2.黒い医者
柔らかい感触に包まれている。
うっすら目を開ければ、ベッドの天蓋が見えた。
指先を動かしてみると、高級感を感じさせる柔らかなシーツの感触。
ゆっくりと身を起こせば、ひらりと綺麗な銀色の長い髪が垂れたので指で掬う。
見たことない色素の髪、前より白い自分の肌。
本当に転生したんだと実感して、辺りを見回そうとした刹那。
「…………っ!? げほっ、がは……っ!」
急激に込み上げてくる、激しい咳。
連続した咳に邪魔されて息が吸えない、まずい、死んでしまう。
せっかくまた生きれるのに、こんな。
生理的なものとは別の涙が溢れそうになった時、誰かが優しく首元に触れる。
かちりと音がして首に何かを付けられると同時に、呼吸は緩やかに落ち着いていった。
「全く。 起きたと同時に死にかけないで欲しいネ、僕がどれだけ苦労していると?」
少し呆れを含んだ優しい声を辿って、顔を上げる。
……ペストマスクが間近に迫っていた。
「うわぁぁぁ!?!?」
「それだけ叫べるなら、結構だネ」
先に言っておこう、この世界で私は既に16歳。
これまでの記憶は今まさに引き継いだところで、もちろん目の前のペストマスク男のことも脳内に刻まれている。
でも、眼前にそれは、ビビるでしょ……。
早鐘を打つ心臓をおさえながら、離れていく男を目で追う。
どうやら、私にチョーカーをつけるため近づいていたようで、首元にぐるりと感触が残っていた。
「マリス……本当にびっくりするから、マスクを外してって何度も言ってるのに」
「アイデンティティさ」
細く一筋に束ねた純黒の髪を揺らしながら、彼はまた私の方を見た。
マリス、本名も容姿も不明の怪しすぎる男。
雇われの医者であり、彼もアルスだ。
大きく分けて5つの属性に別れるアルスの力のうち、彼は“癒”の力を授けられる。
他人を癒すために力を使う優しい人物だが、未だに自身のディロの存在を明かしておらず、やはり怪しい。
本人曰く“僕はまだ力を隠し持っているのサ”ということなので、たぶん隠し事だらけで信用しちゃいけないタイプの人。
とはいえ、こうして私の体を診てくれるので文句のつけようもないのだけれど。
うまく力の入らない自分の脚を見ながら、短い人生で何度目かの溜息を吐いた。
結論から言えば、容姿と環境以外で私は何も変わらなかった。
あまり動いちゃいけない病弱な人間で、歩くのがやっと。
走ったりなんてしたら、体調を崩すことは間違いないだろう。
すぐ熱を出すし、呼吸器官も弱いし、体力なんて全く期待しないでほしい。
しかし、幸いなことに環境には恵まれていた。
ラフィアンジュ国において、伯爵の地位を与えられたルミーリス家の一人娘。
それが転生後の私、名を『セイラ・ルミーリス』という。
可愛い名前だと、でれでれの顔でお父様が語っていた。
伯爵という地位にあるためお金にも困らず、満足した治療も受けられる。
困ったことと言えば、父が過保護なことだろうか。
あれやこれやと気を回し、決して私に無茶をさせない。
大金で雇ったマリスには、呼吸を楽にさせるチョーカーの開発だの、毎日の体調管理を命ずるだのと、かなり無茶な依頼をしている。
金さえ積めば何でもやってくれるマリスには、感謝と同時に畏怖すら覚えた。
医者だというのに白衣を着ず、いつも真っ黒なコートを纏う彼は死神にすら見える。
そんな彼は、どうして人を助けるのだろう。
当たり前すぎて聞かなかったことだけれど、ふと気になってしまった。
「……何かナ?」
「えっ、ああ……何でもないわ」
いつの間に見つめていたのか、彼が居心地悪そうに振り返る。
首を横に振って弁解すれば、彼はなにやら革のカバンに荷物を詰めて用意を始めた。
「今日は、外の空気を吸った方ガ良い。
久しぶりの散歩をしよう、あまり歩かせられないけどネ」
散歩!? 散歩だって!?
そう叫びたいのを堪えて、目を輝かせる。
もう一つ確認しておくこととして、私はまだアルスという存在になれていない。
魔法とはアルスとディロだけが使える限定的なもので、そのうちアルスには大きく分けて2つのパターンがある。
1つ、元より持つ魔力を自覚してディロを探しているパターン。
1つ、ディロと出会って初めて己の魔力を自覚するパターン。
転生した際に影から渡された知識によれば、私は後者らしい。
あの影め、それくらい口頭で伝えてよ……。
密やかな怒りを浮かべれば、ピースしているあの影が脳裏にチラついた。
幻影を、ため息で吹き飛ばしておく。
「……疲れてるかい? やはり、やめてお」
「いえ、行きます」
「そ、そう……?」
いつの間に部屋の外へ出ていたのか、再び入室してきたマリスは木製の車椅子を押していた。
座面には柔らかいクッションが敷いてある。
食い気味な返事に気圧されて、マリスは私が車椅子に座るのを手伝ってくれた。
ディロと会わねば力が分からないのなら、ここに居たって仕方がない。
散歩にでも行って、待たなければ。
というのもあるし、純粋に外の世界を見るのが好きなのもあるのだけれど。
心の底から楽しそうな顔をした私を乗せて、マリスはゆっくり車椅子を進ませた。