 声が紙を撫で、光が滲む。糸が光を吸い上げ、二人の指先のあいだでゆっくりと熱を持ちはじめた。


「……あたたかい」


 驚きよりも、感謝の色を帯びた声だった。


「光って、こんなふうなんだね」


 ルミナは頷く。


「怖くない?」

「少し。でも、君がいるなら」


 灯花が膨らみ、青白い音が広場を満たした。

 人々のざわめきが遠のき、光がふたりだけを包む。

 アエラの声が風に混じる。


「恋ってね、灯花に似てるんだ。灯せば灯すほど、夜が深くなる」


 目を閉じ、声を重ねた。

 ノアの手の震えが、呼吸と混じって伝わる。

 鼓動がひとつの旋律を描く。その律動に合わせて、灯花が天へ昇りはじめた。


 ひとつ、またひとつ。


 ほかの灯も後に続き、夜空が花のようにひらく。

 光が舞い上がるたび、音が生まれ、音が重なり、広場全体がひとつの歌になっていく。


 その中で、ふたりだけが無言だった。

 言葉はいらなかった。

 光と呼吸が、すでに言葉の代わりになっていた。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 風が変わる。

 高く昇った灯花が、ひとつ、ふたつと揺れを失いはじめた。

 その光の下で、ノアが口を開いた。


「言わなきゃいけないことがある」


 目の奥に、灯花の残光が映っている。

 その光が消えぬうちに、聞こうと思った。


「ぼく、去年の祭りで……灯花を追って、川に落ちたんだ」


 言葉が夜に滲む。


「みんな、ぼくのことを探したけど、見つからなかった。きっと、あのときの光が、まだどこかで呼んでるんだと思う。君の歌を聞いたとき、戻ってこられた気がした」


 風が音をさらい、広場が静まり返る。

 周囲の灯花がまるで耳を傾けるように、音を止めた。


「君の灯りに触れると、胸が痛くなる」


 ノアの声が少し震えた。


「でも、それは痛みじゃなくて……あたたかい。君の歌は、生きていた頃の世界の音がする」


 涙は出なかった。

 悲しみではなく、祈りのような何かが胸に満ちていた。


「もし、また消えてしまうなら」


 声が震えた。


「その前に、灯りを見て。わたしの灯りを」


 歌が始まる。

 静かな旋律が、灯花の奥に吸い込まれていく。

 ノアの身体が淡く透け、空気が柔らかく光りはじめた。その光を見た瞬間、胸の奥がふっとあたたかくなった。


「ありがとう」


 ノアが微笑む。


「もう、怖くない。君が灯してくれたから」


 風が広場を巡り、無数の灯花がいっせいに昇る。光が天に触れるたび、夜が優しく明るくなっていく。

 ノアの姿がその中で薄れ、透け、光と混ざっていった。


 アエラの声が風に乗る。


「灯花はね、願いを忘れるためのもの。でも、君たちはきっと忘れない」


 声が消えるころ、空はすでに金色に染まりかけていた。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 空は、花びらのような光で埋め尽くされていた。どの灯花も、ほんの少しずつ色が違う。

 赤は願いの名残、青は祈り、白は約束。

 それらが混ざって、夜空がひとつの呼吸になっていた。


 ノアの輪郭は光に溶けかけている。

 広場の真ん中で、光を浴びながら静かに立っていた。まるで、光が彼を呼び戻しているようだった。


「もう、行くの?」


 声を出すたび、胸の奥の灯花が少しずつ燃えていく。


 ノアは微笑んだ。


「この灯は、きっと君の歌の続きなんだ。ぼくは、それを見届けるために戻ってきた」


 風が流れ、灯花がひとつ弾けた。

 紙が破れる音が、鈴の音に変わる。

 手を伸ばす。けれど、指先は何にも触れられなかった。


「ねえ、もう少しだけ、歌って」


 ルミナは頷き、深く息を吸った。

 光と風と涙が混ざる場所で、声が生まれる。


 ──灯花が鳴る。


 光が音に変わり、音が夜を満たす。灯花が鳴った。

 その音は、どこかで聞いたことのある響きだった。

 いま歌っているのは自分なのに、胸の奥で“誰かの記憶”が返事をしていた。


 最初に灯した音が、静かに戻ってくる。


 ノアの姿は薄れ、光の粒となって舞い上がる。その一粒一粒が、空の灯花へ吸い込まれていく。

 夜空が震え、広場のすべての光が音を奏ではじめた。

 まるで世界そのものが歌っているようだった。


 足元にも灯花が降り、掌の上で音を立てて消えた。

 熱はなかった。それでも、手の中には確かに脈が残っていた。

 それはノアの鼓動に似ていた。


 風が止まり、夜が静まる。

 光の粒が最後の旋律を奏でると、そのすべてが空へ還っていった。


 広場には、ひとりだけが残された。

 それでも、孤独ではなかった。胸の奥で、まだ歌が生きていた。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 夜が明ける。

 空の端が薄い金色に滲み、山々の輪郭がゆっくりと浮かび上がる。祭りの残り香が、静かな煙のように漂っていた。


 広場には、壊れかけた灯花がいくつも転がっている。

 ひとつを拾い上げると、紙の端に小さな焼け跡があった。その跡は、まるで指先の形をしていた。


「……ありがとう」


 声に出した瞬間、灯花の破片がふわりと浮かんだ。

 風の精アエラが、朝の光の中に現れる。


「君の歌、届いたよ」

「彼に?」

「うん。あの空の向こうで、ちゃんと聴いてる」


 空を見上げる。

 夜の名残りがまだ淡く漂い、その中でひとつの小さな灯花が光っていた。

 朝日に溶けかけながら、それでも消えずに浮かんでいる。


「また、来年も歌うね」


 声は風に混じり、どこまでも柔らかく広がる。


 風が頬を撫で、灯花の欠片を抱いて舞い上がった。

 光が散り、空が澄む。

 世界がひとつ、息を吸い込んだように感じた。


 両手を胸にあてる。

 鼓動があった。その鼓動はもう、自分ひとりのものではなかった。


 朝の光の中で、目を閉じる。

 静かな余韻が、世界を包む。

 遠くで、誰かの声がした気がした。


──きっと、あの音だ。


 あの日の、灯花の音。


 そして、新しい歌が生まれる。それはまだ名前を持たない。


 けれど確かに、この朝に灯った。


 ―― END ――

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


灯花は“忘れるための祈り”というモチーフから生まれた物語です。

けれど、物語の中でルミナが見つけたのは、

「忘れても、想いは残る」というもうひとつの灯りでした。


この作品が、あなたの記憶のどこかに

ひとつの小さな光として残ってくれたなら、それがいちばんの幸せです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ