05:30キログラムの肉
「なみだは、どこからやってくるのだろう」
小声で呟き、ぞんがい恥ずかしいポエムだな、と岡田王子は考えた。
黙りこくった教室を見て、ホームルームの終わりと捉えたのだろうか、「起立、礼、さようなら、みなさん帰り道には気をつけてくださいね。最近は危ない事件も多いですから」。淡々と述べて、惨状をつくりだした危険の原因は、教室からあっさりと去っていった。
恐怖の対象が目の前から消えたことに安堵したのだろう、誰となくすすり泣く声がこぼれだす。最初のひとりが誰であったのかはわからない。こういうときには泣けばいいんだ、と他人から学んだ脳が、連鎖的に涙を流させた。あくびがうつるのと同じ現象だろう。女子はよく、ゲコゲコと共鳴反応を起こす生き物だ。
多くの女子は涙をながし、多くの男子は胃液をぶちまけた。血の匂い、体液の匂い、それから腸に詰まっていた糞尿の匂い、それらのブレンドが六月の強い西日に炙られ、むっとした蒸気となって鼻孔から侵入する。胃液が食道をのぼる嘔気は、生理的な反射だった。
鼻で呼吸したなら匂いにえづく。だからといって口を開いて息をするのは、汚らしいなにかを体のなかに直接取り込んでしまう感覚がして躊躇する。誰かが吐き出した胃液の匂いが混じれば、さらにさらに。
考えて、スマートフォンを取り出し、検索。
『死体・匂い・消し方』。
特殊清掃業者のウェブページが目についた。この特殊の文字は、自宅などで孤独死した死体、それも時間が経ったものを意味する。こんな仕事もあるんだな、「ふぅん」と無意識のうちに声がでた。
清掃に使われる薬品は、次亜塩素酸ナトリウム、安定化二酸化塩素、塩化ベンザルコニウムと名前は化学物質をしているが、案外簡単に、それこそインターネットの通販で買えてしまうことに驚いた。高校生の財布でも、32人分あつめれば購入できてしまう安さにも。
『死体・動物・処理方法』。
検索にでてきたのは保健所のウェブページだった。
まさか、近くの保健所に電話して死体の処理を頼むわけにもいかないだろう。
電話をかけるなら110だ。・・・119か?
『血液・衣服・洗濯』。
これは検索して、新しいものを買ったほうが安くて簡単だと結論づいた。
「うん、よし」と岡田王子は、誰に聞かせるでもなく口にして行動を始める。
まずはワイシャツを、つぎに制服のズボンを、上履きは玄関で履き替えれば良いし、通学用の鞄は撥水コートのものだからトイレの洗面所で流水にさらせば十分だろう。着替えには体操着のジャージを、運よく今日は体育の授業があった。ジャージ姿での登下校は、教師に良い顔はされないものの、わざわざ捕まえられるほどのことでもない。
制服を脱ぎ、体操着に着替える。
それから血と肉片がついた鞄を手に取り、「岡田くん、なに、してるの?」と声がかかった。
「うん? 家に帰る用意だけど、姫宮さん、ボクになにか用でも?」
「用って・・・」と彼女は言葉を詰まらせる。
姫宮ひなのは、クラスの女子カーストの最上位に所属している。そのなかでもトップだ。つまりは、クラスで一番の美少女だ。世のなかが何だかんだ言ったところで、女子高生の世界では美人が上でブスが下というのが現実だよ。と言ったのは、どうせ真神聖人だろう。
「岡田くん、亜衣ちゃんが死んじゃったんだよ?」
「そうだね。相田さんは死んじゃったね。それで、なに?」
「岡田くんは何か思わないの?」
「思うよ。早く服を着替えて、早く身体を洗いたいって思うよ。これは相田さんのだからってわけじゃなくて、人間の血液が身体についたままって、普通に気持ち悪いでしょ」
「そうじゃなくて!! 岡田くんは亜衣ちゃんが死んじゃって、なんとも思わないの!?」
「姫宮さん、声を荒げないで。いま、隣の教室から誰かがくると大変なことになっちゃうから。死体が見つかれば警察を呼ばれる。ボクらは警察署に連れていかれて、根掘り葉掘りに話を聞かれる。そして、うっかり王国実験のことを口にしちゃった人は・・・バンッ! ってなるよ?」
握った拳を勢いよく開きながら、バンッと破裂音を口にする。
彼女は、相田亜衣が破裂した瞬間のことを思い出したのか、両手で口元を覆い隠した。言葉を隠したのか、あるいはえづきを隠したのか。
静かになった姫宮ひなのを置いて教室をあとにしようとすれば、さらに声がかかる。
「この状況で帰るって、おまえ本気かよ?」
いつも小奇麗をとりつくろう成瀬鳴海にしては荒々しい物言いだった。
「じゃあ、このまま教室に残って、ボクたちはいったいなにをするの?」
「それは、その・・・」と彼は言いよどむ。
何かしなければならないという焦りがあった。
何をすれば良いのかわからない困惑があった。
彼のなかに渦巻く感情は、子供じみた不安なのだろう。
不安だから皆で共有したいのだろう。目の前にした死体を、死体が垂れ流す血の匂いを、死体から飛び散った肉の汁を、不快な空間を、不快な室温を、苦しみを共有し、事実を希釈して、ひとりあたりの責任を減らしてしまいたいのだろう。・・・不愉快だ。
指先が空中に小さな円を描く。無意識の動きだ。ルーズリーフの白い紙が一枚、シャープペンシル、それから新しいHBの芯が一本ほしかった。
「相田さんの・・・死体、は・・・どうするんだよ?」
「どうするって、どうかしなければいけないの? 相田さんを殺したのは、ボクじゃあない」
「警察に見つかるとまずい。そうだろう? そう言ったのは、岡田だろう?」
「たしかにそうだけど、相田さんの死体をどうするか。・・・みんなで隠しちゃう?」
「隠せるのか? どうやって?」
「相田さんの体重が6・・・まあ、血液が抜けたから半分の30キロだとして。ボクたちは31人いる。家庭科の調理室には包丁がある。技術の工作室にはノコギリがある。ポリ袋を31枚用意して、ひとりひとりが1キログラムの相田さんを持ち帰れば、ほら簡単に隠せる」
人間じゃあない、そんな視線が注がれているのがわかる。
人間じゃあないのは真神先生のほうなのにね、と思う。
皮肉に笑う。
「警察を呼んでも良いと思うよ。警察になにを聞かれても、真神先生のことを言わない自信があるのなら。警察に助けをもとめても良いと思うよ。警察が、真神先生のことをどうにかできると思うのなら。どうするかは成瀬くんが決めなよ。成瀬くんは、クラス委員だろう?」
警察の取り調べがどれほどのものなのかは知らない。けれども、聞き耳をたててくる敵は警察だけじゃあない。教室で死体がでた。それも破裂した無残な姿で。彼女の死体は人の好奇心を搔き立てるはずだ。親、兄弟、友人、部活の仲間、同じ学校の誰か、違う学校の誰か、テレビ、新聞、動画配信者、あれにこれにそれが口を揃えて相田亜衣の死について聞きたがることだろう。24時間、365日、ずっとずっと・・・。
・・・さて、このなかの何人が生きて残れるだろうか?
岡田王子は考えて、予想して、悲惨な末路にもう一度笑った。人の死が面白かったわけじゃない。忙しそうに神罰をくだしつづける真神聖人のすがたを想像してのことだった。じつに笑える。
自分の笑顔は、きっと悪魔のものに見えたことだろう。
成瀬鳴海が、悪魔をみるような目で睨みつけていたからだ。