01:岡田王子
放課後を前にした六月の夕暮れ。ホームルーム。32人の生徒が詰めこまれた教室は、目を刺し殺すような強い西日に染まっていた。梅雨の終わり、いまだ夏の始まりなのに、すでに暑さは不快をあらわし白いワイシャツの背中をじっとり濡らす。人間から漏れる汗と体温が、室内の空気をさらに不快なものへ変えているのだろうが、テレビが口にする地球温暖化の危機というのもあんがい本当のことなんじゃないかな、と岡田王子は考えた。人間が多すぎるんだよ、とも。
岡田王子の机と椅子が窓際の一番にあるのも原因のひとつなのだろう。教室の風通しをすこしでもよくしようと窓を開ければ、ガラスを通さない直接の太陽が肌をちりちりと焼いた。そのくせ、そとからの風は一向に通りかからず、教室のなかは汗が蒸発した不快な湿度に蒸すばかりだった。
黒板の前から聞こえてくる担任の声を左耳から右耳へ聴き流しながら、ルーズリーフの一枚にシャープペンシルの芯を奔らせる。白い紙のうえにHBの黒鉛で描くものは爆弾だ。10円サイズの丸、そのなかにぐしゃぐしゃの螺旋の渦。シャープペンシルの先端が回転するたびに丸の内側が黒色に塗りつぶされていく。この黒はエネルギーだ。人間を傷つけずにはいられない黒いエネルギーだ。線のうえに線を、黒のうえに黒を重ね、この爆弾はどんどんと成長していく。すべてを飲みこんで膨張しつづけるブラックホールのように。
カリカリと削り、カチカチと送りだし、一本の芯を使いきるころには、丸の内側は黒で何十層にも塗りたくられ、それは岡田の心を映しているかのようだった。
息苦しさを覚えたのは小学校に入った、その一日目だ。受験をパスする必要のある私立の教室は、ひとつの王国だった。教室のなかには先生という名の王様がいる。生徒諸君は王様の命令に従わなければならない。従わないものには罰が与えられる。小さなものは宿題の加算。大きなものは親の呼びだしだ。
入学式の列にならぶ子供を見る母親のすがたは嬉しげで、誇らしげでもあった。そんな母親の笑顔を見るのが岡田少年は好きだった。好きすぎた。一切の子供が壇上の、あれはおそらく校長先生を見つめるなかで、ひとり背後を振りかえる子供のすがたは、とてもよく目立った。担任である女教師がやってきて首をひねり、正面を向かせた。二度、三度。こんなことすら出来ないなんて、という女の目と、こんなことすら許されないなんて、という子供の目があった。ただお互いの意地だけがあった。校長先生が何を話していたのかなんて覚えていない。記憶に残っているのは、良い子の列から不良品を掴みだすヒステリックな握力のことばかりだ。
教室は王国だった。
先生は王様だった。
小学生が使える言葉で表現できる可能な限りが、そうだった。
何度、母親が呼び出され、何度、頭を下げさせられただろうか。・・・何度、そのすがたを見せつけられただろうか。そして何度目で、屈することをおぼえたのだろうか。
新しい丸、新しいHBの芯、ぐるぐると、黒。
放課後を前にしたホームルーム、強い西日は肌を焼き教室を赤に染める。けれども、ルーズリーフの真っ白な紙だけは黒い丸に染められていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。黒、黒、黒。・・・ずっと黒。