寒がりの嘘
「ねぇ雪奈さん。どうしてこんなに優しくしてくれるの?」
その純粋な視線を向けられたとき、雪奈は極力自然に見えるような動作で、カーディガンの袖を伸ばしていた。
走っているうちに暑くなり、無意識に捲ろうとしてしまっていたのかもしれない。
夏生はまっすぐに雪奈の瞳を見つめてくる。その瞳は、ただ質問の答えを求めていて、よけいなものはなにも映っていないように見えた。
だから、見られてはいないだろう。
動揺を悟られないように、雪奈は普段通りに笑ってみせる。
なにも心配することはないんだよと、夏生を安心させてあげたくて。
”芳賀雪奈”は、この春、二年生の開始と同時にやってきた転校生だ。
誰にでも友好的で、コミュニケーション力が高い雪奈は、すぐにクラスに馴染み、新たな生活の場で、すぐにその存在を受け入れられた。
明るくて親しみやすい性格と、整った外見。さらには自らクラス委員に立候補する積極性と献身性で、雪奈はクラスの中で、安定した立場を確保していたのだ。
出だしから順風満帆の新生活。
すぐにその存在感を発揮し、クラスにいないと違和感があるくらい馴染んだ雪奈。新生活の開始から順調そのものな雪奈を見ていれば、誰もが雪奈を、転校してくる前の学校でも、クラスの中心的な人物だったのだろうと、以前の学校の様子が気になったことだろう。
実際に雪奈は新しいクラスで、転校してくる前の学校のことを、何度も聞かれることになった。
彼氏はいたの?
かわいい子いた?
不良っぽい人とかは?
雪奈はその質問の一つ一つに丁寧にこたえた。
前もって考えていた、嘘を。
転入初日から、雪奈はつとめて明るく振舞い、第一印象から自分のイメージを徹底的に作りこんだ。誰とでも仲良くなれる、打ち解けやすい女の子として。
名前は捨てることができない。けれど、捨てることができる過去は全て捨てた。
過去の芳賀雪奈とはまったく違う、まったく新しい”芳賀雪奈”として、新たな場所での新生活を送るために。
雪奈の計画は、転入前から入念に準備をしていたおかげで、大方上手くいった。気さくな女の子として、すぐにクラスに馴染むことができたのだ。
そうなると当然、クラスメイトたちとの会話の機会も多くなる。転校生というだけで、こういうことを聞かれるとわかっていた雪奈は、今このクラスに認知されている”新しい芳賀雪奈”としての過去も、前もって考えていた。
それはつまり事実ではないということで、だからクラスメイトたちには、必然的に嘘をつくことになった。
罪悪感がないわけではない。真実とはまったく違う作り話の過去は、まるで自分をよく見せるかのようで、気恥ずかしさもあった。
けれど、そんな些細な感情で嘘を止めることなど、雪奈にはできなかった。
絶対に知られたくない過去があったから。
雪奈はそれを知られたくなくて、いや正確には、忘れ去りたくて、新しい自分になりたかったのだから。
転校してくる前の学校で、雪奈には付き合っている同級生がいた。
「おい雪奈! 絶対誰にも言うんじゃねぇぞ! もし誰かに相談したらどうなるか、わかってんだろうな?」
「言わない、絶対言わないから! だからもう許して、お願い」
作り上げた”芳賀雪奈”とは違い、本当の雪奈は奥手で恥ずかしがり屋の、教室の端の方で過ごしているような女子生徒だった。
目立つことが苦手で、自らは積極的に前に出ることができない雪奈には、高校に入るまで恋人がいたことはなかった。
だからあるクラスメイトから告白されたとき、雪奈は人生初の出来事に独りで舞い上がったのだ。
だが、それが間違いだったと雪奈が気が付いたのは、告白を受け入れてすぐのことだった。
「オレの彼女になったんだから! オレの言う事を聞けよ!」
今になって考えれば、気弱だった自分は、初めから都合のよさそうな女として狙われていたのだろうと、雪奈は思っていた。
付き合ってすぐに身体の関係を求められ、まるでそんな覚悟をしていなかった雪奈は、嫌われるのが怖かったが、意を決してまだ早いのではと拒否の意を示した。その途端だった。
「口答えすんじゃねぇよ!」
はじめは穏やかそうな笑顔で声をかけてきた元彼氏が、見る影もないほど顔つきを変え、まるで別人かと思うほどに変わった口調で、雪奈に罵声を浴びせてきたのだ。
その突然の急変に驚き、雪奈は恐怖で声がだせなくなった。
それを無視と捉えたのだろう。恐怖で動けなかっただけの雪奈に向かって、元彼氏は、躊躇なく拳を振り下ろしたのだ。
お腹に深くめり込む拳。
あまりの痛みに声すらだせず、崩れ落ちた雪奈は、うずくまっていることしかできなかった。
元彼氏としては、拒否されることなど考えてもいなかったのだろう。少し優しくしてやれば、なんでも言う事を聞くような、気弱で自主性のない女だとでも、雪奈のことを思っていたようだから。
だから、そんな見下していた女に拒否されたことで、プライドを傷つけられた元彼氏が、その一発だけで納得するわけもなく、うずくまっている雪奈は、立て続けに暴力の嵐に晒されたのだ。
人生で経験したことのない痛みと恐怖。
それが雪奈をあっという間に、ただはいとしか言えない従順な人間に変えてしまった。
地面に額をこすりつけて謝って、必死に相手の全てを肯定して、なんにでも頷かなければ、どんな目に合わせられてしまうのかが怖かったから。
それ以来、雪奈は元彼氏の言いなりだった。
常日頃から機嫌を伺い、一言一言に気を使って、言われたことは全て受け入れる。それでも本当に些細なことで機嫌を損ねてしまい、暴力を受けるのは日常茶飯事だった。
それが雪奈の過去。前の芳賀雪奈が過ごした別の学校での一年生のときの出来事。
雪奈がそんな日々から解放されたきっかけは、ただの幸運だった。
言いなりにされる生活に雪奈が限界を迎えていたころ、元彼氏から暴力を振るわれている場面を、運よく他の人に見つけてもらえたのだ。
いや、運よくというのは少し語弊があるかもしれない。
あの頃、完全に雪奈を言いなりにしていた元彼氏は、自分の思う通りにできる女がいることに、すっかりと態度を大きくしていた。ほぼ一年の間、好き勝手やってきても、おとがめがない状況に警戒心をなくしていたのだ。
だから最初の頃は、小賢しさをみせ、お腹など、服で簡単に隠せる場所にしか手を出してこなかったのに、末期の頃は顔や腕など、どこだろうと気にせず傷をつけてきた。
自宅など、誰にも見られない場所に雪奈を連れてきていたのに、学校だろうと外だろうとお構いなしになっていた。
きっと元彼氏は壊れていたのだろう。肥大した支配欲に自らが支配され、周りが見えなくなっていたのだろう。
だから、見つけられるのは必然のことだったと言えるかもしれない。
とにかく、言いなりだった雪奈は解放された。けれどその代償に、元の学校では、常に同情や、奇異の目にさらされることになった。面白半分に何をされたのかと聞いてくる者もいたほどだ。
そんな状況で生活するのは、言いなりにされているときと同じくらい、精神的にキツイもので、逃げ出したくなった雪奈は、必然的に転校を決意したのだ。
雪奈の意思に、家族も反対の意を示すことはなく、滞りなく手続きは進んでいった。
そうして雪奈が新しい”芳賀雪奈”としてやってきたのが、この新たな学校だった。
誰も自分を知らない遠く離れた新たな土地で、過去をなかったことにする。それが雪奈が望んだこと。
だから雪奈は、転入前からまったく違う自分になろうと決めていた。
髪型を変え、一度もしたことがなかったカラーを入れて、ガラリと見た目の印象を一変させた。
内気な昔をまるで想像させないような、正反対の性格になれるように、動画などでたくさんの女性を参考にした。
雪奈はとにかく必死だった。新しい自分になるために死に物狂いになった。恥ずかしいとか、自分には似合わないという感傷を捨て去って、ただ生まれ変わるためだけに全てを費やした。
その極めつけは、独り暮らしを始めたこと。雪奈にとっては親ですら、過去とのつながりと同義であり、他と同じく決別したいものになってしまったから。
それほどまでに雪奈が入念な準備をしたのは、過去を捨て去るため。
そして雪奈の計画は、大方上手くいった。
新しい環境で雪奈は、明るい女子生徒として、クラスメイトたちに受け入れられたから。
けれど、どんなに上手く過去を隠せても、雪奈の本当の望みが叶うことはなかった。
雪奈は過去を忘れ去りたいのだ。
隠すのは、忘れるために必要なことだから。
けれど、いくら上手く隠しても、雪奈の心に深く刻まれた傷はふさがらない。
忘れたいのに、あの日々を雪奈は忘れられない。
体中に残された痣をみるたびに、やられたことを一つ一つ思い出してしまう。
生活の中の些細なことで、最悪な記憶が蘇る。
いくら新しい自分として過ごしても、寒がりのふりをして分厚いカーディガンで傷跡を覆い隠しても、刻まれたものは、無くなってくれなかった。
そうして、結局は新しい自分になっても意味などないのかもしれないと、絶望に片足を捉えられそうになっていたとき、雪奈はふと教室の中に、過去の自分がいることに気が付いた。
常日頃から機嫌を伺い、一言一言に気を使って、言われたことは全て受け入れる。そんなふうに過ごしていた過去の自分が、一人のクラスメイトに重なったのだ。
それが、春から一緒にクラス委員をしていた、夏生だった。




