絶対に渡さない
今、夏生の家の前では、雪奈が危惧していた光景が、実際に繰り広げられていた。
「……夏生」
「さ、冴。なんで、これからは別に行こうって言ったのに」
「そんなの、納得できるわけないでしょ」
冴が夏生の家にやってきたのだ。
堂々と玄関のチャイムを鳴らし、図々しく夏生の家族と笑顔で挨拶をかわして、冴は夏生を呼んでほしいとお願いしていた。
親の手前、不自然に拒否することもできなかったのだろう。夏生は恐る恐るといった様子で家から出てきた。
そうして今ふたりは、夏生の家から少ししか離れていない場所で向き合っている。
ずっと夏生を束縛していた幼馴染だ。こんなストーカーまがいな事をしても不思議ではない。自分のことばかり考えている頭のおかしい人間は、そういう普通の人には考え付かないことを、当たり前のようにやってしまうものだから。
そう思っていたからこそ、雪奈は昨晩からずっと心配していたのだ。
絶対にこういうことをしてくると確信していた。だからこうして、雪奈は待ち合わせの何時間も前から、夏生の家の付近で張り込んでいたのだ。
「説明してよ夏生。昨日のこと全部」
「全部って、だから僕は雪奈さんと付き合うことになったから、冴とはもう一緒には」
「そうじゃない! どうして急にそんなことになってるのかって聞いてるの!」
夏生の言葉を遮って、冴が大きな声を出す。
反射的に身体を縮めた夏生は、萎縮して動けなくなってしまったようだ。
そんな夏生に向かって、冴は声を荒げ続ける。
「あたしは夏生から芳賀さんが好きだなんて聞いたことない! 昨日の放課後だって、あたしに気づいて走ったでしょ! ずっと待ってたのに夜になっても帰ってこないし! 連絡すら返さない! あたしのこと避けてるでしょ!」
「さ、避けてるわけじゃ、僕はただ、雪奈さんと一緒にいただけで」
「ふざけないでよ! ずっとそばにいてくれるって言ったじゃん!」
詰め寄る冴が夏生の両肩を掴む。
その形相から想像できるとおり、きっとすごい力なのだろう。掴まれた夏生が痛みで顔を歪めていた。
もうここまでだった。
夏生に避けられたことで冷静になり、自らの行いを省みて心から反省し、土下座でもして謝って、それから二度と姿を見せないと夏生の前から立ち去れば、最低なことには変わりないが、情状酌量の余地があったかもしれない。
けれど冴は、あろうことか夏生に詰め寄り、大声で怒鳴って夏生を萎縮させた。
その光景を目にして、雪奈は確信したのだ。
冴が自分を苦しめた元彼氏と同じで、自分の欲を満たすためなら、何でもしてしまう、頭のおかしい自己中人間なのだと。
雪奈は冴に対して、このときすでに、憎悪に近い感情を抱いていた。
だが、冴は腐っても夏生の幼馴染だ。心のどこかでは、元彼氏のような人間よりは、まだ少しでもマシなはずだと、そう雪奈は期待していた。
だがそんな期待は無意味だった。
雪奈は認識を改める。
もう夏生の幼馴染だからという期待はしない。
あれは元彼氏と同じもので、夏生を苦しめることしかしない存在だと理解する。
雪奈の中で冴への憎悪が際限なく膨らんでいく。
気持ち悪くて、消えてほしくて、夏生に触れないでほしくて、とにかく自分の世界から排除したくて。
身を潜めていた雪奈は、夏生を守るために飛び出した。
「な~つきくん! おはよ!」
呆気にとられたような二つの視線が雪奈に向けられる。
二人の反応は至極当然のものだろう。
先ほどまでこの場には、重苦しくて、逃げ出したくなるような空気が蔓延していた。そんな中に平然と、まるで気まずさを感じていないような顔で、気の抜けるような声を響かせて雪奈がやってきたのだから。
いくら空気を読むのが下手くそでも、こんな状況に割って入る者はいないだろう。だからこそ、夏生も冴も固まってしまっていた。
雪奈はそんなふたりの反応を気にせずに近づいていき、夏生と冴の間に身体を割り込ませた。
夏生の肩を掴む冴の両手を、一瞥もすることなく振り払って。
「おまたせ~、彼女が迎えにきたよ!」
「え、あの、雪奈さん?」
「ん? あぁごめんごめん。ちょっと待たせちゃっった?」
「いや、そうじゃなくて、なんていうか、その、冴が」
かすれるような夏生の言葉を聞いて、それからやっと雪奈は後ろにいる冴に視線を向けた。まるで、今までそこにいることすら意識していなかったように。
「あれ黒川さんだ。どうしてここにいるの?」
「ど、どうしてって! 今あたしは夏生と話をしてて」
「あぁ、いつも夏生くんと登校してたんだっけ、でもごめんね黒川さん。これからは私が夏生くんと登校するから、遠慮してほしいな」
雪奈はわざと冴の言葉を遮って笑ってみせた。
絶句したように一瞬押し黙る冴。だが次の瞬間には、先ほど夏生へ向けていたものよりも、数段酷い形相で詰め寄ってくる。
「アンタなんなのよ! 急に出てきて夏生に色目つかって! 今あたしが夏生と話してたんだから! そっちが遠慮しなさいよ!」
おでこがくっつきそうなほど顔を近づけて、唾をとばしながら、冴は必死の形相で睨みつけてくる。
こんなにも激しい剣幕で怒鳴られたら、大抵の人間が身を引くことだろう。
けれど雪奈は、その場から一歩も引かなかった。
背中に夏生を隠して盾となり、冴とは対照的な、余裕の笑みで迎え撃つ。
「ねぇ黒川さん。私の話し聞いてる? 恋人同士ふたりきりになりたいから、遠慮してって言ったんだけど」
「そっちこそあたしの話し聞きなさいよ! さっきから自分の言いたいことばっか言って!」
「はぁ~、話しになんないなぁ。もういいや。ねぇ夏生くん、変な人は放っておいて、もう行こっか」
大げさに溜息をついて、雪奈は冴に背を向ける。
あからさまに敵意をむけてくる相手に、こちらはまったく眼中にないんだと、その背中で伝えるかのように。
「ほら、今日も手、繋ごう?」
「え、あ、うん」
そんな雪奈の行動に、冴だけでなく、夏生すらついてこれていないようだった。
呆けているのだろう。雪奈が手を差し出すと、夏生は反射的に握り返してくれた。
雪奈は夏生の手にしっかりと指をからませ、冴に背を向けたまま歩き出す。
冴のことなど本当にどうでもよくて、気にする必要もない存在だと思っているんだとわからせたくて。
「ま、待ちなさいよ!」
だが冴も、それくらいでは折れてくれなかった。
立ち止まっていたのは一瞬だけで、慌てたように駆け足で追いかけてきた冴に、雪奈は肩を掴まれる。
指がめり込んでくるようなもの凄い力で、先ほど夏生が顔を歪めたのも納得の痛みだった。
だがそれでも、雪奈は顔色一つ変えず、視線だけを冴に向けた。
「ねぇ黒川さん? いい加減邪魔しないでくれないかな?」
「邪魔してるのはそっちでしょ! 夏生を返してよ!」
「返して? 何言ってるの? 夏生くんは黒川さんのものじゃないでしょ?」
「あたしのに決まってるでしょ! アンタのじゃない!」
「別に私のなんて言ってないよ。夏生くんはものじゃないんだから」
「このっ!? それはただの揚げ足取りでしょ!」
「まぁでも、私は夏生くんの彼女だからぁ、私のと言ってもいい立場ではあるよね」
「アンタねぇ!」
雪奈の挑発全てが、冴には効いているのだろう。
感情的になっている冴は、クラスメイトたちの前では必ず被っていたはずの猫を、今はすっかり忘れてしまっているようだ。
冷静さを失い、感情に流されるがままになれば、周りも見えなくなるし、普段なら気を付けていることもできなくなる。
今の冴がまさにその通りで、自分が詰め寄っている相手が、クラスメイトの一人だということも失念してしまっているらしい。
それがどんな影響を及ぼすかなんて、きっと微塵も考えられていないのだろう。
「ねぇ黒川さん、どうしてそんなに必死になって邪魔するの?」
「はぁ? ど、どうしてって、それはアンタが夏生を連れていこうとするから!」
「私は夏生くんの彼女だよ? 一緒にいるのが当然でしょ?」
「あたしだって夏生の幼馴染なんだから! あたしだって!」
「幼馴染だからなに? 恋人同士の邪魔しようとするってことは、黒川さんも夏生くんのことが好きなの?」
「なっ!? そ、そんなわけないでしょ! 夏生はただ!、あたしの」
「違うの? なら黒川さんには、邪魔する権利すらないよ」
絶句したように言葉に詰まり、それでもなんとか反論しようとする冴の言葉を、雪奈は途中で遮断する。
「黒川さんが夏生くんのことを好きじゃないなら、貴女はライバルでもなんでもない。それで恋人同士の間に入ろうとしてくるのは、ただの邪魔なだけの人」
「じゃ、邪魔って」
「私にとっても、夏生くんにとっても、それに、クラスの皆もそう思うだろうね」
「なっ!?」
「そうなりたくないなら、この手を放してくれない?」
まだ残っていた理性が働いたのだろう。雪奈の脅しの意味を理解したらしい冴は、苦虫を嚙み潰したような顔になり、それからゆっくりと手を放した。
それでも納得なんて微塵もしていないようで、悔しそうに唇をかみしめた冴は、今にも手を出してきそうな目つきで睨みつけてくる。
雪奈はその視線を正面から受け止めた。
たとえ暴力をふるわれることになったとしても、雪奈はまったく怖くなかった。
後ろにいる過去の自分と同じ目に合っていた少年を守るためなら、なんだってできる気がしたから。
夏生はきっと冴が怖くてなにもできないだろう。
たとえ振り返らなくても、雪奈には後ろにいる夏生が、震えているのがわかるのだ。だってそうやって、ただ震えていたのが過去の自分だから。
だから雪奈が守ってあげなければならない。
はじめはただ、放っておくことができなかっただけだった。
けれど、今はもう違う。
雪奈は夏生のことを心から救いたいと思っていた。
彼女になったのは作戦がきっかけだったけれど、恋人として夏生と触れ合っている時間は、雪奈が新しい生活として求めていた、幸せな日常そのものだった。
言いなりにされて尊厳を踏みにじられることなんてない。お互いがお互いを尊重し、優しい気持ちを向けてもらえる。そんな心があったかくなる幸せな日常の中に雪奈はずっといたかった。
相手に怯えて過ごすしたくない。
自分の意思を無視されたくない。
日々を笑って過ごしたい。
自分も夏生も、そんな些細なことを望んだっていいじゃないかと、雪奈は強く思う。
そんな幸せな日常を送るため、雪奈には夏生が必要で。
だから雪奈は、絶対に夏生を守ると決めたのだ。
自分の欲を満たすために、夏生を傷つけた冴になんか絶対に渡さないと決意する。夏生は雪奈が夢見た日常の、大切な一部なのだから。




