・恋愛警報発令
・恋愛警報発令
俺は何をしているんだあああああああああああああああああああああああああああッ!
祝井さんのお誘いを受け彼女のお屋敷にやってきたは良いものの、俺はこのとき、激しく後悔していた。
彼女の執事である藤井さんが映画館、それも俺たちの居た劇場内まで迎えに来てくれたことによって、死ぬほどの罪悪感に心を押し潰されそうになっていた俺は実のところかなり救われていた。
なぜなら俺の所為であられもない姿になってしまった彼女をできるだけ人目につかないよう導いてくれたのはひとえに藤井さんのおかげだし、持ち運び可能な着替え用テントとたくさんの服が入れられた衣装ケースを携えてやって来た有能執事には感心するとともに、もはやどれだけ頭を下げても足りないくらい感謝しているのであった。
そうしてさっき、彼が運転する車に乗って祝井さんのお屋敷にやって来るや否や仰天、すごいもすごい、まずメイドさんたちのお出迎えがあった。
総勢五十人を超える使用人、彼女たちが作る一本の道の真ん中を車が通り抜け、動物園から水族館、植物園などもあるという敷地を紹介された。
自分が今まで過ごしてきた日常風景との相違にまず驚かされ、そしてまた異次元の金銭力に頭がくらくらとふらついた。
まるで日本の姫路城やドイツのノイシュヴァンシュタイン城みたいな純白のお屋敷の中へと招かれ、映画館の劇場内にてすでに着替えを済ませていた祝井さんとは異なり自分の吐瀉物が飛び散った服を脱ぐと、俺は広大な浴室に入っていた。
「どうしてこうなったんだ……」
広さにして街の銭湯よりも大きな家庭用バスルームを見回して、俺はその中で一人ぽつんとシャワーを浴びていた。
自分で原因を作ってしまったとはいえ女の子の家で服を脱ぎ、シャワーを浴びている自分。
俺は今この状況に頭が付いていっておらず、その後シャワーを浴び終えこれまた何十人入れるのか気になってしまうほど広大な脱衣所に戻って来ては、そこに用意された男子用の部屋着に今日何度目になるのかわからない畏れ多さを覚えた。
「至れり尽くせりだな……」
普段自分のことは自分でやるよう徹底してきて、家族のぶんの家事まで進んでおこなってきた自分だが、こうして何から何までお世話になっている現状を鑑みて、どうしても申し訳なさを感じてしまう。
俺は用意された部屋着を着用し、あらかじめ言われていた彼女の部屋を目指した。
とはいえ、脱衣所を出て数分すると俺は、あっという間に迷子になってしまうのであった。
俺は初めてやって来たお屋敷のあまりのスケールに困惑しっ放しで、とうとう涙目で助けを呼んだ。
「藤井さーん!」
すると「待ってました」とばかりに初老の男性執事がどこからともなく颯爽と登場し、俺の助けを聞き入れるため、言を発った。
「お呼びですかな? ロックハート殿」
藤井さんはまるで自分の主人の凄さを自慢したいかのように白いあご髭に手を当て、「むっほっほ!」と目を細めて笑うのだった。
「いきなりお呼びして悪いんですが、俺を彼女の元に連れて行ってはくれませんか?」
俺は出会って間もないというのに、この藤井さんに絶大な信頼を置いていた。
彼が客人である俺のことをどう思っているかは知らないが、ともかく俺の人生最大級のピンチを救ってくれた彼には、感謝してもし切れない。
「お客様がそう仰るのでしたら、私が直々にお連れいたしましょう。私の背中にお乗りください」
「はいぃ!?」
いったいこの屋敷に来てから何回驚かなければならないのだろう。
俺は「徒歩で向かうよりも断然こちらのほうが早いですから」と然も当たり前のように言ってくる執事の肩に畏るおそる手を掛け、彼の言うとおりにした。
「では、行きますぞ」
この屋敷に至って、執事の彼こそが移動用の乗り物だった。
縦と横と上と下と奥と手前、どこまでも広い屋敷の廊下を走り抜け、執事におんぶされる格好となった俺はまるで迷路のようにも感じる場所をどこまでも突き進んで行ったのであった。
「では、ごゆっくり」
「は、はあ……。……ありがとうございます」
俺が藤井さんの背から降り、そう言うと、彼はまたどこへともなく消えて行った。
その素早さを目で追おうとしても不可能で、またその運動能力の高さは不可解の一言に尽きる。
そうして映画館で大失態を犯してしまってから色々とあり、俺はいま祝井さんのお屋敷、彼女の部屋の前に立っているのだった。
祝井さんはつい一時間ほど前、俺に対して自分の屋敷に来ないかと言ってくれた。
正直なところ俺は彼女の純白の服を汚してしまった瞬間、「終わった」と思った。
始まったその日に自分の新しい高校生活が絶望の色に染まってしまったと思ったし、事実青春が崩れ落ちる音を聞いた。
それでも――それでも祝井さんは――
「お待ちしておりましたわ。ご気分は良くなりましたか?」
――それでも祝井さんは、俺に向けて笑顔を見せてくれるのだ。
「わたくしロックハートくんの気分が良くなるようにと思って、ハーブティーを用意しましたの。ぜひこちらに来てお座りになってくださいまし」
ゲロをぶちまけ、それでも笑って許してくれる女の子が、そこにいた。
「ロックハートくん、どうしたんですの? 早くこちらにいらっしゃいな」
俺はなんなんだ。祝井さんという美少女と映画を観られることが嬉しくて、ついポップコーンを買い過ぎ、そして食べ過ぎ、はしゃぎ過ぎ……。
自分らしくない態度を取ってしまうのは、いったいどうしてなのか。やっぱり彼女は人の心をあやつる能力者なのではないかと思ってしまう。
俺は彼女が座るカーペットの前、ローテーブルを挟んで正面に位置するその場所まで行って、思いっきり土下座をした。
「申し訳ありませんでした!」
「ええッ!?」
祝井さんは俺がゲロを吐き掛けたそのときと同じように驚愕そのものといった声を上げ、今度は吐瀉物ではなく俺の土下座に目を丸くしていた。
「俺のせいで祝井さんのお洋服を汚してしまい、誠に申し訳ございません!」
生まれてこのかた土下座をするという経験は初めてのことだったが、妙にすっきりとした感慨が俺の心を満たした。
……きっと嫌われているのだろう。
俺はつい先刻起こしてしまった不祥事をいま一度思い返すと、女の子――それも才色兼備で文武両道、誰からも慕われる人望に厚い完璧美少女――に嫌われてしまったことに、心がきゅうと苦しくなっていくのを実感していた。
「本当にごめんなさい、祝井さん!」
そして最後にもう一度謝罪の言葉を告げた瞬間、下げていた俺の肩に、確かにあたたかなぬくもりが触れたのがわかった。
「頭を上げてください。ロックハートくん、そんなに謝られるとわたくし、困ってしまいますわ」
彼女をいっときでも困らせてはいけない。俺はそう言われると、ゆっくりと頭を上げた。
するとどうだろう。すっかり嫌われてしまったと思い込んでいたのに、彼女から突然熱い抱擁を受けたのだ。
「は? へ? あっ……」
またの名をハグ。ぎゅーと抱き締められてもなお、俺は自分がどうして彼女にハグされているのかがまるでわからなかった。
思考停止。
そうまるでその抱擁は、俺が嫌われることを彼女自身が未然に防いでいるかのような、そんなあたたかみ。
「もう良いのですわ。あなたが罪悪感を覚える必要はまるでない。誰もあなたを否定したりはしませんから」
え。あ。う。……ごめん、よくわからない。
俺はビンタされるでも、罵詈雑言を言われるのでも、はたまたこれから一生口を利いてもらえなくなるのでもなくハグされてしまったということに、どうしても理解が追い付いていかないのであった。
「お、俺は……」
そう、嫌われるべきなのだ。
彼女に対してそれだけのことをしてしまったし、そうされなければ説明がつかない。
さあ俺のことを罵ってくれ。否定してくれ。自分が駄目な奴であることを再認識させてくれ。
けれど彼女は違った。
俺はどうしてか溢れてくる涙を、止めることができなかった。
「わたくしはこんなことであなたのことを嫌いになったりはしませんわ。だってわたくしはあなたと同じ。ね? そうでしょう?」
祝井さんは抱きかかえた俺の肩にそっと手を添えると、俺の目を見て、はっきりと告げるのだった。
「だってもう、わたくしたちはお友達じゃないですか」
俺はそのとき、自分の中の何かが「かちりッ」と音を立てて嵌まっていくのを感じていた。
まだその心の在り方がわからない。鍵が解き放たれ、果たしてその中から何が飛び出してくるのかはわからない。俺は、自分がわからない。そして彼女のことも、わからない。
「ありがとう。祝井さんは、優しいな」
彼女のその優しさが、どこからくる感情なのかはわからない。今まで何を感じて生きてくれば、ここまで人に優しくなれるのかはわからない。……わからないことだらけだ。
だから俺は、もっと彼女のことが知りたくなった。
「さあ、ハーブティーを飲んで落ち着きましょう?」
俺は、涙を拭った。




