言葉の暴力
週末、職員室に生徒の親からの抗議電話が入った。
『人殺しで追われている母親の子どもを引き受けるなんてどういう事なのですか?怖くてうちの子どもを通わせる事が出来ません!』
『その生徒自身には何の問題はございません。』
『そんなの分かりませんわ。いつ牙を剥いてもおかしくないでしょうし、その母親が乗り込んで来るかもしれませんわ。』
一度上がった火は一気に燃え広がり、消火どころかその勢いは学校中に及んでいく。
『お前んちのお母さん、人殺しなんだって?』
渚自身もクラスメイトたちから問い詰められる。
俯いていた渚が顔を上げてその生徒を睨み付けようものなら、
『おお、怖い!殺される!』
とからかわれてしまう。
渚は悔しさのあまり、再び俯くと無言で涙をこぼした。
『止めなよ!渚ちゃんがそんな事する訳ないじゃない!』
美里が渚を庇うが、その記事を書いたのが美里の父・武司だという事も生徒たちは親から聞かされて知っている。
『良い子ぶってるけど、和田の父ちゃんが書いたやつだろ?』
大人しく根の優しい親友の小さな子どもの心をずたずたに引き裂いた父を美里は恨んだ。
『ごめんなさい、渚ちゃん。私、どんな事があっても、渚の味方だよ。』
『………うそ………。』
泣いていた渚が絞り出した言葉は唯一の友人に対する不信感である。
渚はクラス中、いや学校中の誰もが信じられなくなっていた。
『おい、先生来るぞ!』
瑞希が唇を噛み締めて教室に入り、日直が号令を掛けたが泣いている渚は立ち上がる事が出来ない。
『みなさん、西脇さんの事をおうちでいろいろ聞いてお話されている様ですけど、西脇さんは悪い子ではありません。』
『先生!うちのお母さんは西脇はいつか誰かを殺すって言ってました。』
子どもが歪んだ性格になるのはこうした根も葉もない大人の噂を鵜呑みにしていく事が往々にしてある。
瑞希は黒板に[暴力]という文字を書いた。
『みなさんはこの字の読み方を分かりますか?』
暴の字は一年生では分からない。
『これは暴力と読みます。暴力ってどういう意味か分かりますか?』
『人を叩いたり、殴ったりする事です。』
『そうですね。でも、それだけじゃなくて、言葉の暴力というのもありますけどみなさん分かりますか?』
子どもたちからは誰も答えは出ない。
『自分が言った言葉によって相手を傷付けてしまう事です。例えば進藤さん。仮に進藤さんが隣の倉田くんにばかだとか、のろまだとか言われたらどう思いますか?倉田くんが本当にそう言った訳ではありませんよ。』
『嫌な気持ちになります。』
進藤かなりが立ち上がって答えた。
『そうですね。それが言葉の暴力です。殴ったりしなくても、相手の人は心に傷が付いてしまうのです。今、みなさんは西脇さんに言葉で暴力を振るっているのです。分かりますか?』
反発する生徒はなく、みんなシュンとしている。
『言葉で受けた暴力の傷はなかなか治りません。もし、西脇さんが怒って誰かに暴力を振るったりする事があったら、確かに西脇さんも悪いかもしれませんが、最初に言葉の暴力を振るった人も悪いのです。先生はこのクラスのみなさんが言葉の暴力も、人を殴ったり蹴ったりする暴力もしない様に願っています。』
一年生がどこまで理解出来るのだろうか?
それでも渚を守るためにはクラスの生徒たちに訴え続けなければならないと瑞希は思った。
この日は渚だけではなく、美里も同じくらいに心に傷が付いていたのである。
よりによって自分の父親が書いた記事が親友を傷付けて、その親友から信じられないと言われてしまったからだ。
美里は学校から帰ると自分の部屋に引き篭もり、ベッドの布団に潜り込んだ。
『お帰り、美里……。』
『………。』
長い事一つの事件を追って休めなかった武司は代休で自宅にいたが、いつも明るく帰ってくる娘が相手にもしてくれない。
『………あの、………ごめん。』
まさか自分が追っていた殺人犯の娘が自分の子どもの親友だとは夢にも思わなかった。
『………パパのばか!パパなんて大っ嫌い!!』
布団の中から美里は思いきり武司に言葉の暴力を浴びせ、武司の心に突き刺さった。
『当たり前じゃない。記事はたまたま美里の友だちだったけど、美里と同い年の子なのよ。あなたはそんな子どもに深い傷を負わせたの。写真を撮っていてそう思わなかったの?』
律子も武司を問い詰める。
『だから、気乗りがしなかったって言ったろ?俺だってあの子と美里がダブって見えて良心の呵責はあったさ。』
そうは言っても仕事となると別である。
『辞めちゃえば?そんな仕事。』
『ばかを言うな。出版社の記者になるのがどれだけ大変か分かって言ってるのか?』
『それで重箱の隅を突いたり人の嫌がる記事を書いて楽しいの?私や美里の気持ちを考えてよ。』
『……分かった……。今から美里と一緒にその子の家に謝りに行くよ。それから仕事の事は考えてみる……。』
直ぐに決断は出来ないが、武司はこれ以上今の仕事を続けられないと思っていた。