・完璧美少女3
四時間目の授業は、国語。
数学の時間では別々の教科書を使っていた俺たちだが、いよいよもって、俺が彼女に声を掛ける時がきたようだ。
「祝井さん、実は国語の教科書だけまだ貰っていなくて、良かったら見せてくれないかな?」
俺の言葉に、やはり祝井さんは嫌な顔一つ見せることなく笑顔で言った。
「あらそうですの。もちろん構いませんわ!」
――優しい! 本日祝井さんとの出会いを果たしてからまったくもって彼女のことで頭がいっぱいになってしまっているが、こんな素敵な笑顔を見られるのなら、彼女と出会う前の灰色な自分の記憶などすべて忘れ去ったっていい。
祝井さんの笑顔を記憶に刻むためになら、およそ今まであった幸福な思い出を丸ごと捧げたって構わない。そんな気がした。
そして、とうとう俺は国語の授業の始まりとともに彼女と顔を近付けることになった。
教科書片手に板書を取る先生をちらちらと見遣る素振りをしつつ、実際のところ彼女の横顔をいかに見るかに注力していた。
今日初めて出会ったばかりの女の子に対して、俺は自分でも信じられないほど脳のキャパシティーを使っていたが、それもそのはず。
ずっと見ていてもまったく飽きる気配のない幸せな光景は、脳のみならず、俺の心のキャパシティーまでもを根こそぎ奪っていった。
――罪な女の子だと思った。
好意とは、人を狂わせてしまう効力を持っているのだと、俺はこのとき思い知ることになった。
嫌悪感が人に消極的な態度を取らせてしまう要因となるのなら、まさしく好意とは、人に積極性をもたらす劇薬なのであった。
よって、俺は自分でも不思議と大胆な行動を取ってしまう。それは彼女の細く透き通る指を見て、ふと洩れた発言だった。
「祝井さんの指、とっても綺麗なんだね」
いつもの自分であれば授業中ということも相俟って、絶対に出て来ないであろう台詞。
けれど今この瞬間に至っては、その言葉を言うより他は何も考えられなくなってしまって、何としてでも彼女の美しさについて自分がどのように感じているのかを表現したくなってしまったのである。
ミュージシャンや小説家は、自分の感じた日常へ対する想いを歌詞や文章によって表現すると思うけれど、今そうした彼らの気持ちに共感できた気がする。
彼女は美しい。
ただそれだけのことを伝えるのに七文字――はたまた自分の心境を添えるには、それ以上に多くの言葉を用いなければならない現状に対して、俺は少し悔しいような、もどかしいような心地さえ覚えるのだった。
して、彼女はここでも花のような笑顔とともに、
「ありがとうございます」
とだけ言った。
その言葉によって俺は、これまでの人生とは彼女のこのひとことを待っているだけの時間であり、ひいてはその感情とは、取り留めもなく憂鬱な日々のすべてを擲っても依然構わないと思える徒然だった。
ほんの少しでもいい。ほんの少しでも彼女に認められ、俺なんかのためにお礼を言ってくれるのであれば、たとえこれから先の未来にどんな困難が待ち受けていようとも、強く生きていけるような気がした。
それほどまでに自分の――後から思い返してみると、とんだ気障男の――台詞を受け入れてくれた彼女に対して、俺はやはりどうしても、純然たる好意を向けてしまうのであった。
「あっ」
彼女に目を奪われていたので、机の上から消しゴムが落ちてしまうまで、俺は自分の手の位置を気に留めることもしなかった。
「拾って差し上げますわ」
「え!? い……いやいいよ! 自分で拾うから!」
心が苦しい。その所為で、言葉も詰まる。
先生が教科書に目を落とし例文を読む中、俺は彼女の親切心からくる言動に畏れ多さを感じていた。
消しゴムを拾うという日常のワンシーンからしてみればさほど重要にも思えないファクターに、俺は彼女に畏まるとともに、祝井さんの手をわざわざ煩わせてしまう自分の浅はかさを恥じた。
すると当然次に取るべく所作は決まっており、すなわちそれは「自分自身で落とし物を拾う」ということなのだけれど、これが一つの落とし穴であった。
「あっ……」
床に落とした消しゴムに向けた手と手は見事に重なり、俺は彼女に触れてしまったことに驚いて、すぐさま祝井さんの反応を窺ってしまった。
――実のところ、怖かったのだ。
普段別の女の子に対してここまで物怖じしない性格の俺でも、こと祝井さんに嫌われてしまうことに関しては、自分でも思い掛けないほどに臆病だった。
実際、俺なんかの指が祝井さんの細くて小さく可愛らしい手に触れ、彼女が一瞬でも自分の存在を否定して、拒絶して、非難するかのような視線を向けてきたその時には、俺は自分自身で心を押し殺し、もう二度と立ち直れない気がしていた。
……おかしいのはわかっている。俺は今日の朝からおかしくなってしまっているのだ。
彼女と出会ってからというもの、俺の心を制御する歯車が狂い始め、世界が彼女を支柱にして動いているかのような錯覚、または自分と彼女だけを取り残して世界の破滅を願うかのような感覚に、ずっとずっと囚われ続けてしまっている。
迷い? 怯え? 震え? 喜び? 恐れ、戸惑い? 悲しみ? 喜び? 痛み? 虚しさ? 喜び? ……喜び!
俺は彼女と出会ってから身に沁みるもやもやとした感情に答えを出せずにいた。
そうそして、今それが明らかになった。この心は喜びなのだ。祝井さんと出会えたことの喜びに、俺は今まさしく感動している!
瞳と瞳が交錯してお互いを映し合い、俺は彼女に認められ、受け入れてもらえたような気がした。
祝井さんの赤く染まった頬は二人の出会いを祝福しているかのようであったし、ふたり目を見合わせ、すぐに逸らすその仕草はこれからの男女の行き先をまっすぐに指し示していることを予感させた。
けれども、一秒足らずの時間を置いてふたたび目を合わせることになった二人の感懐は、たったいま当面した確かな共通感覚に対して不慣れで恥ずかしさを覚えている事実を如実に表している出来事でもあった。
俺はいま、祝井さんの瞳に、どんな風に映っているのだろう。
たったひとつの消しゴムによって開錠されていく心の鍵。
もう引き返すことはできない。
なぜならもう、俺と祝井さんの物語ははじまりのベルを鳴らして、ふたりを誘い始めているのだから――。