第44話『哀愁未来』
明日香の作った朝食はとても美味しかった。
松雪先生もいるからか、9人で一緒に食事をすると修学旅行や臨海学校、部活や同好会の合宿のように思える。そんな中、羽村の隣で食べている三宅さんの顔を赤くしながらも幸せそうなのが印象的だった。
朝食の話題はてっきり羽村と三宅さんのことになるかと思いきや、酔っ払った先生が僕の部屋に乱入したことと、それがきっかけにリビングのソファーで寝た僕のことが中心だった。もちろん、先生が僕に甘えてきたことや、体を重ねたと勘違いしたことは言わなかった。それでも、先生は三宅さん以上に顔を赤くしていて可愛らしかった。
少し食休みをして、僕ら9人は3つのグループに分かれた。
明日香と常盤さんはコテージや浜辺に行ってスケッチをするという。今日も晴れて蒸し暑いので、熱中症にならないように注意してほしい。2人の様子を確認するのを兼ねて、スケッチがどんな感じなのか定期的に見に行こうかな。
芽依、三宅さん、鈴音さんは3人でお菓子作りをしたり、昼食や夕食を作ったりするとのこと。今日の食事はとても楽しみだな。
そして、咲希、羽村、僕は1階の会議室を使って受験勉強。基本的には自習形式で自分の持ってきた教材を使って各自勉強する。
また、松雪先生は担当教科の国語を中心に僕らをサポートしてくれる。ただ、先生は質問されない限り本や漫画を読むとのこと。先生曰く、買ったけど読めていない作品がたくさんあるらしく、何冊かはこの旅行中に読破したいそうだ。
「しっかし、この別荘に会議室もあるなんてね」
「俺達も去年初めて使ったよな。そのときは芽依ちゃんの受験勉強をサポートしたり、俺達の夏休みの課題をやったりしたよな」
「そうだったね」
「確か、常盤の話だと、何かあったときに緊急に会議を開いても大丈夫なように作った部屋らしい。あとは、重要な取引をするためにも役立つらしいぞ」
「へえ。もしかして、客先の重役をここに招待して、色々とおもてなしをして上機嫌になったところで、この会議室に呼び出して大事な取引を成立させるとか」
「ははっ、それは案外あるかもしれないな」
咲希や羽村だったらそういったやり方で上手く交渉を成立させそうだ。
「じゃあ、みんな勉強頑張ってね。私はここで本を読んでいるから、分からなくなったらいつでも訊いてきてね。国語ならもちろん教えられるし、英語と日本史なら力を貸せると思う。他の教科は……自信ないです! 特に理系は!」
松雪先生だって得意不得意があるか。前もって宣言してくれるのはこちらとしてもやりやすい。僕が分からなくなるとしたら数学だろうけど、羽村がいるので彼に訊くことにしよう。
僕らは各自のペースで勉強を始める。
他の2人はどんな科目を勉強しているのかは分からないけど、僕が今やっているのは日本史だ。日本史は得意だし好きな科目でもあるので、問題文を見ていると自然と楽しくなってくる。特に戦国時代以降の内容だと。
「ねえ、翼」
「うん? どうした?」
「数学の問題で分からないところがあるんだけど、教えてもらってもいいかな?」
「うん、いいよ。どこが分からない?」
「この証明問題なの」
「……ああ、そういう内容か。せっかくホワイトボードもあるから、それを使ってやってみようか」
「数学だったら私の出る場面はなさそうかな。でも、面白そうだから見ようっと」
先生に見られると思うと急に緊張してくるな。まあ、先生は見ているだけらしいのであまり気にしないようにしよう。
僕はホワイトボードを使って咲希が分からないという数学の証明問題を解説していく。今日は時間がたっぷりとあるので時々、咲希に質問しながら進める形に。
「それで、問の文章が正しいと証明できるんだ」
「ああ、そういうことだったんだね!」
「解答集に書いてあるのと内容は同じかな」
「うん、同じだよ。解答を読んでも分からないから翼に訊いたんだけど、これでスッキリしたよ! ありがとう!」
「それは良かった」
「時間はたっぷりと使ったけど教え方は上手だよ、蓮見君。さすがは成績が1年からずっと2位をキープしているだけのことはある。……あと、私も高校生のときにこういう証明問題で物凄く悩まされたことを思い出した」
「そ、そうですか。数学はあまり得意な方ではなかったと」
「そうだね。数学の得意な友達に分からないところを訊きまくって、毎回の定期試験は赤点を免れたって感じだった。平均点を超えたことが一度だけあったんだけど、そのときは奇跡だと思ったほどだよ」
「里奈先生の気持ち分かります。あたしも前の学校にいたときは、頭のいい子に数学を教えてもらってテストを乗り越えましたもん」
「……さすがは将来、大学の後輩になるかもしれないだけのことはあるね」
咲希は松雪先生と固い握手を交わす。何だか色々な意味でツッコミを入れたくなったけれど、同じような経験をしていると握手の一つもしたくなるのかもしれない。2人とも熱い眼差しで見つめ合っているし。
「有村や先生が言うように、数学って分からなくなると凄く悩まされるよな。俺も中学のときにそういう経験は何度もしたことあるからその気持ちは分かるなぁ。苦手意識もあったくらいだ」
「えっ、羽村君でもそんな時代があったの? うちのクラスは数学ないけれど、勝手に得意なイメージを持っていたよ」
僕も同じことを思った。1年生から数学は100点が普通で、どんなに低くても90点以上は取っていた男だから。
「ああ。でも、学校や予備校の先生、数学が得意な友達に教えてもらって、色々な考え方や解き方を身につけたんだ。そのときから、数学や理系科目は多くの問題を解いて、考え方や解き方という武器をしっかりと理解しておくのが鍵じゃないかって俺は思ってる。もちろん、蓮見のように他の人に教えられればよりいいと思うぞ」
「芽依が算数や数学があまり得意な方じゃないから、何年も前から教えているよ。ここ最近は頻度が減ってきているけれど。明日香に教えたことも何度もあるかな」
「そういえば、期末試験の前に勉強会をしたときは2人にも教えていたよね。翼、教え方も上手だし、学校の先生になってもいいんじゃない?」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、大変そうだからね。担任の前で言うのはアレだけどさ」
大学生の間にも、教職課程を履修して教育実習があったりして大変そうだし。教師になっても勉強を教えるだけならまだしも、部活動、生活指導、進路指導などやらなければいけないことがたくさんあるからなぁ。
「まあ、大変な年度もあるかなぁ。3年生の担任になったら進路について面倒見ないといけないしね。部活動は私の場合は茶道部だからまだしも、運動部や吹奏楽部の顧問になると、今の時期は大会も多いから遠征しないといけない場合があるからね。最近、部活についてはその道のプロにお願いした方がいいんじゃないかっていう話も出てきているけど」
「そうなんですか。たまにネットの呟きとかで見ますよ。残業時間とか、残業代とか、部活のこと、PTAとか。あとは、今年の夏は記録的な猛暑ですからエアコンや夏の部活動についてとか」
「あるある。この猛暑で文字通り、問題があぶり出されたというか。今の時代の学校環境をろくに知ろうとせず、幼少時代の価値観を判断基準にして、それがあたかも正しいように物を言う大人が意外といるからね」
はあっ、と松雪先生はため息をついている。この様子だと、先生も過去にそんなことを言われた経験がありそうだな。
「ぶっちゃけ、昔はできたからそういうことをしたらダメとかっていう腐った根性論は不要な考え方だと先生は思うよ。生徒としては快適に勉強や部活ができる環境。教職員としては快適な労働環境、十分な給料とかが必要なんだと思う。平成のうちには変わらないだろうから、来年にはやってくる新しい時代の間に良くなることを願うよ。……愚痴になっちゃったね、ごめん。まあ、それでも私は学校や生徒に恵まれているなって思ってる」
そう言うと、先生は笑顔になってコーヒーを一口飲んだ。先生のような人が同僚や上司にいてくれるといいけれど、教師になることはないかな。今のところは。
「勉強だけではなく、あたし達の面倒も見てくれているんですもんね。ただ、翼は女子校の教師とか合いそうだなと思って。前に通っていた天羽女子にも男の先生はいて、翼のような雰囲気の先生が多かったから」
「蓮見君は女の子にも普通に話しているもんね。爽やかで物腰も柔らかいし。そういう意味では女子校の教師は向いているかも」
「……それは褒め言葉として受け取っておきますね」
いつの間にか受験勉強から将来のことを話す場になってしまった。まあ、そういうのもたまにはいいと思うけど。
「将来の仕事を考えることもいいけど、まずは高校を卒業した後のことを考えよう。羽村君は東京の大学の法学部、咲希ちゃんは桜海大学の文学部ってはっきりと決まっているね。蓮見君は……どう? はっきり決まっていることに越したことはないけれど」
「そう……ですね。今のところは桜海大学の国文学科か歴史学科にしようかなって考えているんですけど。まだ決め切れていないというか」
「今のところ、進路調査票通りってことね。分かった。夏休みだし、今は受験勉強をしながら、進路について考えが固まってくるといいね」
「ええ」
一瞬、明日香や咲希の顔が浮かんだ。まさか、2人のことで決断できていないことが、進路までに影響が出ているというのか。何もかも決めることができていないんだな、僕は。
「勉強を始めてからある程度時間は経ったし、ちょっと休憩でもしよっか」
「そうですね」
時計を見たら10時半過ぎか。意外と時間が経っていたな。
そうだ、明日香や常盤さんのところに行ってどんなスケッチなのか見てみようかな。




