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――ケイデン君視点――
この建物に逃げ込んでから今日で三日が経ちました。
その間姉様は何をしていたのか分かりませんが、私は『統率者』に稽古を付けて貰っていました。そのお陰で少しは強くなった自信はあるのですが、未だ姉様に見せて頂いた高みには至っておりませんね。
「『統率者』さん」
「なんだ?」
三日も待ちましたが、騎士コッケルやチンピラ達はここへ来ませんでした。
「私は先を急いでいるので、そろそろ失礼したいかと思います」
「そうか」
『統率者』は少し俯いて軽く頷きました。
「明日にでも」
「随分と急な話だな」
「すみません。もう三日もお邪魔しておりますので」
「別に邪魔だとは思っておらんよ。我も運動相手が見つかっていて大変結構だ」
「そうだったのなら良いのですが……」
私はそう言って中庭を見下ろしました。今居るのは砦の三階部分。最上階ですね。
三日間、この中庭で『統率者』と手合わせをしてきました。今見ると大変薄暗く気味の悪い場所ですが、昼は丁度建物が日陰になってくれることもあってとても良い場所に感じられます。
「明後日にせぬか? 別れの宴を開かねば」
「そういう大層なものは要りませんよ。だから私は今言ったのです。こっそりと出て行くので、見送りも必要ありません」
「ふむ。お主がそれで良いのならばそうするが。まあ良い。見送りくらいはさせろ」
「少しだけですよ」
「分かった」
『統率者』とは約束を交わせました。姉様にも後で言っておかねばなりませんね。
「明日のいつ頃ここを出るのだ?」
「日の出と同時に出ようと思います」
「早いな」
大騒ぎして貰いたくはないですからね。
「ではお休みなさい」
「宴くらい開くが?」
「必要ありませんよ。こっそり出て行くつもりですので」
そう言ったつもりだったのですが、しっかりと伝わっていなかったのでしょうか? 人間とゴブリンでは完全な意思疎通など不可能なのでしょうか?
「もしもこれから先、騎士やチンピラが逃げ込んできたら入れてあげて下さいね?」
「本物と偽物の区別はどうやって付ける?」
そうでした。そこはしっかりと考えねばなりませんね。
「そうですね……。騎士の方は、私が死んでいることを知っている者が本物です。チンピラは頭領がオトマールと言うもので、総勢二百名程でしょうか。彼らは本拠地をなくしていますので、そこを確認すれば良いかと」
「うむ。分かった」
私は彼に背を向けました。
「それではお休みなさい」
「うむ。良く休め」
統率者と別れた後は勿論姉様です。
姉様の都合をしっかりと聞いた上で逃亡の計画を立てねばなりません。
「姉様」
部屋に戻ると私のベッドに姉様が倒れ込んでいました。
いつものことなので特に気にしませんが、かといって私が姉様のベッドで寝ることなど出来ず、私はどうすれば良いのでしょうか? 床でしょうか?
「姉様、起きて下さい」
うつ伏せの姉様の肩を揺らします。
うつ伏せで寝ているとまず第一に呼吸が苦しくなり、さらに大量の埃やダニなどを吸うため気管支が駄目になりやすく、第二に顎の骨格が変わって顔が平らになってしまいます。すると歯並びがおかしくなり、咀嚼能力の低下、顎筋力の低下、それらの事による食事の質及び量の低下、そこから消化器官の機能の低下等々、様々な悪影響が生じてしまいます。
姉様の顔が歪んでしまうことは私が許さない以前に、神が許さないでしょう。最も仮に神が許したとして、私は絶対に許しませんが。
「姉様」
「う、ん。なに……?」
姉様が寝返りを打って、片目を擦りながら口を開きました。
「おはよう御座います」
「ん。おはよー」
そう言いながら上体を起こします。
「何かあったの?」
「明日、ここを出ることにしました」
「そう」
え?
それだけですか?
「それだけ?」
「い、いや、それだけって……。姉様に何か予定などは入っていませんか?」
「特にないわよ」
「そうですか」
姉様の驚く顔を密かに楽しみにしていたのに、見れませんでしたね。
「明日、陽の昇る頃には出立します。姉様は朝に弱いですので、しっかりと起きて下さいね?」
自分でやっていて理不尽だという自覚はありますが、ちょっとした仕返しです。悪戯と言った方が聞こえが良いでしょうか?
「んー。カッドが起こして」
おっとこれは斜め上の切り返し。いえ、吝かでもありませんが。
「すぐに起きて下さいね?」
私は、姉様の驚く顔は見れなかった代わりに、満面の笑みを見ることが出来ました。
「もちろん!」
さて、明日の計画を立てなくては。
「まだ寝ないの?」
「やるべき事がありますからね。それに……」
私のベッドを占拠しているのは姉様ではありませんか。
「それに?」
「いえ、何でもありません」
「そっかー」
姉様の眠たげだった声が、再び途絶える雰囲気を醸し出しました。
「いっしょに……」
姉様の寝息が響きます。
「お休みなさい。良い夢を」
私は文机に地図を広げました。
目を開けると、窓の外には夜の帷に包まれていました。陽が昇る気配すら無く、梟の鳴き声までもが聞こえてきます。
「まだ夜ですね」
ですが、もう行かなくては。
「う、んんーぁ」
昨晩は机に腕枕をして寝てしまいました。
凝り固まった体を伸びをして解し、寝台で気持ち良さそうに寝息を立てている姉様の肩を揺らします。
「姉様、起きてください」
姉様の寝顔。
とても美しく、そしてどこか無邪気で可愛らしい。
完全なる、まさしく神の如き御顔。否、神よりも高い完成度を誇る、全世界における美の頂点たる尊顔。
暫く眺めていたいものですが、それで遅れてしまっては元も子もありません。
「姉様!」
「うんぁ。あとごふん」
「……。……では、五分後に起こしますからね。その時はすぐに起きて下さいよ」
「んぅ」
姉様は一つ寝返りを打って反対側に顔を向けると、もう一度寝息を立て始めました。
姉様の肩まで毛布を上げておきます。
「さて」
私は姉様の分も荷造りをしておきますか。
いや、姉様の私物を勝手に触ったりすることなど私にはとても……。
取り敢えず私の分だけでも用意しておきましょう。
この砦で頂いた軽鎧で身を包み、同じくこの砦で頂いた短刀を二本、ツインホルダーに収納します。そして腰のベルトに『収納袋』を挟み、地図を反対側に挟みます。
私の荷物と言えばこの位で、後は全て姉様の物です。
あっと、ペンを忘れていましたね。
ペンと六歳の頃に母様から頂いたペン立てを『収納袋』に入れておきます。インクはここでお借りしたものです。
五分待ってから、姉様に再度声を掛けます。
「姉様、起きて下さい」
「んなー。あとごふん」
「先程もそう仰って、五分経ったのですよ。さあ、起きて下さい」
「んー」
朝起きる事の辛さは私にも良く分かります。ですが、起きて頂かなくてはならないのに。
朝起こす側も大変ですね。
「はぁ。姉様」
「んー」
「置いていきますよ」
私が出来る限り冷たい声でそう言うと、姉様の肩がびくんと震えました。
正直心苦しいですが、心を鬼にして。
「もう行かなくてはなりませんからね。姉様はここで『統率者』の方々と過ごして下さい。いずれ迎えに上がります」
「だめぇ」
背を見せて言い放つと、後ろから姉様が飛び付いてきました。
「やっと起きましたか。早く準備をして下さい。行きますよ」
「すぐに準備するから置いていかないでぇ」
「分かりました。置いていきません」
「絶対だよ?」
「はい。絶対に」
姉様の腕を優しく剥がし、姉様に向き直ります。
「じゃ、約束して。絶対に私と離れないって」
「約束しましょう。でもその前に、着替えて、出立の準備をして下さい」
「準備したら約束してね」
「はい、そしたら約束しましょう」
「絶対だよ!」
「絶対ですね。私は部屋の外に立っているので、準備が終わったらお声掛け下さい」
「分かったわ」
私は部屋の外に出て行き、扉を守る守衛のように立ちました。
扉を閉めると姉様の声が飛んできます。
「絶対の絶対だからね!」
「はい。分かりましたよ」
どうして今日の姉様はこんなにもしつこいのでしょうか? 風邪でも引いたのでしょうかね。
風邪は万病の元と言いますし、特に今日は壮健でいて欲しかったのですが。
中から姉様の鼻歌が聞こえてきます。
それにしても遅いですね。機嫌が良いのはとても良い事だとは思いますが、そのために作業効率が落ちるのは大変非効率で本末転倒だと思うのですが。
私はその間、する事がないので色々と夢想して過ごしていました。
例えば、人間の善性についての証明の不可能性だとか、地上のありとあらゆる生物の創造主たる神の思惑と弱点だとか。
そもそもこの世の生物は全てある神がまた別の神を殺すために創られたものであるため、どのような方法にしろ、神を殺害する方法はあるはずなのですよね。にもかかわらず、神殺しという偉業についての文献や伝承はどこにもありませんが。
「お待たせ~」
私の背後の扉が開き、姉様が声を掛けてきました。
「いえ、待っていませんよ。思っていたよりも早かったくらいです」
「……私ってどれだけ鈍いと思われているの?」
「い、いえ。そういう意味ではありませんよ」
ショックを受けた声で姉様が呟きます。
どう取り繕いましょうか。
「姉様は十分に早かったですよ。私よりも早かったくらいです。ええ。姉様は私よりも荷物が多いでしょうに、荷物の殆ど無い私よりも早いとは夢にも思っていなかったのですよ」
「カッド、支度にどれくらいかかった?」
「……」
二分位でしょうか。鎧を着けるのに少し手間取ってしまいまして。
「十分位ですね」
「ほんとにぃ?」
「ほ、本当ですよ」
私の背中を冷たい汗が伝います。
これが顔であれば、恐らくすぐに姉様にバレていたでしょう。姉様には見えない背中で良かったです。
「まあ良いわ。それよりも、約束!」
約束……?
何のことでしょう。
「ん! 約束!」
「は、はぁ」
「約束!」
「はぁ」
「ん? 約束」
「……はぁ」
その様な問答を繰り返していると、姉様の顔が見る見るうちに泣き顔へと歪んでいきます。
「忘れちゃったの?」
「わ、忘れている訳がありませんよ。約束ですね、約束。しましょう」
泣き声で姉様に言われて、私は思わず顔が引き攣りかけるのを感じます。
必死に記憶を手繰り寄せます。
あ、あれですか。姉様がしつこかった。
「姉様の準備が終わったらすると言っていた約束ですよね」
「そう! カッドは一生私の側を離れないっていう約束!」
「そうですね」
そんな約束でしたっけ? いえ、そうでしたね。
姉様が仰る事です。間違いなどあり得ません。
「では、私はこの命が尽きる時まで、姉様の側を離れない事を誓いましょう」
「約束だよっ!」
「はい」
「ん」
姉様が私に向かって小指を突き出してきました。
「どうしましたか?」
指を痙ってしまったのでしょうか? 姉様は片付けや支度が苦手な方ですし、普段慣れない事をやって普段使わない筋肉を使ってしまい、指を痙ってしまったと言う事もあるかもしれませんね。
「指切り」
その言葉に私は少し驚きました。
「そうですね」
私は姉様と同じ指を右手で差し出しました。
同じ手の小指と小指が絡み合い、上下に力が加わります。
「ゆ~びき~りげ~んまん」
姉様からかかる力に逆らわずに、むしろこちらからも力を加えて約束を強くします。
「う~そつ~いたら」
姉様の笑みが温風となって私の心に吹き込みます。
「は~りせんぼんの~ます」
必ず投げ上げたボールは落ちてくる。必ず出会ったら別れる。
当然の真理のように、一度始めた事は終わりを迎える。
「ゆ~びきっった」
「あっ」
姉様が最後に下へ大きく指を振り、私の指から姉様の温もりが失われます。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
冷めた指を左手で軽く握り、二度撫でてから手を離します。
「行きましょうか」
「うん」
三日程滞在していた部屋を背に、私たちは並んで歩き始めました。
一章完結です
お付き合いくださり、ありがとうございました




