07:姫宮ひなの
教室の閉め切られた窓とカーテンを六月の赤い夕日が貫いていた。床や壁に張りついた血と脂はすでに凝固し、水で洗い落とすには遅すぎる。血に汗、そのほかの様々な体液から獣めいた蒸気がたちのぼる。教室のすみに置かれた嘔吐のためのバケツからは酸い匂いがした。
ブルーシートには消石灰の白い粉が撒かれ、そのうえに相田亜衣の死体は置かれた。死体の周囲には血を吸い固まった灰褐色のダマが転がる。
トイレ掃除のゴム手袋は、死肉を掴む手を包み、嫌悪の感情をいくらか和らげてくれている。
ゴム手袋越しに伝わる柔らかさと温もりは生きている人のそれでありながら、無抵抗に引きずられるすがたは、たしかに死人のそれだった。
同級生が見守るなか包丁の刃先が揺れて惑う。
人間を解体するとして、その最初の一刀をどこに刺せば良いのかに迷った。
戸惑い、迷い、ようやく刃先の狙いを右腕の先、中央に置く。
力を込めようとして、「違うよ」と静止の声がかかる。
皮膚のしたには肉があり、肉のしたには骨があり、腕に対してまっすぐに包丁を振りおろせば、金属の刃も硬い骨に返ってしまう。
刃の向きは縦ではなくて、横。皮膚を剝くように、筋肉の流れの目に沿って、骨からこそぎ取るように動かさなければならない。
骨付き肉の捌き方、こんな動画が参考資料になるだなんて。
手にした包丁を腕にたいして平らに寝かせ、スッと力を込めれば、刃の筋に沿って血の赤がたらり滴る。流れだす血は、相田亜衣がまだ生きているような錯覚を引き起こす。おもわず顔を見て、瞳をのぞき込む。彼女は、しっかりとした死体だった。痛みを訴えたのは自分の心だった。
母親の手伝いで台所にたち、スーパーの肉を切ったことならある。しっかりと血抜きされた畜産物の肉は、まな板の上を汚したりはしない。だが、相田亜衣の身体のなかには、まだしっかりと血液が残っていて、包丁の刃がはいれば太い細いの血管がザクリと千切れ、管のなかに残る血が、心臓の脈動とは関係なしに、力なくこぼれだす。
黒く濁り始めた血の色をまえにして、血の気が退いた。
「どうする?」
「やります」
簡潔なやり取り。
ともに手を挙げた男が、残念を隠さない溜息を吐いた。
だいたい、どうして、私なのだろうか? 考えると、目の前の男が憎くて仕方がない。
彼が、自分の身体に欲情の念を抱いていることは知っていた。向けられた視線は尻をまさぐるか、胸を嘗め回すかのどちらかだ。彼の口から、「Fカップなんだぜ」と柔肉の秘密が漏れたときには顔を赤らめる恥ずかしさよりも、背中を這う怖気に全身の皮膚が泡立った。
なんて、気持ちの悪い。
なんて、気持ちの悪い男なのだろう。
硬く、隆起した、男性器を隠すこともなく、まるで目せつけるかのように。あれが、あんなものが男性というものなのだろうか。だとしたら、私は一生、恋人なんて要らない。まるで獣・・・ちがう。もっと陰湿で悪意に満ちた、猿。口の端からよだれを垂れ流す発情したオス猿だ。
発情したオス猿が、同じブルーシートのうえでノコギリを手にして立っていた。
身体のラインを隠さない体操着のズボンのしたから、しっかりとした存在を感じる。見せつけているかのようだ。私の視線がそれのかたちを認めると、にんまりと笑顔を見せる。この男だけがおかしいのだと思いたかった。なのに、自分たちを囲むクラスメイトの男子たちは、誰も彼もがズボンの前をパンパンに張り詰めさせていて・・・気持ちが悪い。
男たちの視線に肌を犯されているようだった。体操着の布地一枚などでは頼りなく、まるで裸体が透けて見られているかのようだった。自分の乳房の大きさが、手足を動かすたびにゆさと揺れる柔らかさが、淫らの象徴としてそこにあるようだった。
助けを求めるように目をさ迷わせても、すがりつく先は見つからない。性欲を隠さない男子はもとより、女子さえも、私の視線から逃げるように目をそらす。私の代わりに、このオス猿と戦ってくれる人は居なかった。
教卓のうえから見下す彼は、「あふ」と小さな欠伸を漏らすほどに無関心だった。
その無関心に決意が固まった。
誰も私を救わない。私を救えるのは私だけなのだと思い知った。思い知らされた。
包丁の刃を右腕の先、ひじの付け根から皮膚のなかに沈める。表面を切る、ザリとした感触。皮膚のしたに張り巡らされた血管がプチプチと潰れ、筋肉の弾力に刃が押し返される。ぐっと力を込めて肉の抵抗を押し開くと、ぐちゅりぶちゅり、耳には聞こえない音をゴム手袋越しの手のひらが聴いた。
両刃の包丁は押して切るものだと思い出す。生野菜のトマトを切るときに母親から教えられた言葉だ。押しきりにしたトマトは断面を崩すことなくきれいに切れた。ゴム手袋越しに包丁の柄を力いっぱいに掴み、押し込みながら肉のさらに深くへと刃を沈める。
筋肉のなかを進んでいくと切られた刃の筋に沿って、チューリップの葉のように、べろりと肉が反り返った。
生き物の反射のような動きに、「ひっ」と声がでた。
やっぱり無理、そんな言葉が口をついたが、彼は慈悲をしめすことはなく、そばに立つオス猿が好色の鳴き声をあげる。・・・自分が、やるしか、ないんだ。
涙がこぼれた。けれども拭う手はない。両手を覆ったゴム手袋は、すでに血に汚れてしまっている。嗚咽が、鼻水が、とめどなくこぼれ、顔面をぐしゃぐしゃに汚すなかで、最初の一切れがようやく切り取られた。
両手いっぱいの塊のように思えたそれは、手ですくい上げてみれば、親指と人差し指でつまめてしまう程度の肉の切れ端でしかなかった。
あと、何回で終わる? 何百回? あるいは何千回?
終わりの見えなさに、頭がくらりとする。
腰の力が抜けて、ペタリと床に座り込んだ。
身体に力が入らない。涙はあふれ、鼻水は垂れ流し、嗚咽は止まるところを知らず、弛緩しきった筋肉は尿道を締めることを忘れて、体操服のズボンを異臭の体液に濡らした。生暖かい液の感覚が下半身、太ももの内側を中心にして広がる。
わざとらしい猫なで声が、私の耳元から聞こえた。
思わずすがりつきたくなるその優しい声色に、けれども身体は恐怖におののく。
自分は女で、相手はオスだ。発情したオスの猿だ。理性も本能も弱り切っていた。誰かに抱きしめてほしかった。優しく抱きしめて、頭を撫でてほしかった。慰めてほしかった。けれど、おまえじゃない。その相手は、おまえじゃあない。強い生理的嫌悪が、意思のともなわないところで身体を激しく突き動かす。
死体の肉に包丁をいれる。ずっと深く。刃の先端が骨を削るほどに、強く。斜めに入った刃を骨に沿わせてゴリゴリと、肉を押しつぶしながら強引に進ませる。ひじの先から手首の先まで、一直線に、勢いにまかせて切って裂く。
ぶつり、と千切れた肉の塊を手で掴み、高々に見せつけた。
私は、おまえのものには、なってやらないと。
血にすべり、掴んだ肉がぼとりと落ちる。
「ふぅん」と声がした。
振り向くと岡田王子が教卓のうえから私のことを見下ろしていた。
とても冷たい目をしていた。ずっと無関心の表情を向けていた。私にも、オス猿にも、まったく興味がないという顔を示していた。そんな彼がひとこと、「がんばったね」と言う。心が沸き立つのを感じる。ぞくり、全身の肌が泡立つ。
「もっと、頑張れるかな?」
彼が私に期待していた。
その目に、その声に、その言葉に、背筋が震えあがる。
私は彼に、「はい」と答えた。