【ノートには書かれていなかったけど、心の片隅に止めてある心得】
■この世界ではこうなんです
現代日本が舞台ではない作品で、現実との矛盾をツッコまれた時逃げる常套句として講師が使っていた。
例を挙げると、私が投稿している「ベルダネウスの裏帳簿」シリーズで、主人公の1人ベルダネウスは燃えない布「火浣布」で作られたマントを愛用、敵の火炎魔導を払ったり、火事の中を逃げる際、身を守るのに使ったりしている。
この火浣布、私たちの住む現実世界にも存在する。が、現実世界の火浣布は石綿のことで、とてもマントに使えるものではない。作っても、マントと言うより、どてらに近いものができあがる。どてらを風になびかせる主人公というのはあまり格好良いものではない。でも、確かドテラマンというヒーローアニメがあったっけ。
火炎防御能力も、燃えないのではなく燃えにくいだけであり、火から身を守る力などたかが知れている。
私はこのことをツッコまれた場合「便宜上火浣布という名前を使ってはいますが、あの世界の火浣布は私たちの世界の火浣布とは別物です」と答えることにしている。
異世界が舞台の小説は、みんな異世界の言葉で書かれているものを現代日本の言葉に意訳しているものと開き直る。それによってある程度のズレが生じるのは仕方がない。
ずるい言い訳だと思う。でも、作家にある程度のずるさは必要なのだ。
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■好きなものしか無いおでんはつまらない
OL進化論という漫画にあったセリフ。執筆論に置き換えれば「好きなキャラしか出ない作品はつまらない」ということだろうか。
確かに。私はおでん種ではちくわぶが一番好きだが、ちくわぶだけのおでんがあっても嬉しくない。卵だって大根だってはんぺんだって牛蒡巻きだって餅入り巾着だって、それほど好きでないものでも入っていないと物足りない。それがおでんだ。
作品で言えば「味方が主人公のイエスマンばかりの作品はつまらない」だろうか。あるいは「いい人は主人公の味方になり、悪い人は敵になる」
主人公の味方かどうかを、善悪の基準にしてはいけない。特に主人公がその世界で大きな力を持つようになったら尚更だ。
主人公のやり方では自分の大切なものを守れないと敵対するキャラもいれば、主人公にくっついていれば美味しい思いが出来そうだと味方するキャラもいるはずだ。
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■役になりきるのは素晴らしいことだが、観客の存在を忘れてしまう欠点を持つ。
「ガラスの仮面」という漫画で、主人公に対し師が忠告する。実際のセリフはもう少し長いのだが。
役者はどんなに役になりきっても、それは観客に見せるものだというのを忘れてはいけない。でないとただの独りよがりになるということだと解釈している。
書き手も同じ。のって書くのは良いが、今、自分が書いているのは読者という他人が読むものだということを忘れてはいけない。
キャラクターが勝手に動く。よく良いこととして使われるが、そのキャラクター達は読者の存在を意識して動いているのだろうか?
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■大切なことほど面倒くさい
宮崎駿が「プロフェッショナルの流儀」という番組で語っていた言葉。
小説で言えば資料集め、担当との打合せなどが真っ先に思い浮かんだ。
でも、資料集めも結構楽しいところはあったりする。資料を集めると言うことは、知らないことを知る作業であり、知っていることの裏付け作業だ。
以前、自作「ルーラの休日」の中でヒロインが自分より大きな男をぶん投げるシーンで、絵的に生えるだろうと背負い投げを選んだ。その描写のために図書館で柔道の本を読んだり、背負い投げの動画を見たりした。
その時、解説で「背負い投げは、てこの原理を応用したものなので、自分よりも大きな相手を投げるのに適している」という一文を見つけた時、思わず「やった、これを選んで正解」と小さくガッツポーズをしてしまった。
知っているつもりが単なる思い込みだったなんてのはよくある。私がパフェのことをパーフェクト・アイスクリームの略だと思い込んでいたのは今では笑い話だ。
特に他人を責める時は、その根拠となる出来事の有無や、なぜそれをしたかという理由が自分の考えと一致しているかの裏付けは必要だ。
相手が嫌いなあまり、勝手にこうだ、こうに決まっていると決めつけていたことが、無意識のうちに紛れもない事実として自分の中で定着するなんてのもある。
担当の打合せでもそうだ。担当とは、自作を最初に読む「他人」であり、しかもそれを世に出すため容赦なく良いところ、悪いところを指摘する。担当は作家のイエスマンではないし、出された原稿をただ印刷所の回すだけのお使いでもない。ある意味、作家の原稿にダメ出しをするのが仕事とも言える。
世の中、やらなければならない大切なことほど、面倒くさいから誰かに丸投げしている。そんなことがどんなに多いことか。
だが、丸投げから得られることは少ない。面倒くさいことは、得るものも大きい。
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■新キャラは奥義
おーはしるいという漫画家が自作品の裏話として書いた言葉。話はとにかく既存キャラでつくるもの。新キャラは今のキャラだけではどうしても話が回らない。ネタが出ないと最後の最後まで追い詰められた時になってから出すものなのだ。
特に日常系などはそうだ。安易な新キャラはすぐに出番がなくなる。
もちろん、ジャンルによっては新キャラを出さないと話にならないものもある。ミステリーや旅物などは、エピソードごとに主人公のチームをのぞいてキャラが一新される。それらは主人公達以外の、各エピソードのゲストキャラたちの物語だからだ。
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■暴力表現に反対する理由は……
日本のアニメ、漫画は暴力的表現が多い。昔からこのような批判を聞く。
これに対し反論に使われるのは、反戦作品には戦争描写があるし、暴力反対、差別反対の作品には暴力、差別の描写がある。表現が過激だからと言って批判するのはおかしいというものだ。
それに対し、ある記事(申し訳ない。読んだ記憶はあるのだが、いつ、どの雑誌、新聞で読んだものなのかがあやふやなのだ)で反対派の人が
「私たちが反対しているのは暴力描写ではありません。暴力や戦争によって対立する相手を排除するという解決方法を、正しいもの、格好いいものとして描写することに反対しているんです」
と語るのを読んで、少し気持ちがわかった。
悪役を徹底的に悪として書くのは、暴力によって相手を排除する解決を正当化するためなのではと思ってしまう。
しかし、バトルの爽快感というのはアクションものの大きな魅力でもある。これを否定されては、娯楽ものの大半が否定されてしまう。悪くない奴をぶちのめしても爽快感は半減だ。
かと言って反対派の声を、解っていない奴らがケチをつけたいだけと切り捨てたら、気に入らない奴、悪い奴はボコボコにしてぶち殺してOK。その方が格好良いし楽しいし。ということにもなりかねない。難しいところだ。
妥協点としては、暴力では解決できない問題も提示して、それを同時に解決させるというやり方だろうか。しかし、そうしても読者/視聴者の大半は派手なバトルシーンにばかり目が行くのではとも思う。
あるいはバトル自身をスポーツとして描くこと。つまり格闘技ものとすることだ。この場合は皆が同じ条件で技を競い合う形になる。そこに正義や悪はない。あるのは格闘哲学だ。
私の中で、これは未だに明確な答えは出ていない。
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■作者がこだわっていることのほとんどは、読者にとってどうでもいいこと
カラスヤサトシという漫画家の作品でのセリフ。どの作品だかは忘れた。私が自分の作品を推敲する際に、先の「役になりきることは~」と並んで心においている言葉だ。
これは別の言い方をすれば「作者がたいして重要じゃないと思っていることの中に、読者が大事にしているものがある」ということだ。
これを気づかせてくれるのは読者からの感想だ。
人気投票で「読者の好きなキャラ/エピソード」が「作者の好きなキャラ/エピソード」とまるで違うなんてのはよくある。それほどに、作者と読者とでは作品のどこに注目するかが違うのだ。
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■絵に出来ない描写はするな
章のタイトルを裏切ることになるが、これもノートに書いた教えである。
なぜここまで触れなかったかというと、これは完全にシナリオの描写であり、小説のではないからだ。だから投稿作品にはあまり参考にならないと思う。
私はシナリオから入ったせいもあり、ほとんど「個々のシーンを頭に映像として再現、それを文章で描写する」という書き方をしているが、これが普通の書き方とは思っていない。
シナリオは、それを元に絵を作ることを前提にしている。だから時の流れ、心の揺らぎ、場の空気などを絵で表現しなければならない。そしてシナリオは「こうすればそれらを絵として表現できる」というものを描く。
時間経過を煙草の吸い殻の数で表すなんてのは昭和作品の定番だし、日付ならば単純に日めくりカレンダーがある。
今だったらスマホの充電などが使えそうだ。充電用コンセントのあるファミレスなどで、キャラが残量わずかのスマホに充電をはじめ、赤ランプがつく。次のカットではそれが充電完了の青ランプに変わるという風に。充電完了まで店に居座っているのかとツッコまれそうだが。
心理描写など、怒りを堪えるのをぐっと拳を固める、おかしいけど笑っちゃいけないのを表情がぷるぷる震えさせて表すなどは定番中の定番だ。
セリフならば「せっかくの日曜なんだから寝かせてくれ」なんてのはわかりやすすぎる例だ。
絵、セリフに出来ない表現はNG。講師が例としてあげたのは
「目が殺意に光るなんていうが、あれはどうやって絵にするんだ? 目がアップになると瞳に『殺意』という字が現れてピカピカ光るのか?」
である。ギャグならアリかなとも思う。
一流の監督が一流とされるのは、絵では描写が難しいものを、ちゃんと表現できるからなのだ。
なんかぶったぎれの尻切れトンボみたいな終わり方ですが、以上です。
懐かしいと思いながらノートを読み返すと、当時はどう思ってこれらをノートに書いていたのか等と思います。
結局、私はシナリオライターとしてはものになりませんでしたが、この頃は、私のこれまでの人生でもすっごく楽しい時期のひとつでした。お話を作る楽しみを、私の中で確立させてくれた時期として。