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薬師の行方  作者: きしの
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薬師BCE 01

 森が真っ赤に染まった。


 夕日よりも鮮やかな炎が木々を嘗めつくし、空間を区切る結界をも呑み込んで攻めてくるのを見た。


 日が昇りきってもこの森がこんなに明るくなることはない。あまりの明度に目が眩む。迷っている時間はない。クレメンシェトラは即座にテーブルクロスを剥がした。机の上に乗っていたものが床に散らばるが、一瞥もしない。幾許もしないうちに灰となるのだから。


 テーブルクロスはなんとか全身を覆える程度の大きさだ。そのまま被って川に飛び込む。深くないために膝ですら浸からない。息を吸い込み川底に寝転んで体を浸した。全身ずぶ濡れになったところで布を被り直し、くるぶしまであるスカートをたくし上げて森の外に向かって駆けだす。水を吸った布は重量が増すだけでなく、あまりにも執拗にまとわりついた。何度も何度も、足がもつれそうになる。

 ゆっくりとした時間が流れる、森での生活。走る機会は全くなかった。それを言い訳にしてここで終わるわけにはいかない。焦燥感に駆られて必死に足を動かす。後ろを振り返る余裕などなかった。


 ふと立ち止まって足元を見ると、白かった足は火傷と爛れで無残な有様になっていた。全身は既に乾ききり、布から溢れた髪先は焦げている。服も飛んだ火の粉に焦がされて穴が開いていた。握りしめていた組み紐が無事であることを確認する。


 ふ、と浅い息を吐いて、クレメンシェトラは小さくかぶりを振った。

 失ったものは多いけれど、これがあればまだやり直せる。新しい世界を教えてくれた彼女が居た証だけが、クレメンシェトラを勇気づける。


 火から遠ざかるように走っていたが、気づけば丘に登っていたようだ。既に燃え尽きた小山の上から、未だ燃え盛る炎を見下ろす。西から東へ。炎はウェリデナからユノスの方に向かって広がっていた。熱のせいか、下から上へと巻き上げるような風が絶えず吹き荒れている。焦げた髪を翻して丘を下った。


 焼けた瓦礫の上を歩く。昨日までは町か村だったのだろう。生存者はいないかもしれない。生き物の痕跡が拭い去られた空間に、クレメンシェトラの足音だけが響く。一歩進むごとに細かな破片が足裏に刺さった。見れば履物は残骸が足に張り付くばかりになっていた。焼けてしまったらしい。どおりで痛いわけだ。崩れた壁に座って、足に手をかざした。淡い光が足を包み、異物を排除しながら元の形に戻った。皮膚と肉は完全に再生し、刺さっていた欠片がぽろぽろと落ちる。


 自分の森が燃やされることはないと思っていたが、考えが甘かったらしい。ウェリデナは術士の排除に徹底する姿勢を見せた。大地を焼くなどと大胆な行動に出たのは、大方術士の隠れ里をも焼き尽すためだろう。とんだとばっちりであるが、笑って許せるはずがなかった。


 かの国を治めし王は、術士を魔物と一括りにして穢れたものと呼ぶ。自分にはないものを恐ろしく感じるからと言って、排除してもいい理由にはならない。あの森が無くなれば魔物が溢れる。しかし後先考えなかった罰として、彼の国が忌むべき魔物に滅ぼされるところを想像するのは酷く可笑しかった。ともかく特殊な術でさえ打ち破る炎の出処は早急に突き止めなければならない。術を破ることができるのは術だけである。矛盾に満ちた行為だが、あの国ならやってのけるのだろう。そして開発に携わった人間は術士として処分される。


 術士も剣士も町の人間も、クレメンシェトラの敵でも味方でもない。クレメンシェトラは彼らとは違う。ただこの世界のことを考えている。世界は急に変わってしまうと、バランスが崩れてすべて滅びてしまうのだ。人間とは違って唐突な環境変化に耐えられない、そのことを知っている、それだけだ。世界の存続なぞどうでもよかったが、滅ぼさないようにするのが役目であることも知っていた。


 クレメンシェトラは駄目になった髪を引きちぎり、残った分を一つに纏めた。紐の端を飾る宝石はやさしく輝く川の色を閉じ込めている。完璧に近い球体に磨かれたそれは、こんな時でも贈り主の心のように澄んでいた。同じく森に住む彼女。安否を確認するすべはない。


 二人が集うとき、いつもクレメンシェトラがホストで彼女がゲストだった。ある日ひょっこりと現れた彼女とは、クレメンシェトラの森の外、町での季節が二つ巡るたびに来ると約束していた。というより一方的にそうすると告げられていた。来訪に嫌な気はしなかったし、むしろ毎回楽しみにしていたので問題はなかった。


 クレメンシェトラは彼女がどこに住んでいるのかを知らない。ましてや自分の住処が燃えてしまった今、彼女に自分を訪ねてもらうことすらもできないだろう。

 俯いて歩くクレメンシェトラを照らすのは、彼女の安住の地を荒れ地に変えた色だった。ウェリデナに対して憎い、とは思わない。憎悪は不毛な感情だ。憎悪や妬みは争いの種となり、戦は大地を荒れさせる。荒れた大地から何が得られるというのか。繰り返す歴史は戦なしには語られない。なぜ彼らは学習しないのだろう。なぜ理解しないのだろう。自分たちの行為になにを見出しているのだろう。


 クレメンシェトラは当てもなく、ただ歩き続けた。いつの間にか日は沈んでいた。遠くに人の営みを示す明かりがまばらに見える。ここはウェリデナの炎を免れたらしい。

 空を見上げるといつもと変わらず星が灯っていた。それなのに妙に暗いのは、きっと月が出ていないだからだ。新月を知らないクレメンシェトラは、森の外で夜を過ごしたことがない。彼女の森に棲むのは魔物だけで、彼らを浄化する過程で発生する淡い光が常に、森を包み込んでいた。それに時折町に出ても夕方には森の家に戻っていた。宿に泊まるという発想などなかったし、泊まってまで町でするべきことも無かったからだ。町ではポーションやらハーブティーやらを卸して、その金で森で手に入らないものを買うだけ。それもイーフィネイアに出会うまでは思いつきもしなかったことである。


 金があれば町で色々なものを手に入れられると知ったが、逆に金がなければ何もできないのだとも学んだ。だからクレメンシェトラは灯りのほうに近づかない。今は金も、金になるものも持っていないからだ。


 歩き続けて胃が空腹を訴えていたものの、満たすすべはなかった。彼女の世界は狭く、隣人愛や助け合いの精神を理解するには経験値が不足していた。またクレメンシェトラの暮らしていた森の植生は、外の世界と大きく異なっている。何一つとして同じものはない。木の実はどういうものを食べればいいのか。麦は何からできているのか。すべてにおいて検討もつかなかったし、そもそも木々には葉の一枚もついていなかった。季節は冬、単なる落葉であるが、クレメンシェトラは四季を知らない。森の外では気温の変化が激しいという認識のみである。


 空腹を紛らわすためにイーフィネイアのことを考える。どんなものが町で良く売れるか教えてくれたのは彼女だった。客の反応を見て、自分で考えることも覚えた。客の反応と要望から新たに売れそうなものを開発し、次第に卸しに行くのが薬屋だけでなく食品の店、服飾の店と少しずつ増えた。そうすればイーフィネイアが褒めてくれたから嬉しかったのだ。彼女はクレメンシェトラが人と関わることを望んでいたようだったから丁度良かった。


 かつて卸していた品の中に、すぐに手に入るものはない。そもそもあの森の外で、原料である薬草が手に入るのかすら不明だ。それに調合や蒸留、圧搾をするのに道具も必要である。道具を揃えるところから始めなくてはいけないのだと気づくと、見通しの立たない未来が陰って見えた。

 道具をくれたのはイーフィネイアなので、どこで買えるのかも分からない。とにかく金が必要だ。金があれば大体のことはどうにかなるのだろう。金がなくても生きていけていたのは、単に人間との交流がなかったから。


 そういえば、日持ちはしないが生花でも喜ばれる。イーフィネイアはそういうことも言っていた気がする。花を育てるのには道具はほとんど必要ない。天に向けた手のひらを軽く握り、再び開ければ固く小さな種が出現していた。これくらいならば序の口だ。これを育てて生花を売って、そうすれば金子が得られる。社会上では金子は生きる糧とほぼ同義だ。まだ終わらない。だからまだチャンスはある。


 ユノス。術士の暮らす国家で、唯一ウェリデナに対抗できる国。イーフィネイアから聞いて知っていた。花を売りながらそこへ行くのも選択肢の一つ。しかしイーフィネイアは何かあればそこへ行くつもりだと言っていなかった。クレメンシェトラにできるのは彼女の言葉を信じることだけだ。手がかりが得られないであろう場所に行く気はない。イーフィネイアはクレメンシェトラにとっての指針、道しるべなのだ。


 この世界は広いから、見つけるのは容易ではないだろう。それでもどうにか再開した暁には、二人でまた、取り留めもない話をしたかった。


 だからクレメンシェトラは歩き続ける。近くに人が多く住む場所があり、花を育てるのに適した場所を探し続ける。金子があればイーフィネイアを探すのが容易になるのだと信じて。

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