4.無情なこの世は何色か
耳鳴りがする。
ざらりとした石畳の感触に頬が触れている。
ゆっくり身を起こせば、ちょうど辺りに立ち込めた砂煙が晴れていくところであった。
せっかくの綺麗な服が泥で汚れたが、怪我はしていないようで赤色はない。
ひとまず、安心していいんだろうか。
ふと気になって後ろを振り向けば、壊れた車椅子が主を見失っている。
ごめんね、なんにも悪くないのに。
心のなかで謝りつつ、また前を見る。
晴れた視界の中に飛び込んできたのは、暴れ狂う一人の青年。
片方が折れた角を持つ魔人の彼は、自我を失ったように手当たり次第壊していた。
少し離れたところには、鞭を握りしめたまま右往左往と動き回る貴族がいる。
大体の状況は察した、あの貴族が奴隷を暴走させてしまったらしい。
魔王から力を与えられている魔物や魔人は、生まれながらにして魔法を持っていたり、非常に高い身体能力を解放できたりする。
普段抑えられているそれらは、強い負荷をかけられると暴発するのだ。
それは、この世界の人間なら誰でも知っていることである。
だのに皆、暴走している青年の方を白い目で見る。
白い目、そう……青年を責めるように。
暴走させた張本人を誰も責めようとせず、青年を止めることもせず、遠巻きにしていた。
普通の反応だ、仕方のないことだ。
魔法が使えない人間に出来ることなんてなくて、青年が疲れ果てるか、力を使い切って死んでしまうのを待つしかない。
分かっているのに、どうしてこんなにも視界がぼやけるんだろう。
ほとんど無意識に、青年の方へ体が動く。
同時に、誰かが私を抱き止めた。
「……お嬢様。 ダメだ、逃げるヨ」
「あの子は、どうなるの。 ねえ、マリス」
「魔人なんて放っておけ。
助ける価値もない、人に害なす奴らなんて自壊するのを待てばいいのサ」
「…………っ!」
初めて聞いた、どこまでも冷たい彼の声。
けれど、それこそが世界にとっての普通であることを理解してしまった。
彼の声と同じ温度で、人々は暴れ狂う青年を見ている。
あんなにも苦しんでいるのに、彼らが手を差し伸べることはないのだと。
理解したと同時に、私はマリスを振り払って前に進んでいた。
「おい、待て……!」
何度でも転びそうになりながら、出来る限りの速度で走る。
きっと後で熱を出すと分かっていながら、やめる気はさらさらなかった。
張り裂けそうな心臓をおさえながら、生まれて初めての全力疾走をする。
近づく喧騒と、遠ざかっていくマリスの声。
ごめん、でも、私が行かないと。
たった一人で苦しむことの辛さを、誰にも知ってほしくないから。
それに、誰かに助けられることの嬉しさを、私は知っているんだ。
「安心して、もう大丈夫だよ」
瓦礫を掴んだ青年が、焦点の定まらない目を顔ごとこちらへ向けた。
息が上がっていてひどく不格好な私を、どう壊そうかと青年が見つめる。
その隙をついて、一気に距離を詰めていく。
「がっ……ぁ!!」
「ほら、平気だよ」
「……! ……!!」
細い体に腕を回し、優しく力を込める。
抱き寄せれば、彼は硬直した後に瓦礫を離して、声にならない叫びを私の耳元に落とす。
彼の全てを救えるとは、思わない。
私は彼を何も知らず、彼も私のことなんて知らないだろう。
それでも今は大丈夫だと安心してほしい。
ここに、手を差し伸べようとした人がいると知ってほしいんだ。
何があっても、私が隣に──。
そんな願いが、光に変わったのだろうか。
青年と私を包むように、目が眩むほどの光が現れる。
それは最初白く見えたが、そのうち色とりどりにわかれて青年と私を囲んだ。
これは、一体……?
呆然としていれば、辺りに優しい声が響いた。
『君は、僕を引き寄せた。
優しい心、僕は君をずっと待っていた。
授ケル者と授カル者、さあ契約を』
……いや、これは私と彼にしか聞こえていない?
周りの人は時間が止まったように、あんぐりと口を開けたまま動かないが、それは私の行動を見たからで。
誰も声なんて気にしていないように、ひそひそと何かを言い合っている。
私が抱きしめている彼だけは、ようやく焦点があった目で私を見下ろしていた。
じゃあ、さっきのは彼の声……?
問おうとして、がくんと力が抜ける。
え、ちょっとまって、まだ……。
繋ぎ止めようとするのも虚しく、体からごっそりと力が無くなる感覚に襲われる。
青年が私に手を伸ばしたのを見て、それきり視界がふつり──全てが暗転した。