華嫁降誕 群馬黙示録 代行者
三日目 朝
前橋(水没) 大手町(水没)
群馬ロイヤルストレートホテル付近
群馬セントラル病院から北西三百十五メートル、利根川の上を十兵衛たちのゴムボートは進んでいた。ゴムボートの北東には群馬県庁と、その後ろにそびえ立つバベルの塔が見える。
バベルの塔は薄いピンク色の光の壁で囲まれており、それが塔を守る結界であることは一目瞭然であった。
「バベルの塔……。遠くからでも大きかったけど、近くで見ると凄く大きいですね」
「あれのてっぺんに神が居るらしいけど、一体どんな奴なのかしら?」
「どんな見た目かは会ってのお楽しみだけど、一つはっきりしてるのは、ろくな奴じゃないってことだ」
「うむ。罪無き命を奪うことを救いと騙る奴だ。絶対に倒さねばならん」
そんなやり取りをしているうちにゴムボートは霧の中を抜け、目的地である群馬セントラル病院が姿を現した。
「そのためにも、さっさと神の使いを全員やっつける……!」
群馬セントラル病院は九階建ての建物で、四階まで水没していたが、五階から上は無事だった。
ゴムボートを五階に接岸し、ペンタゴンが窓ガラスを拳で叩き壊すと、割れた窓ガラスの向こうから甘ったるい匂いが流れてきた。
「うっ! す、凄い臭い……!」
様々なケーキやお菓子の匂いが大量に混ざった強烈な臭いを前に、十兵衛たちは思わず手で鼻を塞ぐ。
「最早、悪臭と言う他ないな」
徳永が苦い顔をしながら呟く。
「でも、行くしかないわ。そのために来たんだから」
ペンタゴンが窓ガラスに開けた穴を潜り抜ける。
「俺たちも入ろう」
十兵衛が進み、徳永と堕天使が続く。
こうして、一行は群馬セントラル病院へと乗り込んだ。
三日目 朝
前橋(水没) 紅雲町(水没)
群馬セントラル病院 本館 五階
小児科・新生児室病棟 廊下
「凄い……! 本当にお菓子の家だ……!」
壁、床、天井。
その全ての至るところが大量のケーキやお菓子、生クリームにまみれており、言われなければ病院であることすら分からないほどに変わり果てていた。
「乃木くん、どうするの?」
「七階へ行こう。助けるって約束したんだ。守らないと」
「そうですね。行きましょう」
「……待った!」
十兵衛たちが歩き出そうとしたその時、徳永が引き留めた。
「みんな、ワシの言うことをよく聴け。この病院にあるケーキは人間を化け物に変える代物、うっかり口にしてはならん。当然、ケーキに使われとる生クリームも駄目だ。もし、生クリームが手や顔についたとしても決して舐めてはならん。舐めたら最後、待っておるのは同士討ち、あるいは全滅のどちらか! そうなった時、君たちを手にかけたくないし、ましてやワシを手にかけさせたくもない! ……いいか! ほんのちょっとでも、ここにあるものを決して口にしてはならんぞ! よいな!」
「はい! ……っていうか、その辺に落ちてる食い物拾って食べるような行儀の悪いことなんかしませんよ」
ペンタゴンと堕天使が十兵衛の発言に頷く。
「……そうだな。そうか、君たちは行儀がよかったな。なら、心配する必要は無かったか。ふふっ……どうやら、歳をとって心配性になったらしい。引き留めて偉そうに説教してすまなかった」
「そっ、そんな! 頭を上げてください! 僕たちを心配して言ってくれたんだから、謝らないでください。むしろ、そこまで思ってくれてるなんて、凄く嬉しいです」
「堕天使くんの言う通りです。心配してくださり、ありがとうございます」
「それに、こんな状況なんだし、ちょっと心配し過ぎるくらいがいいと思いますよ。警戒するに越したことはないんですから」
「……ありがとう。では、行くとしようか」
十兵衛とペンタゴンを先頭に探索を開始し、お菓子の家と化した病棟を生クリームまみれになりながら歩く。
「セントラル病院に来るのなんて何年ぶりだったか……。久しく世話になっとらんから、どこに何があるのか全く分からん。君らよりもずっと長生きなのに何も知らなくてすまん」
「いいことじゃないですか。分かんない方が幸せです。詳しかったらヤバいですよ」
徳永のボヤキに十兵衛がツッコミを入れる。
「はは、それもそうか。……小さい病院はともかく、こういう大きいところならフロアマップがどこかにあるはず。それを見つけて階段の場所を把握すべきだな」
「そうですね。探しましょう!」
……とは言ったものの、壁も床も天井もケーキだらけでぐちゃぐちゃの中から見つけるって、かなり骨が折れそうだな。いや、絶対折れる。このぐちゃぐちゃぶりから察するに、廊下同士が交わって十字路になってるところが、ケーキで塞がって丁字路になってる場所とかありそう。いや、間違いなくある。絶対あるわ。
冷静に周囲の状況を分析すればするほど、お菓子な病院の鬼畜ぶりが明らかになっていく。
病院のフロアマップって、床に書いてあるパターン、壁に貼ってあるパターン、天井にプレートを吊るしてあるパターンの三種類な気がする。床ならケーキとか生クリームを足で退かせばいいとして、壁と天井の場合、手で直接触ってはぎ取ったりして退かさないといけない。つまり……。
十兵衛はじっと掌を見る。
今は汚れ一つ無いこの綺麗なお手々はベットベトになる! いや、お手々だけじゃない。上着の袖やズボンも汚れるから、袖で汗を拭うことも、ズボンに擦りつけて手を綺麗にすることも不可能! 生クリームや汗を拭いたくなった時、ハンカチを使わざるを得ないが、一回使ったら生クリームまみれになるから二度と使えない! つまり、手で汗を拭うしかなくなるから、顔に生クリームがつくのは必至! 仮に額の汗を拭ったとしたら、汗で溶けた生クリームが流れ落ちて口に……! やべえよやべえよ、この病院というより、ここに居る神の使いヤバいぞ。そこまで計算してケーキまみれにしているとしたら、かなり悪趣味な上に頭の切れる奴ってことになる。そんなのに正攻法で挑んでも勝ち目は無い! 何か、何かいい方法は……。
辺りを見回してヒントを探す。
待てよ。何で階段を探さなきゃいけないんだ? あのケーキ配りのオヤジが階段で七階まで行ったって話を聞いたからか? 確かに階段を上れば七階には行けるだろう。でも、それはあくまで、あのオヤジの場合ってだけで、俺たちにも当てはまるとは限らないはずだ。なんてったって、こっちには自慢の嫁が居るんだ。俺たちにしかできない攻略法があるはずだ!
何気なく天井を見上げる。
……。……そうだっ! これだっ! 思いついたっ!
「ペンタゴン! ガチムチになってくれ!」
「へっ? 何で? 敵は居ないよ?」
「違う! 七階へ行くのにお前の力が必要なんだ!」
十兵衛が天井を指差しながら言ったのを観て、ペンタゴンはニヤリと笑って戦闘形態に変身した。
「はあっ!」
ペンタゴンがメガトン級のアッパーを繰り出すと、天井に大穴が開いて六階への直通ルートができた。
「こういうことね?」
「そういうこと! さすがは俺の嫁だ!」
キャッキャウフフする夫婦を徳永と堕天使が見つめる。
「ああいうのを以心伝心って言うんでしょうね」
「うむ」
「いいなあ……。うちのお父さんとお母さんも……あんな風だったらいいのに……」
羨望と嫉妬の混ざった眼差しで呟く堕天使の頭を徳永が優しく撫でる。
「君は優しい心の持ち主だ。大丈夫。大人になった時、君なら温かい家庭を作れる」
「本当に……?」
「ワシが言うんだ。間違いない。……道中は長い。今からそんな顔をしていては、この先持たんぞ。さあ、笑顔で行こう」
「……はいっ!」
「堕天使くーん! 徳永さーん! 六階に運ぶのでこっちに来てくださーい!」
ペンタゴンに呼ばれ、二人が小走りで向かう。
こうして、一行は少々乱暴なやり方で六階へと進み、六階でも同様にして七階に到着した。
三日目 朝
前橋(水没) 紅雲町(水没)
群馬セントラル病院 本館 七階
内科・循環器内科病棟 廊下
「乃木くん。奥さんの病室の場所は覚えてる?」
「七一五号室、窓際のベッド」
「うん。合ってる」
「問題は、その七一五号室はどこにあるのか……」
「皆さん! あれを観てください!」
堕天使が廊下の壁に貼られたプレートを指差す。
←711~720
701~710→
「なるほど。右へ行けばよいのか」
「でも、周りはケーキや生クリームまみれなのに、何でこのプレートだけ汚れてないんでしょう? ひょっとして、僕たちを誘うための罠なのかな……?」
「罠などではなかろう。あのケーキ配りの主人が残した道しるべ……と言ったところか」
「道しるべ?」
「あくまでワシの勝手な想像だが……。恐らく、主人は薄々勘づいていた。言う通りにしたところで、いずれは奥さん共々化け物に始末される、と。だが、せめて奥さんだけは助けたい……。悩んだ末にケーキ配りに踏み切ったのは、自分の代わりに助けに行く者を見つけるため。そして、ワシらと出会い、託したのだろう」
徳永を先頭に病棟の廊下を歩く。
廊下の床はケーキまみれだったが、七一五号室へと続く部分だけはケーキや生クリームが退かされていた。
見える……。あのケーキ配りのオヤジが足でケーキを一所懸命に退かす姿が……。もし、俺がオヤジの立場だったら同じことをした! あの人は俺と同じ、嫁を愛する男だったんだ! ……なのに、裁いてしまったのか! 俺は……!
「十兵衛くん。気に病むことは無い。事情はどうあれ、彼がしたことは決して許されんし、彼もそれを自覚していたから裁かれることを受け入れた。君がしたことは正しいことだ。自信を持て。よいな?」
「……。はい……!」
「おっと。喋っとる間に着いたな」
病室のネームプレートを確認する。
715
・水原祥子
・
・
・
この扉の向こうに奥さんと神の使いが居るのか……。待ってろ。今、助けてやる!
十兵衛が引き戸の金属製の取っ手を掴む。
「……開けます」
こうして、聖域への扉は開かれた。




