ボール
ボールが、無い。
幼い頃、誰にも言えない、私の苦悩だった。
学校帰りの夕暮れ時。
友達の少なかった私は、帰ってきて早々、制服のまま家を出て、決まった空き地にボールを持ってゆく。
両手に少し収まりきらない大きさで、そこそこの弾力性がある、トマトよりも濃い赤色のボール。
いつも同じ色、同じ形のボールだ。
それを壁に向かって投げるのが、あの頃は無性に好きだった。
コンクリートブロックを積み上げて作られた壁。
それに向かって、私はずっと投げては拾い、また投げては拾った。
ただ一点を見つめて、ボールを投げ続ける。
そうすれば、何も無い、からっぽの自分を忘れることが出来たから。
でも結局、最後には無くなっってしまうのだ。
一定の間隔でとん、とん、と壁にボールが当たる音を聞く。
同じ、ブロックの境目の一片を見つめながら。
すると、不意に真っ直ぐだったはずのブロックの境目が、波を打つ様にぐにゃり、と突然歪む。
そして、大きく口を開くかの様に、揺れた境界は二つに割れ、円を作る。
円の向こう側は真っ暗で、しかしその中心には山積みの、今まで同じ様に失くしてしまった赤い山が。
しかしその円が開いた時には、既に私の手からボールは放たれている。
少し肉付きの良い丸っこい手の向こう側で、ボールが口の中へ、赤い山の中へ紛れてしまった。
口はボールを飲み込んだことを確認するかの様に、歯のない口をもごつかせる。
また、私のボールが。
飽きる程見てきた風景。
ぼんやり立ち尽くし、その様子をただ眺める私に向けて、壁はげっぷ混じりに一言。
「馬鹿な奴」
そう言って、口を閉じた。
そうやって、私はいつもボールを奪われ、からっぽの虚しさを思い出しながら、只の壁となったそれをただじっと、眺める。
なぜなら私にはもう。
ボールが、無いのだから。