灯花の約束
春の夜の光と歌をテーマにした短編です。
「恋が終わること」と「記憶が残ること」は、きっと同じ灯りの形。
そんな思いで書きました。
ゆっくりとした呼吸で、夜の終わりまで読んでいただけたら嬉しいです。
春祭りの夜は、まだ始まっていなかった。
山あいの町を包む空気は甘く、花と蜜の匂いが混じっている。昼の熱が石畳に残り、指先で触れると、かすかな温もりが返ってきた。
広場では紙を切る音、糊の匂い、子どもたちの笑い声。それらが一枚の絵のように重なり、夕風がゆるく撫でていく。
灯花は、歌で灯る。
ルミナは胸の奥に手をあて、息の深さを確かめ、ひと音、声をほどいた。
薄い紙の灯籠がゆらぎ、内側に針の先ほどの光が生まれる。光は呼吸に合わせて膨らみ、声の高さに寄り添って色を変えた。
青、白、桃。
旋律が高くなると、光はひと筋の糸になって立ち上がり、まだ冷たい夜空の下で細く震えた。
「今年の歌は、少し切ないね」
耳元で風が笑った。風の精アエラが、灯花の縁を指でつつく。
光が膨らみ、笑いに応えるように瞬いた。
「切ないかな。優しくしたつもりだったんだけど」
「優しさは、いつも少し切なさに似てるんだよ」
アエラの声は、路地で鳴る口笛のように細く高い。
息を吸いなおし、次の旋律を探す。
喉の奥に小鳥が住んでいる。胸の内側をこつこつ叩き、もっと高く、もっと遠くへ、とせがむ。
小鳥の意地に負けて音を上げると、広場の端に積んだ灯花の枠が一斉に淡光を帯びた。花びらのように折られた紙の目が開き、町の影がほんの少し薄くなる。
「ねえ、アエラ。どうして灯花は歌で灯るの」
「心が芯だから。火の代わりに心が燃えるんだ。声はそのかたち」
「じゃあ、悲しい心は、暗い灯りになる?」
「暗い灯りは、暗いままできれいだよ」
風の指が頬に触れた。涙になる前の水の温度をしている。
そのやわらかさの向こう、屋根の影にひとつの影が立っていた。光に背を向けるように、夜と溶け合うように。
視線をそっと戻し、なにも気づかないふりで次の音を灯した。
◇ ◇ ◇ ◇
日がすっかり落ちるまで、広場は幾度も小さな祭りを繰り返した。
紙の切り屑が花吹雪になり、糊の滴が星座のように石畳に固まる。歌うたび光が生まれ、人々が笑い、また仕事に戻る。
その繰り返しの隙間に、ひとりの影があった。屋根の影から影へ、灯りの線を避けるように歩く。誰とも目を合わさず、何にも触れない。
一度目、偶然を装って視線を投げた。すぐ逸らされた。
二度目、紙束が風に攫われたとき、その影が一枚を拾い、指先で紙の縁に触れる直前で止まった。紙の影がその手で揺れ、やがて地面にそっと置かれた。
三度目、屋台の端を回り込み、広場を抜けようとしたとき、呼吸の間に言葉を差し込んだ。
「待って」
少年の驚きが、振り返る速さに出た。
月明かりが、少年の頬の輪郭を削る。近づくほどに輪郭は淡く、光のふちが透明になる。
まるで、ここにいることを誰かに隠しているようだった。
「どうして、灯花を見ないの」
言葉を探すように、沈黙が流れた。
「見ると、痛いから」
「光が?」
小さく頷く。
「触れると、消えてしまいそうで」
意味はわからなかった。
けれど、その声の奥に、なにかを失った人の響きがあった。
「ごめんね。さっきたくさん灯しちゃった」
「君が灯す光なら、きっと大丈夫だと思う」
声は風に似ていた。遠くから届くのに、胸の奥ではっきり響く。
風の音はときどき距離を無視する。少年の声もそうだった。
「明日も、来る?」
羽根のように軽い問いのつもりだった。けれど、その軽さが、かえって夜の空気を張りつめさせた。
少年は少しだけ笑い、返事の代わりに踵を返した。足音が石畳の目地をゆっくり数える。
「追わないの?」
アエラの声が耳をくすぐる。
「追いかけたら、ほどけちゃいそう」
「誰が?」
「わたしか、あの人か、夜が」
風が唇を尖らせるように笑い、屋根の旗をひとふりさせた。
◇ ◇ ◇ ◇
広場の灯が落ち、人の気配が薄れる。店先の布は結ばれ、紙片は桶に戻され、糊の匂いが冷たい湯気に変わる。 夜は眠る前に一度、静かに瞼を閉じる。
ルミナはその隙間で、息の位置を探した。
胸の小鳥は、まだ起きている。
声を出す。ひとつ、ふたつ。三つ目の音が石に降りたとき、灯花が膨らんだ。
音が光に触れると、光は音になる。灯花の腹に鈴があるみたいに、かすかな音が生まれた。
石段に当たって跳ね返り、足首にまとわりつく。きれいであることの理由を説明できないきれいさだった。理由のないものは、たいてい記憶に残る。
「──その音」
背後から声がした。
さっきの少年が立っていた。
少し近く、少し淡い。
声の高さを半分ほど下げると、灯花の光も同じだけ沈む。
「覚えてる」
光の輪郭をなぞるように、視線が動いた。
「昔、誰かが、同じ歌を歌ってた。ここでじゃないかもしれない。夜だった気もするし、昼だった気もする。覚えてるのは、光が鳴ったことだけ」
「だれが歌ってたの」
「思い出せない。思い出せないっていう思い出だけが残ってる」
言葉の形を風が覚え、少し運び、少し失くした。
灯花の縁に指を添え、息をかける。光が震え、震えが音に変わる。音は少年の胸の奥を叩くかのように届いた。
抱擁というより、ノックに近い音。──入ってもいい?と訊くような。
「明日、一緒に灯してみない」
言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
しばらくの沈黙のあと、少年は小さく頷く。
「名前を……」
声が頼りなく揺れた。
「ノア」
名を名乗ると、輪郭が一瞬はっきりした。名前はいつだって、世界のこちら側へ身体を引き戻す。
灯花の音が少し濃くなった。
「ノア」
唇でその音を確かめるように繰り返した。
遠い丘の向こうで誰かが試しに灯したのだろう、ひとつの灯花が空へ上がった。風が向きを変え、音も向きを変え、二人の間をすり抜けていく。
そのとき、ノアの目に光が映った。
痛みに怯えるような影は、もう顔になかった。
「また、明日」
その言葉は夜の奥に沈み、星と混ざった。
アエラが影の上で寝返りを打つ。
「恋の音って、いつも少し遅れて聞こえるんだよ」
「どうして」
「世界が追いつくのに、時間がいるからさ」
灯花の火を掌で包む。
熱はなく、心臓の鼓動よりも確かな脈が、指の腹をやわらかく押し返してきた。
◇ ◇ ◇ ◇
祭りの夜が来た。
空には、まだ誰の灯花も浮かんでいない。
人々は広場に集まり、息を潜めて歌の始まりを待っていた。風は凪いで、遠くの鈴の音だけが響く。
この静けさの向こうで、ひとつの祈りが芽を出そうとしている。
灯花の材料を抱え、ルミナは広場に立った。
薄桃色の紙、金の糸、乾いた香草の香り。
手のひらにのせると、鼓動に合わせて紙が微かに揺れた。
もう、それは心を持っているかのようだった。
「来てくれたんだね」
灯籠の陰に、ノアがいた。
夜の粒子が身体のまわりに集まっている。
光に怯える気配はない。ただ、息のひとつひとつが慎重だった。
その静けさが、やさしさの形に見えた。
「約束したから」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の小鳥が一度だけ羽を打つ。灯花を作る手が少し震えた。
「一緒に、灯してみよう」
祭りの鐘が鳴り、子どもたちがいっせいに歌を重ねる。
ルミナはノアに糸を渡し、自分の声をその糸に沿わせた。
声が紙を撫で、光が滲む。糸が光を吸い上げ、二人の指先のあいだでゆっくりと熱を持ちはじめた。
「……あたたかい」
驚きよりも、感謝の色を帯びた声だった。
「光って、こんなふうなんだね」
ルミナは頷く。
「怖くない?」
「少し。でも、君がいるなら」
灯花が膨らみ、青白い音が広場を満たした。
人々のざわめきが遠のき、光がふたりだけを包む。
アエラの声が風に混じる。
「恋ってね、灯花に似てるんだ。灯せば灯すほど、夜が深くなる」
目を閉じ、声を重ねた。
ノアの手の震えが、呼吸と混じって伝わる。
鼓動がひとつの旋律を描く。その律動に合わせて、灯花が天へ昇りはじめた。
ひとつ、またひとつ。
ほかの灯も後に続き、夜空が花のようにひらく。
光が舞い上がるたび、音が生まれ、音が重なり、広場全体がひとつの歌になっていく。
その中で、ふたりだけが無言だった。
言葉はいらなかった。
光と呼吸が、すでに言葉の代わりになっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
風が変わる。
高く昇った灯花が、ひとつ、ふたつと揺れを失いはじめた。
その光の下で、ノアが口を開いた。
「言わなきゃいけないことがある」
目の奥に、灯花の残光が映っている。
その光が消えぬうちに、聞こうと思った。
「ぼく、去年の祭りで……灯花を追って、川に落ちたんだ」
言葉が夜に滲む。
「みんな、ぼくのことを探したけど、見つからなかった。きっと、あのときの光が、まだどこかで呼んでるんだと思う。君の歌を聞いたとき、戻ってこられた気がした」
風が音をさらい、広場が静まり返る。
周囲の灯花がまるで耳を傾けるように、音を止めた。
「君の灯りに触れると、胸が痛くなる」
ノアの声が少し震えた。
「でも、それは痛みじゃなくて……あたたかい。君の歌は、生きていた頃の世界の音がする」
涙は出なかった。
悲しみではなく、祈りのような何かが胸に満ちていた。
「もし、また消えてしまうなら」
声が震えた。
「その前に、灯りを見て。わたしの灯りを」
歌が始まる。
静かな旋律が、灯花の奥に吸い込まれていく。
ノアの身体が淡く透け、空気が柔らかく光りはじめた。その光を見た瞬間、胸の奥がふっとあたたかくなった。
「ありがとう」
ノアが微笑む。
「もう、怖くない。君が灯してくれたから」
風が広場を巡り、無数の灯花がいっせいに昇る。光が天に触れるたび、夜が優しく明るくなっていく。
ノアの姿がその中で薄れ、透け、光と混ざっていった。
アエラの声が風に乗る。
「灯花はね、願いを忘れるためのもの。でも、君たちはきっと忘れない」
声が消えるころ、空はすでに金色に染まりかけていた。
◇ ◇ ◇ ◇
空は、花びらのような光で埋め尽くされていた。どの灯花も、ほんの少しずつ色が違う。
赤は願いの名残、青は祈り、白は約束。
それらが混ざって、夜空がひとつの呼吸になっていた。
ノアの輪郭は光に溶けかけている。
広場の真ん中で、光を浴びながら静かに立っていた。まるで、光が彼を呼び戻しているようだった。
「もう、行くの?」
声を出すたび、胸の奥の灯花が少しずつ燃えていく。
ノアは微笑んだ。
「この灯は、きっと君の歌の続きなんだ。ぼくは、それを見届けるために戻ってきた」
風が流れ、灯花がひとつ弾けた。
紙が破れる音が、鈴の音に変わる。
手を伸ばす。けれど、指先は何にも触れられなかった。
「ねえ、もう少しだけ、歌って」
ルミナは頷き、深く息を吸った。
光と風と涙が混ざる場所で、声が生まれる。
──灯花が鳴る。
光が音に変わり、音が夜を満たす。灯花が鳴った。
その音は、どこかで聞いたことのある響きだった。
いま歌っているのは自分なのに、胸の奥で“誰かの記憶”が返事をしていた。
最初に灯した音が、静かに戻ってくる。
ノアの姿は薄れ、光の粒となって舞い上がる。その一粒一粒が、空の灯花へ吸い込まれていく。
夜空が震え、広場のすべての光が音を奏ではじめた。
まるで世界そのものが歌っているようだった。
足元にも灯花が降り、掌の上で音を立てて消えた。
熱はなかった。それでも、手の中には確かに脈が残っていた。
それはノアの鼓動に似ていた。
風が止まり、夜が静まる。
光の粒が最後の旋律を奏でると、そのすべてが空へ還っていった。
広場には、ひとりだけが残された。
それでも、孤独ではなかった。胸の奥で、まだ歌が生きていた。
◇ ◇ ◇ ◇
夜が明ける。
空の端が薄い金色に滲み、山々の輪郭がゆっくりと浮かび上がる。祭りの残り香が、静かな煙のように漂っていた。
広場には、壊れかけた灯花がいくつも転がっている。
ひとつを拾い上げると、紙の端に小さな焼け跡があった。その跡は、まるで指先の形をしていた。
「……ありがとう」
声に出した瞬間、灯花の破片がふわりと浮かんだ。
風の精アエラが、朝の光の中に現れる。
「君の歌、届いたよ」
「彼に?」
「うん。あの空の向こうで、ちゃんと聴いてる」
空を見上げる。
夜の名残りがまだ淡く漂い、その中でひとつの小さな灯花が光っていた。
朝日に溶けかけながら、それでも消えずに浮かんでいる。
「また、来年も歌うね」
声は風に混じり、どこまでも柔らかく広がる。
風が頬を撫で、灯花の欠片を抱いて舞い上がった。
光が散り、空が澄む。
世界がひとつ、息を吸い込んだように感じた。
両手を胸にあてる。
鼓動があった。その鼓動はもう、自分ひとりのものではなかった。
朝の光の中で、目を閉じる。
静かな余韻が、世界を包む。
遠くで、誰かの声がした気がした。
──きっと、あの音だ。
あの日の、灯花の音。
そして、新しい歌が生まれる。それはまだ名前を持たない。
けれど確かに、この朝に灯った。
―― END ――
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
灯花は“忘れるための祈り”というモチーフから生まれた物語です。
けれど、物語の中でルミナが見つけたのは、
「忘れても、想いは残る」というもうひとつの灯りでした。
この作品が、あなたの記憶のどこかに
ひとつの小さな光として残ってくれたなら、それがいちばんの幸せです。




