第9章 都市に沈む村
――最初に異変が起きたのは、都市の地下鉄だった。
通勤ラッシュの朝、地下鉄の車内に水が染み出したという通報が相次ぎ、複数の駅が一時閉鎖された。原因は「配管の劣化による漏水」とされていたが、映像には不可解な点が多すぎた。
濡れていたのは、天井からでも床からでもなく、乗客の足元だった。
誰もが一様に“膝下だけ”を濡らしていたのだ。
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「都市に、“村”が出現してる」
その言葉を口にしたのは、深谷梨花だった。
「“水神の構造”は、土地に縛られたものじゃない。“祈り”そのものが核なの。だから、誰かがそれを覚えている限り、どこにでも再現される」
蒼太は苛立ちを隠せなかった。
「それじゃあ、終わらない。何度でも、繰り返すってことか?」
梨花は静かに頷いた。
「でも、“完全な構造”にはまだ至ってない。……まだ、祭祀は始まっていない。“願い人”が選ばれてないから」
「俺が“鍵”なら……俺が止められるのか?」
「うん。けど、その代わり……“願い”をもう一度叶えなきゃいけない。たった一つだけ。叶えることで、循環を閉じられる。二度と誰にも手が届かないように」
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その夜、蒼太は駅のホームで“それ”を見た。
群衆の流れに逆らうように立つ、白いワンピースの少女。
水に濡れた髪。井戸の中で見たミオと、同じ姿。
「ミオ……なのか……?」
彼女は何も言わず、ただ蒼太を見つめ、にっこりと微笑んだ。
次の瞬間、電車がホームに滑り込み、視界を遮った。
電車が通過したあと、そこには誰もいなかった。
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日を追うごとに、“都市の水”は増していった。
・公園の池から、水が溢れて歩道に広がる
・オフィスビルの床に、足音が残るほどの濡れ跡が出現
・公衆トイレの鏡に、逆さ文字で「おねがい、かなえて」と書かれる
ニュースにはならなかった。
けれど、確実に“都市の下”に、何かが満ちてきている。
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梨花は言った。
「ねぇ先輩。……もう“鍵”が開きそう。あとは、“どんな願い”を最後にかけるかだけ」
「それを決めるのは……俺?」
「うん。……あなたが最後に願ったこと、まだ水は覚えてる。
“あいつを助けてくれ”。でも、あれじゃダメ。祈りとしての“核”が弱すぎた。循環を閉じるには、“意志を持った願い”が必要なの」
「意志……?」
「たとえば、こう。
“誰かのために願う。でも、その代償として自分がすべてを受け入れる”。それが“鍵”の願い」
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蒼太は考えた。
自分が水見村を訪れた意味。
悠人を追いかけた理由。
ミオと出会い、そして水神に選ばれた意味。
もしかすると、これは自分が“受け取るべき呪い”だったのかもしれない。
願いとは、誰かを救う魔法ではない。
何かを壊してでも、守りたいと願う覚悟。
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その夜、再び夢が訪れた。
水神の碑。その前に立つミオ。そして、その隣には、悠人の姿もあった。
「……ありがとう、蒼太」
彼は微笑んでいた。何も責めることなく。
ミオは手を差し出した。
「最後に……祈って。もう、水が限界なの」
蒼太は碑の前で目を閉じた。
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祈りは、言葉にならない願いだった。
ただ、“誰もこれ以上、祈りのために沈まなくていいように”と。
“誰かのために命を捧げることが、美徳とされないように”と。
「この祈りを……ここで終わらせる。
俺が、最後の願い人になる」
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その瞬間、都市の水が引いた。
地下鉄の床が乾き、公園の池が穏やかになり、鏡の文字は消えた。
祈りは、“都市”から消えた。
もう誰も、井戸を知らない。
水神の名も、碑の名も、消えていった。
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朝。
大学の掲示板から、“あのメッセージ”もなくなっていた。
深谷梨花も、もう姿を見せなかった。
彼女が現実の人物だったのか、それとも水神の使いだったのかは、もう分からない。
だが、蒼太だけは知っていた。
あの村が、あったこと。あの水が、確かに祈っていたことを。
祈りは終わった。
だが、“水”が消えたわけではない。
世界のどこかで、また誰かが静かに願いをかければ──