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【ストーリーを魅力的にするために】

■強い奴と弱い奴が戦って強い奴が勝つ。そんな話が面白いか?

 強い奴が弱い奴を倒すのに工夫はいらない。ただそいつの前に行ってぶん殴ればそれで済む。

 金持ち主人公が貧乏人の敵を倒す。会社のトップに立つ主人公が、悪の下っ端社員を倒す。正義の巨大国家が軍事的にも経済的にも遙かに劣る弱小国家を戦争で倒す。

 そんな話が魅力的だろうか?

 最強キャラはラスボス。でも書いたが、話を魅せるには「どうやって主人公達が目的を達成するか」が大事である。それに工夫がなければ面白さは出ない。

 だから敵は強くなければならない。障害は高く、険しくなければならない。

 だからこそ、主人公の方が敵より強くなった途端、緊迫感がなくなる。ただ一方的に相手をボコるだけの話になるからだ。

 逆パターンでは、ヒーローものがある。ヒーローものでは、悪のメンバーは幹部級をのぞいて主人公の方が強い。そんな中、魅力的な話を作るには、やはり悪の組織に頑張ってもらうしかない。いかにして目的(世界征服)を達成するか、ヒーローを倒せるか。

 この場合、自分は悪の組織の幹部になったつもりで作戦を考える。組織の技術力、人材、予算などを考慮しなければならない。

 某ヒーロー番組では、様々な作戦を考えてきた悪の組織のメンバーが「お前らの作戦は面白くない」と全員処刑されてしまった。作戦立案には、上司(幹部、総統)のウケも大切らしい。


 ***


■起承転結で大事なのは承

「起」はつかみの部分、とにかく派手で受け手の目を引き付ける。

「転」は変化、主人公が負けたり、敵が奥の手を使ったり、今までの常識がひっくり返るように新事実が明らかになったり。攻守が頻繁に入れかわる。

「結」は全てがひとつに集まるクライマックス

 つまり、起承転結の「起」「転」「結」は黙っていても盛り上がる。読者や視聴者の目を引き付ける。その要素がてんこ盛りなのだ。

 しかし、「承」はそうはいかない。情報を集め、何が問題なのかを整理し、どうすれば事態が好転するか、解決するか。それらを模索する時間だ。

 ミステリーで言えば、主人公達が関係者に事情を聞いて回るシーンだ。アイテム探し、人捜しならば、どこに行けば良いのか調べるシーンだ。

 正直、かなり地味なシーンが続く。中には「話を聞きたければ俺を倒せ」と仁王立ちする相手もいるかも知れないが。

 アニメで言えば、総集編を作る際にまるごと無視しても問題の無い話だ。そういう話をどれだけ面白く書けるかが大事なのだ。

 なぜなら「承」は地味だが、物語の大部分を占めるものだからだ。


 ***


■パターン破りは、パターン通りよりも面白くならなければ意味が無い

 パターン。テンプレとかお約束とか言われる「よくある展開、キャラ、リアクション」の事だ。大抵、評価を下げる形で使われる。

 しかし、それらがパターンになると言うことは、それだけ視聴者や読者が望んでいることでもある。だから「そんな安易な展開にはしない」と意表を突く展開にするなら、安易な展開よりも面白くなることが絶対条件だ。視聴者、読者の意表を突くこと自体が目的になってはいけない。

 正に「予想は裏切れ、期待は裏切るな」である。


 ***


■努力することの素晴らしさを書きたいなら、主人公は負けさせろ

 最後に勝利するからこそ、努力のシーンが生きるんじゃないのか? そう考える人もいるだろう。

しかし「格好良い奴は負けても格好良い」でも書いたが、敗北は主人公の魅力を下げる要素ではない。むしろ安易な勝利は却って主人公や作品の株を下げる。

 勝利は最終目的ではあるのだが、大きな副作用がある。勝利の喜びが大きすぎて、そこに至るまでの過程の評価がうやむやになってしまうことだ。

 よく「勝たなきゃ意味が無い」「勝ったんだからいいじゃないか」と言われるが、それはそのまま「勝つためだったら何をしてもいい」という考えに繋がる。

 そもそも努力とは何か?

 私は、努力とは「目的を達成するために行うことの総称」だと思っている。たとえ勝利や成功に繋がらなくても、見当違いでも、目的達成のために行うことならば、みな努力なのだ。

 空を飛ぶ目的のため、飛行機の仕組みを調べるのも努力なら、グライダーを自作するのも努力、おならの力で飛ぶために芋を食べまくるのも努力なのだ。

 努力の素晴らしさは結果を出すことではない。目標に向かって何かをすること自体が素晴らしい、楽しいことだからだ。

 このサイトでも、ほとんどの人は「お前ら、書籍化されない作品をなんで書いてんの?」と聞かれてもちゃんと答えられるだろう。

 安易な勝利、成功で努力の輝きを鈍らせてはならない。

 格好良い奴は~でも書いたように、「結果が出せない=主人公に魅力が無い」ことではない。


 ***


■どんなに陳腐と笑われてもやってはいけないことがある。

 私が学んだシナリオ講座では、幼児~小学校低学年を対象とするアニメを前提としている。だからというわけではないだろうが、絶対に書いてはいけないことというのがある。もちろん、これは講師がそう言っているだけなのだが、その中身は私も同意している。

 その書いてはいけないことが

「努力を否定してはいけない」

「夢を奪ってはいけない」

 である。

 努力というのは、目標に向かって頑張ることである。もちろん、現実には努力しても結果に繋がらないことなどいくらでもある。しかし、何の結果も出せない事は無い。フィクションの世界なら尚更だ。

 テストで20点しか取れない人が100点目指して頑張ったけど、50点しか取れなかった。しかし、努力によって30点上乗せできたのだ。昨日より今日がよく出来て、明日はもっとよく出来る。そういう作品でなければならない。満点を取ることだけが、努力の成果の見せ方ではない。

 努力なんて所詮は無駄。という作品にしてはいけないのだ。

 夢を奪ってはいけない。簡単な例として出されたのが「サンタの存在を否定する」

 作中に「サンタなんていねーよ」と言うキャラを出すのはかまわない。しかし、作品自体がサンタを否定してはいけない。

 アニメや少年漫画などのクリスマスエピソードで、最後に夜空をサンタのソリがすーっと横切っていく。

 あるいは、主人公達が町中でサンタと遭遇、どこかのアルバイトだと思ってスルーするが、実は本物だった。

 あるいは、主人公が夜中こっそり子供の枕元にプレゼントを置こうとサンタの格好で入っていくが、枕元には既にプレゼントが。誰だろうと首を傾げる彼の後ろ、窓の外を本物のサンタのソリが遠ざかっていく。

 なんてことはよくある。つまり、たまたま主人公が出会わなかった、出会ったが気がつかなかった。というだけで作品ではサンタが存在することを示しているのだ。

 子供向け作品において、夢、未来、努力。これらを決して踏みにじってはいけない。それは、それを見ている子供達の未来を踏みつけることになるのだから。それをするぐらいなら、陳腐と笑われ、馬鹿にされた方がずっと良い。


 ***


■視聴者はバカだと思え

 視聴者や読者は「10を聞いて1以下を知る」存在である。

 伏線の出す際の心得として言われた言葉だ。これはアニメをDVDなどで見直すことを前提としていない頃の言葉なので、今だと言い過ぎかも知れない。

 実際、子供向けアニメだと伏線はとてもわかりやすい。作中人物しか騙せていないバレバレの変装などは良い例だ。他にも怪しい奴は必ず、相手の反応を見てはこっそり馬鹿にした笑みを浮かべたり、動きをしたりする。というか、それぐらいハッキリ見せないと視聴者は覚えてくれない。

 小説でも、読者は作者が思うほど内容を覚えていないものである。

 叙述トリックなど、多くの作品は「前にこういう描写あったでしょ。あれが伏線なんだよ。けっしてアンフェアじゃないよ」というような説明が入る。それは、説明しなければ「そんなこと知らねえよ、気づくわけねえだろう」と文句が出るからだ。

 もっとも、作者もそれは同じである。読者が思っているほど、作者は書いたことを覚えていない。読者からの感想で「そんなこと書いたっけ?」と自作を読み返しては、本当に書いてあることを確認することが結構あったりする。

 作家の赤川次郎は、三毛猫ホームズシリーズで、中盤、主人公達が集まって事件の整理をする場面を入れる。それは読者への説明はもちろん、自分自身が書いた内容を整理するためと語っている。

 だから読者に覚えていて欲しいことは何度も書く。シリーズものだったら、エピソードが変わる度に説明する。それぐらいしないと読者は覚えてくれない。


 ***


■パクりは悪くない

 私が講義を受けていた頃にはテレビアニメはほとんどが原作もので、オリジナルの企画は数が少なかった。今はもっと少なくなっているようだが。

 原作もののアニメというのは、変な言い方だが「原作者承認のパクリ」である。そして美味くパクるには、元の作品の良さを理解していなければならない。

 講師は原作もののアニメを作る心構えとして

「100の魅力の原作を渡されたなら、150の魅力を持つ作品にして返すのが我々(アニメスタッフ)の仕事だ」

 と言っていた。正に「原作本を全巻揃えるよりも、そのアニメのDVDを1巻買った方がお得感がある」ぐらいでなければならない。100点を求められて150点出す気のない奴は、競争のある世界では生き残れないのだ。

 上記の心構えを実現するには、ただ原作ものの絵を動かして音や声を入れるだけでは駄目だ。原作の良いところを伸ばし、足りないものを補い、そこへ何らかの+αがなければいけない。

 もちろん、それがいつも上手くいくとは限らない。中には原作ファンの怒りを買い、原作レイプだなどと言われたりする。

 しかし、それでも上記の心構えを忘れず、実行しなければならない。それは原作(元ネタ、パクリ元)を超えるために必要なことだからだ。

 小説でもそうだ。流行っているジャンルを書くと、またこれ系かとか、●●のパクリだろうと言われる。それを黙らせるには、自作ならではの要素が絶対必要だ。

「これ系統の作品はいくつもあるが、●●については自分の作品が一番だ!」

 という要素がなければならない。何かひとつ、元祖とも言える作品を超えるものがあれば、それはパクりではなく、元ネタをさらに進化させた作品となる。

 ●●については本当、何でもいい。作品における設定の緻密さでも、キャラクター同士の掛け合いでも、知恵比べでも、バトルの爽快感でも、ヒロインの脱ぎっぷり、数の多さでも良い。

 なろうの投稿作だっていろいろ言われているが、一見同じようでいて、ひとつひとつの作品にそれならではの味があるはずだ。そうでなければ、これだけ長く多くの人が書き続けていられない。

 そう、パクるに当たって、パクリ元は自分の作品がさらなる高みに登るための踏み台なのだ。そうして書いた自作の完成度がパクり元より高いのは当然である。

「自分がこれから投稿する作品は、今まで発表された同系統のどの作品よりも面白い」

 の意気込みが必要だ。読者がそう感じるかは別として。

 もちろん、その際にはパクリ元への敬意を忘れてはならない。格闘もので、主人公が師を超えた後も師に対する敬意を忘れないように。


 ***


■流行り物には手を出すな

 流行り物というか、流行語。流行っている言い回しである。

 簡単に言えば「書いている時は流行っていても、放送される頃は廃れている、飽きられている」だ。当然ながら、作品が放送されるのは、シナリオを書いている数ヶ月後だ。目安としては3ヶ月後。つまり、書いている時点では流行っていても、それを作品として世に出す頃には廃れている。既にカビの生えたネタになっているとまではいかなくても、飽きられている、似た作品が溢れている可能性が高い。

 まあ、中には廃れた流行言葉を「キャラと世間とのズレを表すギャグ」として使うことがあるが。

 これが本だと時間のズレはもっと大きい。新人賞だと、賞の〆切りから実際の出版まで早くても半年近くかかる。正に「出版される頃には似たような作品が溢れている」のだ。だから、小説の新人賞などでは、あえて流行っていないジャンルで挑戦するのもアリなのだ。

 流行は乗るものではない。作るものだ。

 流行り物とは別に、手を出しづらいと思うものがある。デジタルコミュニケーションの方法だ。かつての電話、駅の掲示板はポケベルになり、メールになり、ツイッターやらSNSやら。

 書いている時は良くても、それが世に出る頃には読者から「え、今どきこれって有り得ない」と思われかねない。

 以前、某ミステリーがドラマ化された時、作中、登場人物がメールでやりとりするのに対し、にネット上で「今どきメールでの連絡なんて有り得ない」と散々ツッコミが入った。けれど、この原作が発表された時はメールが主流だった。 

 わずか数年でこうなのだ。案外、今書いている作品が十年後は読者から「スマホでやりとりなんていつの話だよ」なんてボロクソに言われるかも知れない。

 もしかして異世界ものを書く人達は、そのような時代の変化をそれほど気にしなくて良いから書くのでは。なんて考えるときがある。

 現代日本が舞台なら、うかつなことは書けない。読者には、自分よりもその分野に詳しい人がいるだろう。うかつな事を書いたらその人にツッコまれる。馬鹿にされる。そのツッコミに対抗するためにはいろいろ勉強しなければならないが、それはとてつもなく面倒くさい。

 異世界なら、世界をまるごと作る苦労はあるが、これは間違っているなんてツッコミはほとんど心配しなくて済むのだから。


 ***


■本当にそれ以上良くは出来ないのか?

 シナリオを書き終え、最後に「終わり」と書いたら一息入れる。ちょっと一休みしてからもう1度自作を読み直し、自問せよ。

 小説家になろうならば、投稿するをクリックする前に自問せよ。

「本当にこの作品はこれ以上、良くはならないのか?」

 運動などで、ひたすら頑張って「もう駄目、これが限界」とまで行ったら、そこをもうちょっと頑張れ、そうすれば、そのもうちょっと分だけ限界が伸びる。と言われる。

 執筆も同じだと思う。書いて推敲して書いて推敲して、良しとなったらもうちょっとだけ考える。これをしないといつまでも上達しない。同じ限界のまま。

 もっとも、やり過ぎるといつまで経っても発表できないので区切りは必要だ。執筆の世界では「〆切り」などがわかりやすい区切りだろう。時事ネタも、ぐずぐずしていると旬を逃してしまう。

 金田一耕助でおなじみの作家・横溝正史の遺品で、出版時に贈呈された単行本が、彼自身の手で添削され真っ赤になっていたという記事があった。

 この人は本当に死ぬまで推敲を続けていたのだ。


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