・兆候3
わたくしは午後四時過ぎを回った映画館を見遣り、もうすぐ始まる映画のチケットを買った。座席は普通のそれと特別製の二種類があるとのこと。
「祝井さんも動く椅子にすれば良かったのに!」
「えーでもなんだかこわいわ」
「やってみたらおもしろいかもよ!」
なんと彼は鑑賞料金に千円プラスして臨場感を高める椅子――通称「動く椅子」に自身の座席を変更していた。
それは映画の内容に合わせてシートが動き、まるで登場人物が感じている動きや衝撃を自分のことのように体感できる座席のことだ。
水に飛び込んだり雨が降っているシーンの時に前の座席からかすかに水が噴霧されたり、大空を翔けたり高い場所から落下するシーンの時には風が吹いてくるなどギミックが満載のため、追加料金さえ払えばより深く映画を楽しめるだろう。
「また今度やってみますわ」
けれどもわたくしは通常の椅子にすることにした。何からそう感じたのかはっきりとはわからないが、この時わたくしはこの映画に限って、体感式シートには座らないほうが良いと直感したのである。
「そう。あっ、ポップコーン買って来て良いかな? 祝井さんも食べる?」
「ありがとうロックハートくん。でもお気になさらず。わたくしは結構ですわ」
お友達作戦改め尾行作戦が功を奏したのか、わたくしたちはすっかり仲良くなることができたのではないかしら?
なぜなら、二人っきりで映画を観るということは、それだけでわたくしたちの関係性を深めることにつながりますもの。
「わかった! じゃあ買って来るから少し待ってて!」
「ええ」
わたくしは元気良く売店にポップコーンを買いに行った彼の後ろ姿を眺めて、そのように思った。
「おまたせ! じゃあ行こっか!」
「そうですわね」
10番スクリーンに入ると、お客さんは誰一人いなかった。彼と隣同士で後ろから二番目、真ん中の席に腰掛けても、人っ子一人現れる気配はない。
「誰も来ないね……」
「……ええ」
やはり恋愛映画は不人気なのだろうか。わたくしたちと同じ放課後を迎えた学生が一人くらい来ても良さそうなものなのに、劇場内はしーんと静まり返っていた。
「あっ、ちゃんと動くこの席!」
けれども追加の鑑賞料金を払ったことにより電源がオンとなり、可動するようになった座席を確認したロックハートくんは大はしゃぎ。わたくしは少年の心を持つ彼に笑いかけた。
「ロックハートくん子どもみたいですわ」
カチャカチャとレバーを動かしたりボタンを押して動作確認をする彼がすっかり映画館を楽しんでいる様子で、わたくしも嬉しくなった。気がかりなのはやっぱり……。
「ロックハートくん、本当にそんなに食べて大丈夫ですの?」
「平気へいき、大丈夫だって!」
わたくしは彼が両手に持つLサイズのポップコーンとジュースを見て心配になった。
端から見ても相当な量があるというのに、彼はオマール海老のパスタを食した時のようにばくばくとそれを飲み込んでいく。ロックハートくんは見かけによらず大食いなのだろうか。
「あっ、暗くなった!」
そして映画が始まる。十五分ほどの予告映像が流れ、本編が始まると、最初こそ好奇心を膨らませていたわたくしにも限界がきた。
恋愛映画とあってキスシーンなどは想定していたが、だんだんと映像が過激となり、とうとう物語の男女がホテルに入って行くと、そこからは未知の世界だった。
この人たちはどうして服を脱いで、肌を寄せ合っているのだろう。
二人っきりの映画館。わたくしは隣の席に座る彼のことが気になってしょうがなかった。
ロックハートくんは今、どんな気持ちでこの映画を観ているのだろう。ベッドの上で裸になって抱き合う男女の映像を観て、どんな気持ちになっているのだろう。
わたくしの心はぐちゃぐちゃになり、ついには羞恥心を通り越して困惑してしまっていた。
わたくしにとって恋愛とは、唇と唇を合わせるだけのことだと思っていた。
それによって子どもが産まれてくるのだということを知っていたし、何より人工出産と異なり母体から赤ちゃんが誕生する事実に、驚きはしていたものの理解はできていたつもりであったのだ。
だけれども、この映画はわたくしの頭で理解できる範疇をはるかに超えていたし、心で納得するには圧倒的に知識が足りなかった。
まるで動物みたいな声を出してホテルのベッドの上で暴れ始める男女。
いつからこの映画のジャンルが『アクション』になったのかはさて判然としないが、何の脈絡もなく格闘戦を催す登場人物たちに、わたくしはどんな感情も抱くことはできなかった。
ただ意味がわからない。感想を付け加えるのなら、裸の男女がベッドという土俵の上で相撲を取って、寒くないのかな? ということくらいか。
わたくしは終始繰り返されるアクションシーンに疑問符を浮かべて、そののち共に汗を流して友情を確かめ合ったのかすっきりとした表情をする男女に、やはり困惑した。
そうして二人笑顔でエンディングを迎えてしまったので、映画が終わる頃には、わたくしの頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになっていた。
スタッフロールも終わり、劇場全体が明るくなると、わたくしは二時間あまりの時間を無為に過ごしてしまった事実に落ち込んだ。
しかし完璧美少女がいつまでもそうしているわけにもいかないので、わたくしは無理遣り笑顔を作り、ロックハートくんに視線を向けた。
「ロックハートくん?」
わたくしは空っぽになったポップコーンケースを手に持って、お腹を押さえる彼に驚愕した。
「ロックハートくん、大丈夫!?」
左手で腹部を押さえ、口元を膨らませる男の子。ま、まさか……。
「た……立てる? 気分が悪いの!?」
まさかポップコーンを食べ過ぎて、吐きそうになっているのでは!?
わたくしはそうした不安が頭を過ぎったことで、彼の背中をさすってあげた。
ごくりと唾――唾……つばで合っていますわよね!?――を呑み込み苦しそうにしながらも、わたくしに笑顔を見せてくれたロックハートくんに安心した。
「ご……ごめん祝井さん。ちょっと男女のベッドシーンを体感し過ぎただけだ……」
ロックハートくんは無理に作った笑顔を見せながら、鑑賞前はあれほどはしゃいでいた体感式シートに辛そうな目を向け、わたくしに感謝の言葉を発った。
「ありがとう祝井さん。ちょっと吐き気がしたけれど、だいぶマシになったよ」
そう言ったロックハートくんに合わせて彼の背中から手を離し、ふたり席を立っては、もう一度彼の容態を問う。
「本当に大丈夫ですの?」
「ああ、心配ない」
「その割にはまたお腹押さえてますけど」
「ああ、大丈夫だ」
「本当のほんとうに!?」
「本当のほんとうだ」
「……そう。それならば良かったですわ」
背中から離した手を彼の腕に持っていき、まるで老人を介護するような姿勢になるわたくし。
映画館を出ようと彼を連れて座席から一歩足を踏み出した途端、ロックハートくんが苦しそうな声音で告げてきた。
「ごめん、やっぱ無理」
「ええッ!?」
わたくしはそのとき生まれて初めて、人の口から虹が架かる光景を目にしました。
完全に余談ではありますが、虹というのは基本七色のイメージが強く、そのとき見た二色の虹は、わたくしにとっても思いも掛けない色でした。
まず、白い虹。これは彼が映画鑑賞前から食していたポップコーンの色でしょう。トウモロコシの鮮やかな白に混じり、よく歯に挟まる茶色い皮が見事なコントラストを作り、わたくしの純白のドレスを汚していきます。
次に、赤い虹。口から放たれた赤と言ってはじめに連想されるものは血であるような気がいたしますが、このときに至り、それは彼が昼休みに食べたオマール海老のパスタとそのソースであることを瞬時に悟りました。
――そう、あのエビは伏線だったのです。
わたくしは決してこのような悲劇を待ち望んでいたわけではありません。
決して、今日この日のためにオーダーメイドで作らせたお気に入りのドレスを彼の吐瀉物で塗れさせたかったわけではありません。
すべては偶然。偶然によって起きてしまった惨劇だったのです。
もしもわたくしが「お友達作戦」と称して彼を尾行しなかったのなら?
もしも彼が映画館に行かず、そこで「動く椅子」なる物を知らずにいたのなら?
もしもわたくしがベッドの上で男女が裸になって戯れる「恋愛映画」などという代物を鑑賞しようと提案しなかったのなら?
そうした「もしも」が叶うのであれば、今こうして紅白二色の虹がわたくしの服に降り掛かることもなかったでしょう。
スローモーションにも感じる時間が終わると、ようやくにしてロックハートくんの声が聞こえてきたのでした。
「ご……ごめん、祝井さん…………」
彼は本当に苦しそうな顔を浮かべ、ゲロまみれになったわたくしに謝罪した。
わたくしのこの、白一色だったドレスの値段を教えてあげようかとも思って、すぐさまそれは彼にとってあまりに酷なことであると気がついた。
――さて、こんなとき、美少女だったらどうするか?
人に好かれるために、己の弱点を隠すことを自身のプライドとして掲げた完璧美少女が取るべき行動とは、果たしてどんなものなのか。
数百万円もするお気に入りのドレスが男の子の吐瀉物まみれとなったとき、わたくしはどうするべきなのか。
わたくしはたった一度「すーっ」と息を吸い込み、彼に怒ることも、悲しむことも、泣くことだってせずにすばらしい笑顔を向けた。
「構いませんわ。ロックハートくんこそ大丈夫ですか? よろしければこのあと、あなたの汚れてしまった服を着替えるためにも、わたくしの屋敷に寄って行きませんか? あたたかいお風呂もご用意いたしますわ」
「い……祝井さん……?」
――や、やり遂げましたわ! わたくしはこれで、また一つ美少女として成長しましたわ!
「さあ、参りましょう。藤井に迎えに来させますから」
わたくしは青褪めたまま固まるロックハートくんににこりと微笑み、美少女として完璧な対応を心掛けた。
「きっと楽しい一日になりますから」