第5章 井戸の底へ
夢の中で見た写真。
それは現実にもスマホの中に残されていた。
スクリーンに表示された画像は、古ぼけたモノクロ。
小さな子どもたちが並んで笑い、大人たちがその背後に立っている。だが、その顔の一つに蒼太は目を奪われた。
──川原悠人。
学生時代の同期で、数年前に行方不明になった彼が、なぜその写真に映っている?
あり得ない。年代が合わない。どう考えても、数十年前に撮られたものだ。
にもかかわらず、確かにそこに“彼”はいた。
震える指先で、画像の拡大を試みた瞬間、スマホの画面がふっとブラックアウトした。
そして、画面の中から水音が鳴った。
──「……さあ、来て。あなたの番だよ」
女の声だった。けれど、誰の声かはわからない。
ただ、確かに“呼ばれた”と、蒼太の心は直感した。
⸻
夜、蝉の鳴き声が途切れたあとに、ひときわ大きな蛙の鳴き声が響く。
村は、ひと気を失ったかのように静まり返っていた。
蒼太は、ひとり井戸へと向かった。
懐中電灯の明かりが井戸の縁を照らし、濡れた木の手すりが艶めいて見える。
注連縄は切れかけ、誰かの手で緩められていた。井戸の口は、今や“境界”としての色を濃くしていた。
ふと、背後に気配を感じた。
「……来ちゃダメだって、言ったのに」
ミオだった。
彼女の目は、光の届かない夜の底でわずかに揺れていた。
「……呼ばれた。行かなきゃいけない気がするんだ」
「それが、“水神の選び方”なんだよ。夢を見て、声を聞いて、思い出す。“あっち側”に繋がってしまった人間は、もう戻ってこれなくなるの。……私の妹もそうだった」
蒼太は視線を逸らさなかった。
「なら、確かめないといけない。悠人が、あそこにいるのなら……助けたいんだ。放っておけない」
ミオはしばらく黙っていたが、懐から一本の縄を取り出し、手渡した。
「……これ、村の祭具倉にあった“送り縄”。本当は祀りのときに井戸に降ろすための道具。でも、誰ももう使わないから……あなたが使って」
それは、ぼろぼろになった麻縄だった。だが、中心には御札のような白紙が巻きつけられ、何かを封じるような力を持っていた。
蒼太はそれを手にし、井戸の縁に足をかけた。
「行くよ」
ミオは小さく頷いた。
⸻
井戸の中は、まるで空洞だった。
縄を頼りに、蒼太はゆっくりと降りていく。湿った空気。ぽたぽたと頭上から落ちてくる水滴の音。
やがて、足元に冷たい泥が触れた。
底にたどり着いたのだ。
そこには……空間があった。
井戸の中に、広がっているはずのない地下の空洞。壁は水に濡れ、ところどころに古い木札や御札が貼られている。
中央には、ひとつの“水たまり”があった。
だが、それはただの水ではない。
まるで鏡のように、表面が揺らがず、蒼太の姿を写していた。
──「ようやく来たな」
その水面に、“もうひとりの自分”が口を開いた。
──「お前は選ばれた。記憶を掘り返し、写真を見つけ、夢を見た。もう戻れないぞ」
蒼太は反射的に叫んだ。
「俺は、お前なんかじゃない! 悠人を返せ!」
水面がぐらりと揺れ、今度は悠人の姿が浮かび上がる。
全身が濡れていた。
だが、そこに確かに“生”を感じた。
「……蒼太、なのか……?」
「お前……無事だったのか?」
「いや……分からない。ここがどこなのか、いつからいるのかも。……でも、ようやく、お前が来てくれた。俺は……帰れるのか?」
水面が再び揺れた。
──「叶えてやろう。だが、“一つ”だけ。叶えたその瞬間、もう一つを“沈める”」
あの言葉だ──《叶うは一、沈むは一》
「……どういう意味だ?」
──「お前が誰かを“戻す”なら、別の誰かを“沈める”必要がある。悠人か、ミオか。選べ」
蒼太は言葉を失った。選べるわけがない。
「ふざけるな……そんなの、どっちも選ばない!」
──「ならば、お前自身が“沈め”となれ」
その瞬間、井戸の水が暴れたように溢れ、天井まで弾け飛んだ。
水にのまれる。
思考が止まる。
だが、直前、蒼太はミオの顔を思い出した。
──彼女の目。悲しみをたたえた、助けを求めるようなあの目を。
「俺が……代わりに……!」
声が届いたかどうかもわからないまま、世界が水に沈んだ。
「沈むは一」──
蒼太は選んだ。誰も犠牲にしないために、自ら“沈め”となることを。