第56話『抱擁連鎖』
泣くのはせいぜい10分くらいかと思いきや、常盤さんが泣き始めてからもう既に30分くらい経っている。それだけ、昨日の夜のことがショックだったのだろう。
「ねえ、蓮見君。やっぱり、これで明日香と絶交ってことはないよね?」
「ないと思うよ。明日香だって昨日のことで謝りたいって言っているくらいなんだから」
「でも、昨日のことは謝るけど、絶交ってパターンは……」
「大丈夫だって。万が一そうなりそうだったら、常盤さんと友人として付き合ってほしいって僕もちゃんと説得するから」
「……うん」
このやりとり、もう何回目だろう。どうやら、明日香と喧嘩したことで精神的にかなりダメージを受けているようだ。昨晩、もし同じように凛さんへ同じような感じで話していたら、御両親に許可を取ってすぐさまにこの別荘へ来ると思う。
それにしても、これまで常盤さんって余裕のある落ち着きがあってクールな雰囲気があったけど、こんなにも感情的な一面があるなんて。正直、意外だなと思った。理由はアレとして、親友の明日香だからこそ引き出せたのかもしれない。
「ちゃんと謝れば、きっと明日香と仲直りできるから」
「……できるかな」
「うん、できるよ。だって、最低だって言った僕にちゃんと謝れたんだから。きっと大丈夫だよ」
こういう風に慰めていると、小学生の頃、芽依が学校で友達の子と喧嘩したときのことを思い出す。あのときも今の常盤さんみたいに、僕のことを抱きしめて号泣していた。その翌日には芽依は謝って友達と仲直りしていたけど。
常盤さんはようやく僕の胸から顔を離した。彼女の目元は真っ赤だ。
「……ごめんなさい。ずっと抱きしめたまま泣き続けちゃって」
「ううん、気にしないで。少しは気持ちが軽くなった?」
「うん。明日香の気持ちがちょっと分かった気がする。蓮見君の温もりや匂いって落ち着く。もちろん、1番好きなのは明日香で、2番目はお母さん、3番目はお姉ちゃん、4番目は凛さんだから……蓮見君は5番目かな? でも、男の人の中では1番いいかも」
「それは……光栄なことです」
それを、常盤さんのお父さんや月影さんが聞いたらどう思うだろうか。というか、今の言い方だと何人もの男性の温もりや匂いを体験してきているように聞こえる。
「ありがとう、蓮見君。気持ちもだいぶ落ち着いたよ。あと、昨日のことは本当にごめんなさい」
「常盤さんの気持ちを知ることができたし、もう気にしていないよ。今みたいに明日香にも謝ることができるといいね」
「で、できるかな。蓮見君だからすんなりと色々と話せたけど、明日香のことを考えると急に緊張してきた。明日香と顔を合わせたら、緊張しすぎて腰が抜けそうなんだけどどうしよう……」
明日香のことにだけかもしれないけど、常盤さんって意外と緊張しやすいんだ。
「そのときは……僕や月影さんで体を支えるよ。あと、今すぐじゃなくていいんだよ。よし、今なら明日香と話せそうだと思ったときでいいんだから」
「……うん。あと、蓮見君。明日香や咲希のためにも……必ず決断して、告白の返事をしてあげてね」
「うん」
明日香や咲希も、僕がなかなか返事をしないことにはヤキモキしているところがあるようだし。できるだけ早く伝えられるようにしたい。
そんなことを考えていると、気付いたときには常盤さんが再び僕のことをぎゅっと抱きしめ、胸に顔を埋めてきた。
「あぁ、落ち着く……」
僕で緊張を無くすことに役立っているのは嬉しいけど、こうしているとまるで常盤さんのペットになったような気分だ。そう思うと、彼女に抱きしめられることに緊張や興奮がほとんどなくなった。
その後、ちょっとの間、常盤さんに抱きしめられ続け、僕はようやく彼女の部屋を後にした。スマホで時刻を確認すると午前11時過ぎか。連絡を受けたのは10時過ぎだったから、1時間弱いたことになるのか。
「常盤さんもかなり可愛げのある女の子だったな」
今まではクールビューティーというイメージだったけど、少なくとも明日香に関わることについてはそのイメージが崩れ去った。
ただ、常盤さんと話したり、抱きしめられたりしたおかげで気持ちが落ち着いた。
そのことで明日香や咲希のことについても、どう考えていけばいいのか少しずつ分かってきたような気がして。何かあったときは、2人のことをすぐに抱きしめたい。じゃあ、何もなくても抱きしめたいとより強く想えるのはどっちなのだろう。
「……うん? 何か、甘い匂いがするな」
焼き菓子のような甘い匂いだ。2階に降りるとその匂いはより強く感じられる。月影さんがキッチンでお菓子を作っているのかな。
1階に降りてみると、予想通り……キッチンに月影さんがいた。
「あら、蓮見様」
「部屋を出たら甘い匂いがしたので気になって」
「ふふっ、そうですか。美波お嬢様や明日香様が元気になればと思いまして、クッキーを焼いておりました。プレーンのクッキーとチョコレート味のクッキー、そして夏山町に来ているのですから、抹茶のクッキーを作ってみました。お嬢様がご幼少の頃にここへ来たときは必ず作っていたんですよ」
「そうなんですか。思い出のお菓子なんですね。あと、明日香もクッキーは大好きですよ」
やっぱり、焼き菓子の匂いだったのか。テーブルを見てみると、3つの大皿にそれぞれプレーン、チョコレート、抹茶のクッキーが盛られていた。シンプルに丸いのがまたいい。
「美味しそうですね」
「ふふっ、ありがとうございます。まだ11時過ぎですから、クッキーをいただきますか? 紅茶やコーヒーは私が淹れますので」
「そうですね。じゃあ、温かい紅茶をお願いしてもいいですか?」
朝寝もしたし、常盤さんと話したり、慰めたりしたのでゆっくりしたいとは思っていた。朝ご飯もそこまで食べていないのでお腹も空いているし。
「かしこまりました。ただ、その前に一つ……蓮見様にわがままを聞いてもらってもいいですか?」
「ええ、いいですけど。どんなことですか?」
「……ふふっ」
すると、月影さんは笑顔のまま僕のことをぎゅっと抱きしめて、僕の胸に頭をすりすりしてきたのだ。
「つ、月影さん?」
「……あぁ、美波お嬢様の残り香がたっぷりと感じられます。蓮見様の匂いもあって。もし、お二人の間にお子様が生まれたら、こういう匂いがするのでしょうか……」
「……月影さん。訊きたいことがあるのですが」
月影凛さんという女性がどんな人なのかを知っているので、どうしてこんなことをするのかはだいたいの想像は付くけど。
「どうして、僕を抱きしめて胸に顔をすりすりとすれば、常盤さんの匂いを感じられると思ったのでしょうか」
「長年勤めているメイドとしての勘ですね。それに、蓮見様の胸元から美波お嬢様の匂いがしましたから」
「本当にそれだけですか? 知っていたんじゃないですか? 何らかの方法で常盤さんが僕のことを抱きしめていたことを」
僕がそう言うと、月影さんは落ち着いた笑みを見せる。
「さすがは蓮見様です。実は、夜中にお嬢様のお部屋に入ったとき、盗聴器を設置いたしました。なので、つい先ほどまで小一時間、お嬢様とお話をされていたことを知っていたのです。安心してください、他のお部屋には仕掛けておりませんから」
「そ、そうなんですね」
犯罪とも言えるような行為をさらりと言われると、怒る気分に全くなれないな。盗聴器を設置した理由は、明日香と喧嘩した常盤さんのことが心配だったからだろう。そう思うことにしてこれ以上は訊かないでおこう。
「しかし、お嬢様にとって好きな匂いのランキングは私が4位ですか。表彰台まであと一歩だったのに。ただ、蓮見様よりは上でしたので嬉しいですけど」
月影さんは僕の胸の中に頭を埋めてくる。もし、順位が逆だったら、今ごろ僕はどうなっていたんだろうな。
「つーちゃん。月影さんと……何やってるの?」
気付けば、階段の近くに私服姿の明日香が立っていた。明日香は戸惑った様子で僕らのことを見ている。
「えっと、これは……」
「あら、明日香様。おはようございます。これには色々な事情がございまして、蓮見様の胸元に付いている美波お嬢様の残り香を堪能していたのです。なので、蓮見様に好意を抱いたというわけではありませんのでご安心を」
さすがに月影さんも抱擁を解く。ただ、それでも彼女は普段とさほど変わらない様子だ。
「さっきまで常盤さんと色々と話していて。それで、常盤さんが僕のことを抱きしめてしばらくの間泣いていたから。本当にそれだけだよ」
「そっか……」
すると、明日香はほっとしたのか笑みを見せるようになったけど、涙をボロボロと零し始める。
「もし、月影さんと付き合うことになったら嫌だなとか色々と考えちゃって。でも、なぜだかほっとした瞬間に涙が溢れてきちゃった。昨日の夜から色々なことがあったからかな」
おかしいなと明日香は笑いながら涙を拭うけど、それでも涙が止まらない。明日香の言うように昨日の夜にあんなことがあったから、精神的に不安定な状況が続いているんだと思う。
僕は明日香のところまで行き、彼女のことをそっと抱きしめる。
「大丈夫だよ。僕にはここにいる」
「……ほんと?」
「うん。それに……まだ、最終的な決断はできていないけど、ずっと一緒にいたいって思えるほどに好きなのは明日香と咲希しかいないってことは分かったよ。もうちょっとだけ待っていてくれるかな」
「……うん。ねえ、つーちゃん、もう一度好きって言って?」
「……僕は、明日香と咲希のことが大好きだ」
「……うん。ありがとう」
すると、さっきよりも多く涙を流してしまったけど、明日香はとても嬉しそうな笑みを浮かべて僕の胸の中に頭を埋めた。
「咲希ちゃん! 大丈夫?」
気付けば、会議室の扉が開かれており、入り口付近で咲希が仰向けに倒れていた。側には羽村と松雪先生がいる。
「とりあえず、そこのソファーに寝かせましょう」
「そうね」
松雪先生が咲希のことをお姫様抱っこのようにして抱き上げ、リビングにあるソファーに寝かせた。
「きっと、さっきの蓮見君の言葉のインパクトが凄すぎて倒れちゃったのね。それまで勉強も頑張っていたし。少し横になっていれば大丈夫だと思う」
「良かった、さっちゃん……」
咲希達にも聞かれちゃったのか。それを知ると何だか恥ずかしくなるな。
ソファーで横になっている咲希の様子を見ると、顔は真っ赤だけれどとても幸せそうな表情を浮かべている。これなら大丈夫そうだ。
「朝霧の声が聞こえて会議室の扉を開いたら、蓮見が朝霧のことを抱きしめていたからこっそりと様子を見ていたんだ」
「それで、蓮見君の告白を聞いて、咲希ちゃんが顔を真っ赤にして仰向けに倒れちゃったわけ」
「……なるほど」
倒れるほどだから相当な衝撃だったんだろう。
それにしても、みんなこっそりと話を聞くのが好きなんだな。僕がそれを言える立場ではないけれど。
「でも、今の蓮見の告白を聞いて、何歩か前進したって俺は思ったよ」
「……そうか」
「今の蓮見なら、きっといい決断を下せると強く思える」
「……ああ」
僕にとって納得できる決断を下せるようにしっかりと考えないと。
それから程なくして、咲希が意識を取り戻したので僕らは月影さんの作ったクッキーを食べることに。明日香は昨日の夜から何も食べていないので野菜スープを。
常盤さんにクッキーを持って行こうかとメッセージを送ったけど、『今は大丈夫』という返信だけ来た。しばらく経ってからまた訊くか。
さっきの告白もあってか、明日香と咲希は普段よりも顔を赤くしていた。ただ、咲希はずっとニヤニヤしっぱなし。明日香も今朝に比べると笑顔を見せるときが多くなってきたので安心したのであった。




