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・フレディ・ロックハート

・フレディ・ロックハート



「おにいぃー! お弁当まぁーだー?」


「はいはい今作ってますよ今ー!」


登校日の朝は忙しい。


それは俺ならずとも妹の鞘華さやかも一緒なようで、朝食のパンを齧る彼女を、母親が窘めた。


「鞘華、あんまりお兄ちゃんを焦らせちゃ駄目でしょ? フレディは毎日わたしたちのお弁当を作ってくれているのよ?」


「だってーっ」


テーブルに腰を落ち着けることなく居間の掛け時計に目を走らせる鞘華に、俺の母、ナナコ・ロックハートは困った顔をして見せた。


「母さん、母さんの分のお弁当できたぞ! 今日は自信作だ!」


仕事へ行くためワイシャツを着る母にいつものお弁当箱を渡すと、母は上も下も紺色の下着が見えた状態で言った。


さすがに目の遣り所に困り難儀するものの、母は息子に恥じらう素振りの一つも見せることはない。


「ありがとー! 今日のお弁当はなあに?」


シャツのボタンを一つひとつ留めていく母だが、俺は彼女が上手に着ることができていないことを指摘した。


「あーあー母さん、ボタン掛け違えてるぞ。今日のお弁当はエビフライと海老の天ぷらの豪華二大エビ祭りだ。エビ好きの鞘華が喜ぶと思ってな」


「わーいエビ大好きー! さっすがお兄ぃ!」


妹は食パンの最後の一口をごくんっと飲み込むと牛乳を咽喉のどに流し入れ、「ごちそうさま!」の掛け声とともにリビングを飛び出した。


「それじゃあお母さん、行って来ます! お兄ぃも初登校がんばってね! んじゃ!」


「はーい、いってらっしゃーい。慌てないで気をつけて行くのよー!」


「うん!」


嵐のような怒濤の勢いで家を出て行く妹に、俺は「やれやれ……」とため息を吐く。


「……ってあの、肝心のお弁当忘れて行ってるじゃない」


俺が母にシャツを着せてあげて、彼女がそう言った直後だった。バタンッ、と再びドアが開けられ、慌てん坊の鞘華が舞い戻って来た。


「あっぶなーいあぶなーい。危うく忘れるところだった!」


「まったく……」


妹は間が悪そうにリビングを忍ぶ演技をすると、そそくさと居間のテーブルの上に置かれた彼女専用のお弁当箱を持って退散した。


「さらば!」


今度は忘れ物をしていないようで、鞘華は無事に中学校へと向かった様子。


「下は自分で穿けるよな?」


俺は身なりを整えてあげた母さんに問いかけ、おどけたように首を傾げる。


「わざわざありがとうねフレディ。うーん、我ながら良く出来た息子だわー!」


親バカなのか子離れできていないだけなのかは知らないが、母はほぼ半裸状態で俺のことを抱き締めてきた。


「はなれろ! ……ったく良い歳した大人なのに高校生に服を着替えさせてもらっているだなんて駄目な母親だな!」


「怒るフレディも可愛いわー!」


「うるさい! さっさと服を来て仕事に行け!」


「はいはーい」


息子とのコミュニケーションを中断させられて不満げな口調となり、母は着替えを済ませ、ビシッとスーツを着て仕事モードになった。


「不肖三十八歳二児の母、いざ仕事に行って参ります!」


「早く行け、バカ母」


「フレディちゃん、ママに行って来ますのチューは?」


「ねーよババア」


「まあ、ナナコちゃん今日も最高に可愛いよだなんて口がお上手ねえ!」


「言ってないから。はいはいお仕事行きましょうねー?」


「わーん! 息子がきーびーしーいー! そして、かーわーいーいー!」


戦国武将マニアの血なのか知らないが、親子揃って「さらば!」と同じ掛け声を発して家を出て行く母なのであった。


「さーて、俺もそろそろ学校行かないとなー」


夜のご飯の仕込みも終わったし、洗濯は昨日ほぼやっちゃったし、もちろん食器も全部洗ってある。あとは通学カバンを持って家を出るだけだな。


俺は二人を見送り家事を済ませると、高校へ行くための支度を開始した。


とは言っても持って行く物は筆記用具くらいだ。転校初日の今日、教科書は朝のホームルーム前に職員室へ行き、そこで担任の先生から貰うことになっている。


ので、俺もちゃっちゃと朝食を済ませ、家を後にすることにした。時間にはまだ余裕があるが、さすがに転校して来たその日に遅刻というのは格好がつかない。


俺は手早く家の鍵を閉めると、駅から学園行きのバスに乗るため、歩を進ませた。


するとしばらくした頃だろうか。駅へ向かう通学中に、女子小学生が地面に座り込んで泣いている姿を見つけたのだ。


「どうして泣いているの?」


俺はそっと女の子の肩に手を置き、問いかけた。すると七歳くらいに見える彼女はことさら大きな泣き声で、周囲に向けて大声を発した。


「うえーん。知らない人ー!」


おそらく「知らない人とおしゃべりしちゃだめよ?」と彼女のママに言われているのだろうが、心配して声を掛けたというのに、これでは俺が彼女を泣かせてしまっているみたいだ。


事実、真実とは異なれど「どうしたどうした?」といった嫌疑の瞳を向けてくる通学途中の学生たち。


俺は少し厄介なことに巻き込まれたなあと思いながらも、やはり女の子が泣いている原因を知りたくなった。


「俺の名前はフレディ・ロックハート。君の名前は?」


「うえーんっ」と泣いていた女子小学生の身体に傷が無いことから、転んで怪我をしたわけではなさそうである。


「まゆ」


女の子はしばらくして泣き止むと、ぼそりと自身の名前を口にした。


「まゆちゃんって言うんだ。かわいい名前だね。どうして泣いているのかな?」


赤いランドセルが重いのか、どこか覚束ない動作で立ち上がったまゆちゃんは、目の前の俺に泣いていたわけを話してくれる。


「道がわからなくなっちゃったの」


言葉の足りなさに一瞬困惑するも、彼女が見せてくれたパスケースを見て合点がいく。


「ふむふむ。まゆちゃんはバス停に行きたいんだね?」


「……ぅん」


見たところ小学一、二年生ほどだというのに一人でバス通学とは偉いなあ。俺はそう思うと、またしても彼女に問いかけた。


「それ、ちょっと見せてくれる? お兄ちゃんならまゆちゃんがどこへ行けば良いかわかるかもしれない」


「うぅ……ぐすっ、わかっだ」


鼻水が垂れているまゆちゃんにティッシュを差し出すと、代わりに俺は彼女から定期券の入ったパスケースを受け取り、どこ行きのバスなのかを確かめた。


「青草学園行きか。それなら、これからお兄ちゃんが乗るバスとおんなじだ! よしっ、行こう!」


「ふえっ!?」


俺は洟をかみ終えたまゆちゃんの手を取り、引き続き最寄りの駅を目指した。


まだ状況が整理できていなさそうなまゆちゃんであったが、俺が自分の行き先を案内してくれると思った様子で、素直について来てくれた。


「まゆちゃんの好きな食べ物はなあに?」


彼女の不安を和らげるために他愛のない質問をすると、思いのほか食い付きの良いまゆちゃんの元気な声が聞こえてきた。


「えび!」


「えびかあ」


エビ様まじ大人気である。こんなことならもう一つお弁当を作っておくんだったなあ、とこれまた他愛のない思考をしたところで重大な事実に気がついた。


「やべっ、自分の分のお弁当作ってないじゃん……!」


今頃になって自分の失態に気づくバカな兄。これでは妹の慌てっぷりに呆れてため息を吐いた自分が恥ずかしくなってくる。


「どうしたの?」


「ううん、なんでもないよ」


挙げ句の果てにはつい先ほどまで泣いていた女の子にまで心配されてしまう始末。とほほ……今日のお昼どうしよう……。


「とうちゃーく!」


なんとか最寄りの「若草駅」に着くと、俺たちは電車通学ではないので駅構内には向かわず、バスを待つ駅周辺のロータリーへと急ぐ。


「あっ、ちょうどバス来たみたいだぞ?」


私立小学校「青草学園」および俺が今日から通うことになる「月草学園高等部」は同じバスの路線上にある。


小学校のほうが高校へ行くまでの途上に位置するので、このバスに乗れば無事まゆちゃんを小学校まで送り届けることができそうだ。


ピッ、と学生通貨入りリングをバス入り口のタッチパネルにかざし、精算準備に入る。


この左手首に嵌めている銀の輪っかは「通話リング」と言い、電話機能からホログラム装置、電子マネーを入れるお財布から恋愛報知器と多彩な機能を有する。


実に「学園都市」に住まう九十パーセントの人間がこの通話リングを身に付けているのだから、その普及率の高さからどれだけ便利な代物かを窺い知ることができるというもの。


今ではインターネットサーフィンやアプリゲームまでもがホログラム映像を介してこの通話リング一つで利用できるのだから、もはや手放した自分を想像することなど不可能だ。


「まゆもピッ、ってやる!」


すっかり涙を流したことさえ忘れた様子のまゆちゃんも、自身のパスケースをかざして乗車位置と料金情報を登録すると、俺たちは二人掛けとなる窓際の席に座った。


「お外見る?」


こうしていると、少し前までの鞘華を見ているようだなあなどと感慨に耽っていると、バスがそろそろと動き始めた。


窓際に座ったまゆちゃんを見遣って一緒に離れていく駅を眺めると、朝とあってか乗車率の高いバス内の様子に気がついた。


「ここ、座りますか?」


中学生の頃に恋愛局へ入ってから、正義感というのか義務感というのか、ともかく形容し難い思いやりのような気持ちが少しずつ育まれてきたのかもしれない。


「ありがとうねえ」


俺は揺れるバスの中で吊り革を持って立つおばあさんに声を掛けると、彼女をまゆちゃんの隣の席へと誘導した。


「良いお兄ちゃんだねえ?」


おばあさんのそうした言葉にまゆちゃんは快刀乱麻の物言いで、


「お兄ちゃんじゃないよ! 知らない人!」


と至極正確な認識で発言する。俺は「まあ、たしかにそうだな」と苦笑しつつ、出会った時と比べて笑顔を取り戻したまゆちゃんの様子にほっとして、そしてまた安らかな気持ちになった。


通学というものは慌ただしく、とてもつまらないものだと思っていたが、自分の行動次第で意味のあるものにも変えられるのだと思うことができた。


なので女の子とおばあさんを乗せたバスの中に、俺と同じ学校の女子用制服を着た生徒の姿を認めた時にも、俺は自然と彼女の様子を窺い知ることができたし、その異変を感じ取ることができたのだ。


今や俺と同じようにして吊り革を掴み、バスの揺れとは異なるリズムでふらふらとした動きの女子生徒。


月草学園のブレザーも心做しか縒れているようにも見え、また内実彼女自身も落ち込んでいるように感じた。


――不思議な少女だった。


まるで美術館から美の女神の彫刻をそのまま持って来たかのような華やかさと、その彫像に花のごとく香る生命力を付与したかのような印象。


彼女の美しさ、ひいては華やかさを表現するにはあまりに言葉が足りず、同時にいくら言葉を尽くしてもその真実を表現できないと思わせるだけの神秘さと圧倒的な存在感を纏っている。


学園一の美少女? 世間を騒がせるアイドル? 天界から舞い降りた天使? ――とんでもない! 彼女はそうした女性的性質をすべて内包した上で可愛さに特化して創られた理想の偶像なのだ。


もしもRPGよろしく才能の多寡をそれぞれの能力に振り分けるシステムがこの現代にあったのなら、彼女は間違いなく「美」というステータスに全振りしていることだろう。


敵となるモンスターは彼女のあまりの美しさに攻撃を加えることができないし、そもそもしようと思うことさえ不可能であろう。


誰だってうらぶれた雑踏の中に咲く一輪の花を見つけたら踏むのを躊躇ってしまうように、彼女の周囲には輝くオーラがありふれていて、その雰囲気に包まれた者はたちまち敵意も疲れも忘れてその安らぎと癒しに心を傾けたくなってしまうはずだ。


だがしかし言ってしまえばそれだけのことで、強く輝くその光の源をかすかにでも見ることは到底叶わないことであるし、彼女が何を想い、何を感じて今そこに立っているのかも俺には窺い知ることしかできない。


『次、止まります』


女の子とおばあさんが仲良く談笑するそのすぐ脇で、俺は何をしているのだろう。一目見ただけの彼女について思考した蓋然性は俺の心のどこから生起したものなのか。


俺はいやしくも、彼女と同じ学校の制服を着ていることから、何かを期待してしまっているのだろうか?


偶然性とも可能性とも必然性とも知れぬ一つの「蓋然的事象」を日常のワンシーンから切り取ってみたところで俺の人生には一縷の変化もないのだから、即刻こうした意味のない思考を取り止め、いつもの――そう、相変わらずで変わり映えのない、けれど適度のあたたかみのある――日常に戻るべきだ。


「ありがとう、お兄ちゃん!」


まゆちゃんの一言が現実に引き戻るためのきっかけになったかといえば、それはかなり怪しいと言わざるを得ない。


おばあさんと一緒に「青草学園前」にて降車した女子小学生を見送り手を振る一つの仕草をしてみても、なぜだか俺の心は曖昧模糊として徒然なる不確かな幻想に囚われるばかりで、つまりはその感情とは運命なのであった。


『月草学園前。お降りの方は、お手元のブザーにてお知らせ下さい』

俺はいつまでも彼女に見惚れているわけにもいかないので、急に訪れたかのように感じる現実光景を確かめ、「開幕ベル」の音に耳を澄ませたのだった。


『次、止まります』


大袈裟かもしれないが、帰するところ彼女が俺と同じ行き先へ向かうことは運命なのではないかと思ってしまった。


今まで自分のどこに「運命」やら「奇跡」とやらを信じる心があったのかと疑いたくなるくらいに、俺の胸中には生まれてこのかた当面したことのない不思議かつ幻想的な感慨が姿を現しつつあった。


ピッ。


そうしてバスの精算を終えて、いざ転校初日の日を迎え、来たるべき月草学園の敷地を目にする。


しかしいかんせん、その緊張の一端はここにきて初登校という事象に対して向けられることはなく、ふと香る、彼女の麗しくかぐわしい銀色の絹髪から想起するものであった。


ただ、歩いているだけ。ただ、バスから降りているだけ。ただ、俺の前を横切っただけ。


スローモーションにも感じるたったそれだけのことなのに、なぜ俺の心はばくばくと高鳴りを続け、どうして俺の瞳は彼女から視線を外すことができなくなってしまっているのだろう。


「君、降りないの?」


バスの運転手に促され、はっとした俺はそそくさと降車する。


「あっ、すいません」


彼女は人に幻覚を視せる能力者なのだろうか。日差しを受けた黄金色に輝く銀髪から光の粒子が舞い、あたかも車内から歩道に降り立った何気ないその仕草一つが、俺の目には月光に照らされた湖面に足先を付ける女神降臨の儀式にも見えてしまっていたのだ。


そうして、はらり、とその髪が揺れ、彼女の身体そのものがバスを降りた俺の胸にちょうど倒れ込んできた時には、もうどうしようもないほどの好意を――まさしく純然たる好意を――彼女に覚えるまでになっていた。


「大丈夫ですか?」


やはり体調が優れなかったのだろう。かすかに開くその目が俺の顔を捉えたかと思うと、彼女はそのまま気を失ってしまった。


ちゃんと息をして大きな胸が上下していることから大事には至っていないことがわかるが、このまま歩道の真ん中で彼女を抱き締めているわけにもいかないだろう。


「本当にきれいだ……」


やわらかそうな唇は薄紅色の桜を重ねたかのようなほのかさで、長い睫毛は白く健康的な肌の上で微風に揺れている。


鼻とあごは神様が創造したことを直感させる小ささで、俺は美少女というものがいみじくも「運命」や「奇跡」によって誕生するのだということを知覚しなければならなかった。


月草学園の校舎へ入り、その保健室を目指す。同じブレザーを着た生徒たちの視線を真っ向から受けながら、学校見学に来た時の記憶を辿り、目的地へ。


「すいません、彼女がいきなり倒れてしまって……」


保健室の扉を開けると、すぐに担当の先生が飛んで来てくれた。


「あら大丈夫!? じゃあそこのベッドに寝かせてくれる?」


俺は女の先生に言われたとおりに名前も知らない彼女をベッドの上に載せ、ひとまず自分の役目を終えた。


「通学中のバスを降りたところでふらっと倒れたんです。彼女、大丈夫でしょうか?」


心配しつつ彼女の容態を問うと、呼吸や心拍、顔色から診察した先生が穏やかに言う。


「ただの貧血みたいね。または寝不足かしら? どちらにしても安静にしていなきゃ駄目だけど、病院に連れて行くほどでもなさそうね。安心しなさい、少ししたら目を覚ますはずよ」


俺は保険医のその言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろすと、朝のホームルーム前に済ませなければならない用事を思い出した。


「すいません。じゃあ俺、職員室に行かなくちゃいけないので失礼します」


すると美人なおねえさんが俺の目を見て問うてくる。


「あなた名前は?」


「フレディ・ロックハートです。この月草学園に転校してきて、今日が初登校の日になります」


「ふふっ、じゃあその名前、憶えておかなくちゃね」


「どうしてですか?」


俺の質問に、彼女はおどけたように笑って、


「だって目覚めた彼女にその名を告げれば、あなたはたちまち彼女にとってのヒーローよ? だって自分を助けてくれた人ですもの」


そうした冗談にも聞こえる先生の台詞に、俺はなるだけ丁寧に言葉を返す。


「たしかにそうですね。でも、わざわざ教える必要はないですよ。だって誰が助けたかなんてどうだって良いことでしょう? 彼女が無事だったんだから、それで良いじゃないですか」


先生はその発言を受けてもう一度笑って見せると、


「本当に良いの? こんなに可愛い女の子のヒーローになれるのよ?」


と念を押してきた。そしてもう一度、言う。


「俺は俺のやるべきことをやっただけです。それでも先生がどうしても話したいと仰るのなら、他の誰でもない、名も無い普通で平凡な高校生が一人いたとだけお伝えください。それでは」


俺は入って来た保健室のドアを開け、今一度先生へと会釈した。


「さようなら。普通で平凡な高校生クン」


「さようなら、先生」


保健室を後にした俺は、今度は職員室を目指した。


今日早く家を出て助かった。俺は一階の廊下から過ぎゆく教室の時計を見遣って、初日から遅刻せずに済みそうなことを確かめた。


「失礼します」


それから担任の先生とあいさつを交わし、各教科の教科書を貰う。


「ごめーんロックハート君、国語の教科書だけ隣の人に見せてもらってくれない?」


俺の担任の先生は女性であった。彼女が言うには国語の教科書だけ在庫が切れてしまっていたらしく、取り寄せるまで時間が掛かるとのことだ。


事前に支払ったその分の料金は返してもらえるそうなので、俺は今日の放課後、足りない教科書を専門の文房具店まで買いに行くことになった。


「わかりました。ありがとうございます。それじゃあ今日の国語の授業は隣の人に見せてもらおうと思います」


「ごめんねー!」


手を合わせて謝る女教師に恐縮し、俺は彼女と共に自分の教室へと向かう。


朝のホームルームが始まる合図となるチャイムが廊下に鳴り響くのに合わせて、あちらのほうより女の子の人影が見えた。


――先程の彼女だ。


そうすると、俺が職員室にて教科書や学生手帳などを貰っている間に目覚め、体調が良くなったということだろうか。


俺は正面に見据えた女の子と目を合わせることなく、急いで教室の中へ入って行く彼女の姿を認めて、またしても鼓動が速まるのを感じていた。


この感情は、いったい何だろう?


生まれた疑問に対して明確な答えを得ることができないまま、俺は転校生として最初の役目を果たすことにした。


「それじゃあ私が先に中へ入るから、ロックハート君は名前を呼ばれたら来るのよ?」


「はい」


……緊張してきた。俺はこれから、この学校でうまくやっていけるだろうか。クラスメイトと仲良くできるだろうか。


一人の少女との邂逅から忘れていた不安と心配が今さらのように心を覆い尽くし、俺は滴る汗を制服の袖で拭っては、廊下の窓から青空を眺めて気分を落ち着かせた。


そして先生が教室の中から転校生を招いてきたのに合わせて、俺は二年A組へと足を踏み入れていく。


「転校生の、フレディ・ロックハート君です!」


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