・完璧美少女
・完璧美少女
先生が元気良く自分の名前を呼んだので、思いのほか俺の中にあった緊張は吹っ飛んでいった。俺は一人の人間に注目する二十九の瞳を見据え、先生に倣って元気良く発言した。
「フレディ・ロックハート十七歳。元々この近くに住んでいたんですが、親の仕事の都合でこっちに引っ越して来たことを機に、より近いこの学校にやって来た次第です。普段はボランティアでカップルを取り締まる恋愛局に勤めています。……えっと、ぜひ仲良くしてくださると嬉しいです!」
噛みかみではあったが、なんとか上手く言えた。
俺は直後にパチパチパチパチ……と拍手してくれた新しい仲間たちを認め、期待感に胸を膨らませた。
「それじゃあロックハート君の席はあの一番後ろの席ね。祝井さん、彼をよろしくね!」
――祝井さん。
先生からそう言われた彼女は、今日の通学中に倒れた彼女だった!
俺は必然的に、またしても「運命」やら「奇跡」とやらの存在を知覚せねばならなかったし、同じ学校の、それも同じ学年同じクラスの隣の席になったことに対して、もうどうしようもないほどに感激していた!
「よ……よろしく!」
言葉が詰まってしまったことは、この際しょうがないだろう。ごくりと唾を飲み、彼女のすぐ隣に位置する席を認めて、その椅子をすっと後ろに引く。
「よろしくお願いいたしますわ」
その声は、ハープで奏でたかのような流麗さで俺の耳を心地良く刺激した。
たとえば激しい運動の後に水を飲んだそのとき。
たとえば冬の凍えるような寒さから家のコタツに身を入れたそのとき。
たとえば風邪を引いている状態で家族から優しい声を掛けられたそのとき。
そんなとき、人はどう感じるだろうか。きっと「ありがたい」、もしくは「助かった」などと感謝したくなるほどの喜びを覚えるのではないだろうか。
彼女のそのひとことは言ってしまえば俺へのプレゼントにも等しく、それだけで価値のある音の連なりなのであった。もっと言えばその存在そのもの自体が見た者すべてを幸せにしている。
人間は生きている以上、自己を維持存続させるために仕事をしなければならない。仕事とは換言するところ生産行動であり、誰かのために何かをしたこと――正鵠を期すならば、誰かを幸せにすること――によって利益を生む行為である。
なればこそ、見た者を幸せにしている祝井さんは、ただそこに存在しているだけで仕事をしている、人間として果たさなければならないであろう責務を見事に全うしていると言うことができるのではないだろうか。
美の女神の彫像は見た者に「美しさとは何か?」と考えさせる。
アイドルは見た者に活力を与え、「可愛さとは何か?」と問い掛ける。
天使は見た者に天国の存在を教え、「生きることとは何か?」と命題を突き付ける。
つまりはそういうことなのだ。
俺は祝井さんの隣に身を置くことに、そしてこれからの長いながいあいだ同じ時間を共有する事実に、神様に心から感謝していた。
「んじゃ、今日もがんばりましょう、諸君!」
女性教員がそう締め括ると、今日の授業がはじまりを告げた。
一時間目は、学活。
二年生が始まるとあって、学級委員と係決めをおこなうらしい。俺は内心、園芸委員か図書委員を希望していた。
「あの……誰も学級委員やってくれないの?」
恒例の光景ではあるが、先生が困った様子で二年A組の生徒たちに問い掛ける。
三十人もいるクラスメイトは誰も手を挙げることなくそっぽを向き、我関せずといった調子で先生の言葉を聞き流している。
「あの! でしたら俺で良ければやりますけれど」
俺は何よりも停滞を嫌う。時間を無駄にすることが嫌なのだ。
「本当にっ!?」
俺が朝のホームルームや休み時間と異なり、しんと静まり返った教室の中で手を挙げると、先生は「待ってました!」とばかりに自身二つの手を合わせた。
「ありがとうロックハート君! 残るは女子ね!」
俺は先生から手招きされ席を立ち、教壇の前へ向かった。
「さあ、早くしないと一時間目終わっちゃうわよー」
先生が生徒たちを焦らせるようにそう言うと、カリギュラ効果に基づき、案の定クラスメイトたちは沈黙を貫いた。
そして俺は、魔法を見ることになる。
学級委員と言えば面倒くさい役員の代表格。これから一年ものあいだ重圧のある責任を背負わなければならないのだから、気が引けてしまうのも致し方なきこと。そんな学級委員という大役に、立候補する者がいた。
きっかけは、一人の少女の挙手だった。
なんと祝井さんがその手を上げた途端、今まで沈黙を守り通してきた男子生徒の全員が、まるでタイミングを合わせたかのように一斉に動き出したのだ。
先生はひとたびにして獲得した十四人プラス一人の支持者たちを眺めて、卒倒し掛けた様子であった。俺が慌てて女性の肢体を支えると、先生はその目に嬉し涙を溜めていた。
「みんなそんなに学級委員がやりたいだなんて、私、教師になって初めて……!」
と、先生はそのように呟き、そして我を取り戻して俺の腕から跳び立った。
「男の子たち! みんな祝井さんが大好きだからって今さら手を挙げたって遅いんだからねっ!?」
「えー」「だって転校生にやらせるんじゃ可哀想だと思って……」「別に後から手を挙げたって同じだろー」
先生の言葉に男子たちが異論を唱えると、満を持してと言うか、クラスの中心人物が意見を投じる。
「みなさん、大勢で先生に詰め寄ったら先生困ってしまいますわよ? それにわたくし、みなさんが整美委員や体育委員の仕事をする姿も見てみたいですわ。また黒板係や飼育係といった係の仕事をおこなう姿も素敵でしょうし、体育祭や文化祭の実行委員になって努力する姿も、きっと格好良いに相違ないですわね」
ひとつの沈黙。
得てして祝井さんは人心を掌握する能力者なのではと疑いたくなってしまうが、彼女の思惑に気づいていてもなお、一人の女の子の意向どおりに動きたくなってしまう男子たちの気持ちもわかってしまうわけで。
「うおー! 俺は体育委員になって思いっ切り汗を流すぜ!」「おれだって毎日毎時間チョークの跡すら残さないほど綺麗に黒板消してやる! 黒板消しマスターに、おれはなる!」「祝井さんと仲良くなるために出し物を企画する……メイド喫茶で祝井さんのメイド姿……お化け屋敷の暗闇であんなことやこんなこと……出店で一緒に料理という名の共同作業……むふふ、文化祭実行委員も夢が広がりますなあ!」
と欲望丸出しの声が男子たちから洩れ聞こえていても祝井さんは嫌な顔一つせず、むしろその発言に喜びまで見出だしているかのように笑みを浮かべ、先生を見たのだった。
「先生、男の子たちもこのように仰っているわけですし、早いところみなさんの委員会と係をお決めになって、自習時間に入りませんか? そのほうがみんな、時間を有効に使うことができると思うのです」
俺はとうに超越し尽くした祝井さんの一つのステータスを見て、想定したとおり「美」とはその性質を持っているだけで他者に安らぎと癒し――ひいては活力を与えるものなのだと思い知る。
そのあと担任の先生はいやに素直で純朴な男子生徒の協力もあって、本来五十分という授業時間の半分を読書に宛てることができた。
委員会と係を難無く決め終わった二年A組のクラスメイトたちも、その後の二十五分ほどを自分の好きなように使うことができたし、俺としても初めての授業のおよそ半分が自習に終始するという意外な結果を見て、畏敬の念とともに隣の席に座る少女を眺めたのだった。