第4章 水の中の真実
蒼太は眠れなかった。夜明け前、目が冴えたまま、井戸のそばに立っていた。
暗い。だが、月明かりだけで、その井戸はまるで底なしの穴のように、黒く口を開けていた。
耳を澄ませると、風の音に混じって、水音が聞こえる──気がする。
いや、それは錯覚ではなかった。空気の湿度が、肌にねっとりとまとわりついてくる。
「……なあ、お前は……本当に、何なんだ」
誰にともなくつぶやく。
そのとき背後から、足音が近づいた。振り返ると、ミオが手に布を抱えて立っていた。
「……朝、早いね」
「君こそ。こんな時間に……」
「夢、見たでしょ。昨日の夜」
蒼太は、はっとした。
彼女は、あの夢のことを知っている。確信を持ったような瞳で、それを口にしてきた。
「見たんだ、悠人くんのこと」
「……どうしてそれを……」
ミオはゆっくりと歩き、井戸の前で立ち止まる。
「ここに呼ばれた人は、皆“見せられる”の。水神様に囚われた人たちの夢。……それが、この井戸の“力”なんだって、祖母が言ってた」
祖母──蒼太は初めて聞く単語だった。
「……君の祖母って……?」
「この村の最後の“水司”。儀式を行っていた家系の末裔。もう今は、誰もやってないけどね」
ミオは井戸に布をかけながら語り出した。
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水見村では、かつて**「水神」**を祀る風習があったという。
豊作を願い、病を祓い、雨を乞うための祭礼。その中心にあったのが、この井戸だった。
年に一度、真夏の十五夜。
「願い人」と呼ばれる者が井戸に祈りを捧げ、名を唱え、その代償に何かを“奉納”する。
最初は作物、次に家畜、そして──人。
「でも、時代が進むにつれて、“代償”が曖昧になっていった。何を捧げれば祈りが叶うのか分からなくなって、誰も井戸を使わなくなった。でも……井戸は忘れなかった。願いを欲しがってる人間を、ずっと待ち続けてた」
だから──今でも、願えば叶う。
ただし、“引き換えに誰かが消える”というルールだけが、村に残り続けているのだ。
「私は……止めたいんだ。もう、誰もいなくならないように。でも、私ひとりじゃ……何もできない」
ミオの声が震えていた。
「……この村は、いつか“沈む”の。井戸じゃなくて、村ごと、ね。水が満ちる。そう言われてきた。水神様が怒ったとき、“全部”持っていくって。だから、悠人さんのことも──」
そのとき、井戸の奥から、「コポン……」という水音が聞こえた。
ミオはぴたりと口を閉じ、目を伏せる。
「……いま、呼ばれてるのは……あなたかもしれない」
蒼太は言葉を失った。
「そんな……俺は、ただ調べに来ただけで……!」
「それでも、村に入った。井戸を見た。話を聞いた。水神様は、そういう人を選ぶの」
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その日の昼、ミオは古い巻物を見せてくれた。濡れたように柔らかくなった和紙には、筆で描かれた図と文字がある。
《願人は井戸に名を唱えるべし。叶うは一。沈むは一。》
「……“叶うは一、沈むは一”?」
「祈りが叶うかわりに、誰かが“沈む”ってこと。“水の帳”に、沈められるの」
それはもう、単なる都市伝説の域を超えていた。
誰がそんなルールを決めたのか。なぜ神は“代償”を求めるのか。
だが──それでも蒼太は信じきれなかった。
この村が、自分の常識を超えた“別の世界”だということを。
だからこそ、その夜、再び彼は“あの夢”を見たのだ。
⸻
夢の中、彼はまたあの井戸の前に立っていた。
水面が開き、今度は別の“顔”が浮かび上がってくる。
──ミオの妹、ユリ。
少女は目を伏せ、両手を前に差し出していた。何かを訴えるように。
その手には、一枚の写真──
それは、かつての水見村。笑顔の子供たち、そしてその後ろに立つ、大人たち──その中に、見覚えのある男がいた。
「……これは……!」
目が覚めた蒼太は、震える手でスマホを掴んだ。
圏外のままの画面に、なぜか一枚の画像が保存されている。
夢で見たあの写真──と、まったく同じもの。
水はもう、“彼の外側”だけではなく、“内側”にも入り込んでいた。
村の歴史、井戸の儀式、そして沈められた者たちの記憶。
蒼太は真実に近づきつつあるが、それは同時に“水神の選定”が始まったことを意味していた。