第6章 呼ばれし者
水は重たかった。
体を押し潰すように、まとわりつく冷たさ。息をするたび肺に水が入り、苦しさだけが意識を支配していく。
それでも、蒼太は叫び続けていた。
「俺が代わりになる……だから……誰も沈めるな……!」
やがて意識が薄れ、すべてが闇に沈んでいった。
──だが、そこで終わりではなかった。
⸻
次に蒼太が目を覚ましたとき、そこは“水の底”ではなかった。
まるで水面の裏側のような、静寂に包まれた空間。上も下もない、無重力のような世界に、自分は“浮かんで”いた。
不思議なことに、息ができる。体も痛くない。ただ、周囲には水のように透き通った空気が満ち、どこからともなく、誰かの囁きが聞こえる。
「……ようこそ、“選ばれし者”よ」
その声に振り返ると、水の中に人の姿が現れた。
白い和装に身を包み、顔を覆うような長い髪を垂らした女。
だがその顔は──見覚えがあった。
「……ミオ……?」
女は首を横に振る。
「私は“水神”──この村が創った“願いの化身”」
蒼太の頭が混乱した。
水神? 願いの化身? そんな曖昧な存在が、現実に目の前にいるというのか。
「あなたは、“願い”を拒んだ。誰かを助けるために、誰かを沈めることを拒んだ。だからここに来た。“沈め”ではなく、“鍵”として」
「鍵……?」
「この村は、“人々の願い”によって形を保ってきた。祈り、捧げ、叶え、そして沈める。
その循環が失われたとき、村は歪み始めた。私は、それを見守るために生まれた存在」
女──水神は、どこか寂しげに続けた。
「あなたのように、誰かのために沈もうとした者は、過去にもいた。けれど、誰も“ここ”まで辿り着けなかった。あなたは、“水の奥”に触れた初めての人間」
蒼太は必死に問いかけた。
「悠人は? ミオは? 村はどうなる?」
「答えはあなたが選ぶ。
このまま、あなたが“ここに残る”なら、村の“祈りの連鎖”は終わる。
もう、誰も消えなくなる。けれど、その代償に、“村という場所”そのものが消滅する」
「……村が……?」
「この水に“記憶された願い”は、土地に縛られている。循環を止めれば、水は枯れ、土地は死ぬ。
生きている者は村を出ていくしかなくなるだろう。それが“もうひとつの代償”」
蒼太の心は揺れた。
ミオの家族、村の人々、そして彼女自身の存在。
自分が救うはずのものが、同時に“壊すこと”にもなるのか?
「俺は……」
「決めなさい。
ここに残り、“願いの記憶”として生き続けるか。
それとも、“願いの水”そのものを破壊し、すべてを終わらせるか」
どちらを選んでも、完全な救いはない。
誰かを救えば、何かを失う。
だが──蒼太の目には、ひとつの答えが浮かんでいた。
「……俺は、願いに飲まれる村を、終わらせる」
女は静かに頷いた。
「では、“鍵”としての最後の仕事を」
水神が手を差し出すと、空間の奥に巨大な“水の碑”が現れた。そこには無数の名前が刻まれていた。
──その名を読み上げることで、全ての“記録”を消せるという。
蒼太は碑に近づいた。
指先が水の表面に触れた瞬間、全身が泡のように弾け、世界が崩れ──
光に包まれた。
⸻
蒼太が目を覚ましたのは、村の古びた神社の拝殿だった。
辺りには誰もいない。
スマホを手に取ると、圏外だった表示が、ふっと消え、電波が戻っていた。
スクリーンに表示されたのは、ただひとこと。
『記録は削除されました』
ミオは、もう村にはいなかった。
村の家々も、草木も、すべてが“空白”になっていた。
誰もいない。
ただ、鳥居の横にだけ、一輪の百合の花が落ちていた。
村は消え、記録も消えた。
だが蒼太の中には、“誰かの声”と“願いの水”の冷たさが残っていた。