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最終章 その水の名を、誰も知らない

 風が吹いていた。

 湿度を孕んだ風ではない。乾いた、夏の終わりを告げる風。

 空は高く、蝉の声はいつしか途切れ、かわりにひぐらしの鳴き声が街を包み始めていた。


 蒼太は、日常に戻っていた。

 大学の講義を受け、コンビニの弁当を買い、くだらないテレビ番組を見て笑う。

 水音も、夢も、もう彼の周囲にはなかった。


 だがそれは、“完全に忘れた”という意味ではなかった。



 通学路の途中にある池のほとりで、蒼太はときどき立ち止まる。

 その水面は穏やかで、風にわずかに揺れるだけだ。

 けれど、時折、底の方から何かが見上げているような錯覚に襲われる。


 気のせいだと、思う。


 だが、気のせいにできるうちは、きっと、まだ大丈夫だ。



 深谷梨花の姿は、大学のどこを探しても見つからなかった。

 学生名簿にも、入学記録にも名前はなかった。

 けれど、記憶は確かにある。声も、笑顔も。手渡された和紙の感触さえも。


 ある日、図書館の資料室で古い本を整理していたとき、ふと一冊の文献が目に留まった。


 カバーは傷み、ページの端は黄ばんでいた。


『失われた村落と祈祷の民俗誌──関東編』


 開くと、そこに「水見村」の項目はなかった。

 それでも蒼太は、その本を静かに閉じた。


 それでいいと思った。



 時は流れ、やがて夏が終わり、秋が来て、冬の気配が街に滲みはじめた。


 ある日の夜。

 蒼太は、夢の中で再び“あの音”を聞いた。


 ちゃぷ、ちゃぷ、と遠くで鳴る水音。

 風に溶けて、すぐに消えてしまうような小さな音。


 その音に耳を澄ますと、懐かしい声が囁く。


「ありがとう。もう、祈らなくていいよ」


 ミオの声だった。

 あたたかく、やさしく、夏の夜の静けさのような声だった。



 朝。


 目を覚ました蒼太の枕元に、小さな紙片が落ちていた。


 半透明の和紙に、こう書かれていた。


「水は、誰かの願いとともに、静かに眠っています」


 その一行は、蒼太にとって、祈りの終わりであり、始まりでもあった。


 誰かが、また願えば。

 誰かが、その“水の名”を呼べば。


 それでも今は――


 その水の名を、誰も知らない。


この物語は、「水」という“記憶の器”をめぐる、静かな連環の物語でした。

人の願いはときに、祈りとなり、祟りとなり、伝説へと姿を変えていきます。

けれどその本質は、きっとどこまでも静かで、ひんやりとした優しさのようなものなのかもしれません。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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