第30話『Sakuya-前編-』
桜海の街に戻ってきてもまだ午後3時くらいだったので、今日は咲希の家で受験勉強をすることに決めた。
咲希の家に行って彼女と一緒に英語の勉強をしていると、羽村から5人のグループトークに、
『これまで心配かけたな。蓮見と有村は既に知っているが、陽乃と恋人として付き合うことになった。体調も回復してきているので、週明けからは学校に行けると思う』
そんなメッセージと三宅さんとのツーショット写真が送られた。とても幸せそうな写真だ。本当に2人が付き合い始めたんだなと改めて実感する。
『おめでとう、羽村。あと、看病してくれる三宅さんに風邪を移さないように気を付けて』
『翼の言う通りだね。元気があってこそだと思うよ!』
恋人同士になった瞬間を見届けた咲希と僕が送ったメッセージは、主に2人の体調を気遣うものだったけど、
『おめでとう、羽村君! 最高の結果になったね! はるちゃんとお幸せに!』
『明日香とハイタッチしちゃったよ! おめでとう!』
今日も部活動に参加している明日香と常盤さんは、2人が付き合い始めた祝福のメッセージであり、その違いが個人的には面白かった。
「あっ、そういえば里奈先生にこのことを伝えた方がいいよね」
「そうだね。事情は知っているし、羽村のことを心配していたから。僕からメッセージを送っておくよ」
喜んでくれればいいけど、ヤケになってしまわないかどうか心配だ。今日は金曜日で茶道部の活動もあるし。
松雪先生に羽村と三宅さんが付き合うことになり、羽村も来週には学校に行けそうだという旨のメッセージを送る。すると、すぐにそのメッセージに『既読』と表示され、
『それはおめでたいことだね。週明けに出席できそうなのも担任として一安心。でも、そっか。そっか……』
という決して喜びだけとは思えない返信が。あまり多くを語らない文面なのが国語の教師らしい気がする。先を越されたとか、アイツ青春してるじゃねぇかとか想っているのだろうか。想っていそうだな。これ以上は考えないようにしよう。
その後、日が暮れるまでは咲希と一緒に受験勉強をし、家に帰って夕ご飯を食べた後は1人で勉強することに。
――プルルッ。
すると、明日香からメッセージが届いていた。
『今からつーちゃんのお家に泊まりに行ってもいい?』
やっぱり、お泊まり交渉のメッセージだったか。咲希が桜海に帰ってきてから、週末になると僕の家に泊まることが多くなってきたのだ。もちろん、ただ来るだけじゃなくて受験勉強もしっかりとやっている。
『もちろんいいよ。いつでもおいで』
お泊まりバッグがあるから、大抵は数分もしないうちに来る。今日もお泊まりバッグを持ってこの部屋に姿を現すだろう。
そういえば、今日も明日香は僕のベッドで一緒に眠るのかな。ワールドカップの試合を観戦したときを除くと、僕のベッドで眠ることがかなり多くなってきている。
「つーちゃん、来たよ」
予想通り、数分も経たないうちに来たよ。半袖の白いブラウス姿の明日香が部屋に入ってくる。僕と目が合うと明日香は嬉しそうに手を振る。
咲希と一緒にいるのもいいけど、明日香と一緒だと安心感があるというか。10年以上、一緒に学校生活を送ってきた幼なじみだからなのかな。
「いらっしゃい、明日香」
「お邪魔します。今日はどの科目の勉強をしていたの?」
「今日は英語を中心に勉強しているよ。授業でもらったプリントの復習とか」
「真面目にコツコツやって偉いね、つーちゃんは。つーちゃんだったらどこの大学でも合格できると思うよ」
「明日香がそう言ってくれると何だか安心するよ。明日香の方は調子どうだ? 勉強もそうだけど、部活とかも」
バイトをしていたときの僕の絵を描くかもしれないと思うと、どうしても部活の方も気になってしまうんだ。
「勉強は……美大も選択肢にあるから、文系科目や英語、数学だけじゃなくて定期的にデッサンもやってる。でも、デッサンは楽しいから気分転換にもなるんだ」
「そうなんだ」
美大だと入試科目にデッサンがあるんだ。画力を付けるためにも定期的にやらないといけないのかな。ただ、気分転換になっているのはいいことだと思う。
「部活の方は……例の風景画も完成に近いから、つーちゃんの制服姿の絵も描くと思う。まだそっちの制作は始まっていないんだけれど」
「そうなんだね。自分の絵を描かれると思うと気になっちゃって」
「へえ、気になるんだ。何か意外」
明日香はクスクスと笑っている。僕、そんなに無関心なイメージを持たれていたのかな。
「そうだ、何か冷たいものでも持ってこようか?」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。アップルティーを持ってきたから」
明日香は桃色の水筒を取り出す。テーブルの近くにある座布団に座って、持ってきたアップルティーを飲んでいる。
「あぁ、冷たくて美味しい。つーちゃんも飲んでみる?」
「うん」
すると、明日香はさっき口を付けた水筒のコップにアップルティーを注ぐ。そんな彼女のすぐ側に腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
明日香からもらったアップルティーをさっそく飲んでみる。アップルの香りがするけど、味は普通の紅茶とあまり変わりないんだな。冷たくても香りがしっかりと感じられるのは意外だった。
「美味しい」
「ふふっ、良かった。最近、こういうフルーツの香りがする紅茶にハマって。アップルの他にはレモンとか、マスカットとか、ピーチとかもあるんだよ」
「へえ……」
僕の知らないところで明日香もハマっていることがあるんだな。10年以上、ずっと近くにいるけれど、彼女について知っていることは案外少ないのかも。
「そういえば、羽村君。陽乃ちゃんと付き合うようになったんだよね」
「ああ。その瞬間からさっそく元気になってきていたよ、あいつ。メッセージにもあったように、週が明けたら学校で会えるんじゃないかな」
「そっか、それは良かった。……恋人の力って偉大だね」
「ああ。それに、羽村なら三宅さんと幸せになることと、東京の大学に進学して学生生活を謳歌することを両立できるんじゃないかな」
「羽村君なら難なくやれそうだね」
「僕も」
友人の僕も素直にそう思えてしまうから、羽村は本当に凄い人間だと思う。
「もし、恋人ができたら何か変わるのかな。例えば、ずっと幼なじみのつーちゃんが恋人になっても……」
明日香は頬を赤くしてチラチラと僕のことを見てくる。こういう明日香はあまり見たことがないから、いつも以上に可愛らしく思える。
「……どうなんだろうな。実際になってみないと分からないことってあるし」
「そ、そうだよね。それに、ずっと一緒にいたからつーちゃんが恋人になってもあまり変わらないかもしれないし。変なことを訊いちゃったね」
ごめんね、と明日香ははにかんだ。
「お兄ちゃん、お風呂空いたよ……って、明日香ちゃん来てたんだね。いらっしゃい」
「うん、こんばんは、めーちゃん」
「じゃあ、お兄ちゃんの前に明日香ちゃんかな? 2人で一緒に入っても大丈夫だからそこはご自由に」
「私1人で入るって! もう……」
引きかけた頬の赤みが復活し、明日香は不機嫌そうな表情で頬を膨らませる。ただ、そんな明日香に対して芽依は笑みを絶やさない。
「ふふっ、じゃあ、ごゆっくり」
芽依は小さく手を振ってゆっくりと扉を閉める。何を考えているんだか。
「……めーちゃんが入ったから、今日は私1人で入るね」
「分かった」
「じゃあ、さっそく入ろうかな」
明日香が立ち上がって一歩を踏み出したときだった。
「きゃあっ!」
柔らかい座布団に足を取られたのか、明日香は僕の方に倒れてくる。
「明日香!」
とっさに明日香を受け止めようとするけど、倒れてきた衝撃で鈍い音と共に痛みが走る。全身で彼女の温もりを感じるので、何とか彼女が床に倒れずに済んだか。
ゆっくりと目を開けると、視界は明日香の顔だけになっていた。明日香は気を失っているのか目を瞑っている。
そういえば、唇に何か柔らかくて温かいものが当たっているけど……ま、まさか。
「きゃあっ!」
目を開けた明日香はすぐに僕から顔を離した。顔を真っ赤にしながら驚いた様子で僕のことを見つめてくる。
「私、初めてのキスをつーちゃんとしちゃった……」
そう呟くと、明日香は右手で唇を触る。
「ご、ごめん、明日香」
「き、気にしないで! これは不可抗力なんだし! 私が足を取られてつーちゃんの方に倒れちゃったことが原因なんだし! それに、この感覚をあのときに知ったさっちゃんが羨ましい……って、私、何言っているんだろう。わ、私……お風呂に入ってくるね!」
明日香は慌てていたのか、お泊まりバッグを持って僕の部屋から飛び出してしまった。
「はあっ……」
何だか、嵐が過ぎ去った後のような感覚だ。足を滑らせた明日香が倒れてきて、その弾みでキスしてしまって。そのことに明日香が慌てて部屋を出て。
ただ、そのことで明日香のことを……これからは、幼なじみから1人の女性にしか見えなくなりそうだ。もちろん、これまでも徐々に意識はしていたけれど、さっきのキスが決定打だった。
あれから10年以上の時を経て、女性になったのは咲希だけじゃなかった。当たり前のことを僕はしみじみと思うのであった。




