【他人の意見をどうとるか】
■直しの入らぬ作品はない
「直しの入らない作品は2種類しかない。一分の隙もない完璧な作品と、採用(映像化、書籍化)」する気のない作品だ」
シナリオは書いてもそれで終わりではない。これを元に「絵」を作らなければならない。するとその過程でいろいろな問題が出てくる。わかりやすい例では、実写だが、いきなり役者が怪我や病気で撮影できなくなった。現場での撮影許可が下りなかったなど。それに合わせて登場人物の出番を増やしたり減らしたり。
アニメならば「こんなごちゃごちゃしたシーン書いてる余裕は無い。登場人物を減らすか、過去のシーンを使い回せるようにしろ」など技術的なものなど。人混みや海の波など、実写ではカメラを据え付けて撮影するだけで済むが、アニメだと波の動きを、群衆を1人1人書かなければならない。昔のアニメで人混みの多くが止め絵なのはそのせいだ。
あるいは差別的表現、道具に説明、使い方に誤りがある。
声優がアドリブでセリフを変える。増やす。
放送時間の問題。アニメならば何分何秒で作るという決まりがある。「ちょっと凝った演出したから本編の時間12秒増やして。てへ」なんてことは出来ない。
等など。
シナリオは作品となるまで、自分以外の手が入りまくることを前提として執筆しなければならない。講師は「作品になったとき、シナリオの内容が7割反映されれば良い方」などと言っていた。
シナリオは完成前、3~4割ほど出来た段階で1度提出する。その回のゲストキャラ、ゲストメカ、舞台などをデザインしなければならないからだ。シナリオが完成してからデザインしては、とてもじゃないが〆切りに間に合わない。その中でスケジュールその他の関係で変更を要求されることがある。ほぼ100%あると講師は言っていた。
小説も似たようなものだ。担当や出版社の意向が入る。考えてみれば、小説を書くのは作者だが、それを本にするための作業は彼らが行うし、必要な予算は会社が出す。
つまり、書籍化というのは「自分の作品を他人(出版社)の金で出す」ことだ。出版社側からすれば、金を出すんだからある程度は口も出すのが当たり前なのだ。それが嫌なら、同人誌など自費出版で出すしかない。
担当や出版社があれこれ口を出すのは、それを世に出そうという意思の表れなのだ。
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■ファンの意見は適当に聞き流せ
なんだそれはと怒る人もいるだろう。だが、ファンの意見と言うのはあまり参考にしてはいけないらしい。もちろん、面と向かってそんなことは言わない。表向きは「ファンの声は大事です」「より良い作品にするための意見として受け止めさせていただきます」と言うのだが。
というのも、講師に言わせるとファンの意見、要望の9割は
「好きなキャラの出番を増やせ」
「嫌いなキャラはいらない。出すな」
というものらしい。これでは、ただ贔屓のキャラの出番が増えればそれで良しというだけだ。冒頭で語った「読者はストーリーではなくキャラを求める」ことの弊害が現れた形だ。
読者/視聴者にとって傑作の条件というのは
「好きなキャラがいること」
「話のネタに出来るシーンがあること。それが好きなキャラがらみならなお良い」
の2つに尽きるそうだ。つまり作品全体を見ず、気に入った部分だけを見る。中にはそのキャラに対する自分の印象、決めつけを作品の公式設定であるかのように語る人もいる。
そして人によって好きな部分は違う。あるファンは絶賛するところを、別のファンはボロクソに言うなんて珍しくない。だから、ファンの意見をいちいち取り入れたら、作品はめちゃくちゃになってしまう。
さすがにこれは極端だとは思うが、やはり書く以上、どんなにファンが望んでもこれだけはやらない。望まなくてもこれはやる。という部分は必要だと思う。
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■良い作品を見たいのではない。見たい作品を見たいのだ。
小説、コミック、映画、テレビ。娯楽作品をいくらか見ていれば、必ずや
「世間では人気だけど、自分は好きになれない」
「あまり人気は無いけれど、自分はすごい好き」
という作品に出会うだろう。だからこそ、娯楽作品は多種多様であり「みんなが面白いと言っているから面白い」が通じないのだ。
世に素晴らしい作品、正に超A級、超一流の作品は数多い。それらの完成度の高さは確かなのだが、その素晴らしさが逆に敷居の高さを生むことがある。完璧な人間ほどとっつきにくいものだ。
特に娯楽作品は、敷居の低さ、突っ込みのしやすさも魅力のひとつである。娯楽作品の多くは、主人公と対象読者/視聴者と同年齢にする。それによって作品を手にすることの抵抗をできるだけ少なくするのだ。
現実にその作品の主人公が目の前に現れたら「よっ」と気軽に肩を叩いて挨拶できる。それぐらいの馴染みやすさが娯楽作品には必要なのだ。
作品も同じである。見たい時に見たい作品ではなく、気がついていたら手にしていた、見ていた。そういう作品を多くの人は望むのだ。
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■「あいつがバカだから」は最後の言い訳
自分の作品が売れない、評判が悪いのに対し、プライドの高い作者が
「俺の作品の良さが解らないのは、あいつらにものを読む力が無いから。バカだから」
「素人に俺の作品/芸の良さは解らない」
「天才の作品は、生きているうちには評価されない」
「今はカリスマ的人気を持つ作品も、放送時、公開時はサッパリだった」
と、くさることがある。フィクションの世界だけかと思ったら、実際にあるらしい。最後のは早すぎる傑作なんて言い回しでよく聞く。
しかし、これらは受け手側が言うならともかく、書き手、送り手が使ってはいけない。 評価が低いのは、確かに作品の良さが伝わらなかったかもしれない。でも、どうして伝わらなかったかの原因を相手に押しつけるは良くない。
書き手、作り手の仕事は、その作品の魅力を相手に伝えることである。伝わらなかったのならば、まず自分の伝え方がまずかったからだと考えるべきなのだ。
もう一度、自作を読み返す。この書き方で良かったのか?
読者にまだ伝えていないことを、伝えてあるものと勘違いして書いていないか?
好意的、悪意的に解釈してもらえることを前提の書き方になっていないか?
読者は作品の裏設定など知らない。書いていないことは知らない。ましてや忖度なんてしない。そういう人達に向けて書いているのである。
自分たちに落ち度はなかったか。それを考えて考えて考えて、どうしても見つからなかった時、はじめて「悪いのは読者/視聴者」という結論を出す。
自分は悪くない。悪いのは向こうという結論はとても気楽でほっとする。気分が良い。特に「向こう」とやらが気に入らない存在の場合は尚更である。
深く考えるの面倒くさい。あいつらが悪いで良いじゃん。あいつらは自分が悪いのに責任を取ろうとしないクズだ、クズを攻撃して何が悪い。という気になる。
気分が良い結論だから安易に飛びつく。
気分が良い結論だから、1度それを受け入れるとそれ以上は考えない。
気分が良い結論だから、それ以外の結論に背を向ける。
だからこそ、安易にそれに飛びついてはいけない。この結論は、自分は今のままでいい。成長の必要は無いという甘えに繋がるのだから。