第3章 見えない水
夜の水見村は、まるで時が止まったかのようだった。
外灯はひとつもなく、村全体が月明かりだけに照らされている。川のせせらぎも、虫の音も、どこか遠くで鳴っているように感じた。
ミオの案内で、蒼太は空き家のひとつに泊まることになった。かつて誰かが住んでいたらしいが、今は使われていないようだった。畳は古く、壁の隅には黒ずんだ水染みが広がっていた。
「ありがとう。……本当に、泊まってもいいの?」
「いいよ。もう誰も住んでないし、こっちの人たちは気にしないから」
ミオはそう言って、懐中電灯を置いて帰っていった。彼女の背中が闇に溶けるように消えていくのを見送りながら、蒼太は深く息を吐いた。
⸻
その夜──
蒼太は、誰かの気配で目を覚ました。
……水音。
耳元で「ちゃぷ、ちゃぷ」と水をかく音が聞こえる。まるで誰かが、部屋の中で足を踏み入れているような──そんな生々しい湿り気のある音。
慌てて電灯をつける。部屋の中には誰もいない。
だが、畳が濡れていた。
自分が寝ていた場所のすぐそば、しずくがポタリと垂れたような跡。辺りを見渡しても、水の出どころはわからない。窓も閉まっている。雨の気配すらない。
「……なんだよ、これ」
乾いた喉に水を流し込もうと、台所へ向かう。蛇口をひねると、錆びたような音を立てて少量の水が出てきた。
コップに注いだ瞬間──水面に小さな手形が浮かんだ。
びくりと手を引いたが、すぐにそれは消えた。
「……見間違い……?」
だが、その時、スマホがブルッと震えた。画面を見ると、通知がひとつ。
『動画(音声のみ)を受信しました』
差出人は不明。ファイルを開くと、ノイズ混じりの音声が流れた。
──「……さ……けて……」
少女のような、かすれた声。
──「……井戸に……さ……けて……」
蒼太はすぐに再生を止めた。
ふざけるな……誰かのイタズラか? だが、この村にネット回線なんて通ってるのか? スマホの表示は相変わらず「圏外」のままだ。
「……どうなってんだよ……」
⸻
翌朝、ミオがやってきた。
「眠れた?」
「……あんまり」
蒼太は昨夜の出来事を話そうとしたが、言葉を飲み込んだ。話しても、信じてもらえるとは思えなかった。
「……ミオ、君の妹って……どうして井戸に?」
ミオは静かに、唇を閉じたまま視線をそらした。
「……あの子は、消えたの。誰にも見られずに。ある日突然、井戸の前に靴だけ置いて。遺書もない。足跡もない。ただ、水の中から、声が聞こえたって──」
「声?」
「“いっしょにきて”って……。私も聞いたの。あの日の夜、眠る直前。部屋のすみに、水の匂いがした」
蒼太は背筋が凍るのを感じた。昨夜、自分が体験したことと、あまりに似ていたからだ。
「……水の匂いって、どういう……?」
ミオはぽつりと言った。
「……井戸の水はね、誰かを呼ぶの。強く願ってる人を、弱ってる人を、後悔してる人を……見つけて、連れていくの」
蒼太は言葉を失った。
「まさか、妹さんも?」
ミオは頷いた。
「……お父さんがね、病気で寝たきりだったの。でも、お金も病院も足りなくて……。あの子は“何かを願えば叶う”って、信じてた。だから──」
だから、願ったのだ。
家族が元気になりますように。
お金が手に入りますように。
時間を戻せますように。
──そして、水は願いを叶えた。
ただし、“引き換えに”誰かを連れていくことで。
⸻
その夜、蒼太は夢を見た。
暗闇の中に、水音だけが響く。ぴちゃ、ぴちゃ、と絶え間なく続く音。
そして、黒い水面の中から、ぬっと人影が浮かび上がった。
それは──川原悠人だった。
オカルトサークルの同期。数年前に失踪したはずの青年。全身が濡れ、顔は蒼白で、目だけが異様に開かれていた。
──「たすけて」
かすれた声が、まっすぐ蒼太に向けられる。
──「たすけて、くれよ……! あそこにいる、アイツが……」
声が急に歪む。後ろから、何か巨大な“水の手”のようなものが悠人の体を掴み、ずるずると水中へ引き戻していく。
「待て! やめろ!」
蒼太が手を伸ばした瞬間、水面が割れて、何かが彼に襲いかかる──
そこで目が覚めた。
心臓がバクバクと跳ねている。息が苦しい。喉が渇いている。部屋の中は……また湿っていた。
ただの夢じゃない。
確かに、あれは“見せられた”夢だった。
水は静かに、確実に蒼太を包み込み始めた。
“水に呼ばれた者”たちの影が見え始め、ミオの言葉に含まれていた警告の意味も明らかになる。
次章は、村の過去と、水神伝説の真実が浮かび上がる──
第4章『水の中の真実』へ。