そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,07 / Chapter 08 〉
大量の水の流入。これによって、拮抗していた戦況に変化が生じた。
ほんの一瞬勢いの削がれたヘファイストスの炎。ザラキエルがその隙を見逃すはずが無い。
薄くなった炎の壁に、容赦のない衝撃波を叩き込む。
風属性の衝撃波で炎を崩した直後に、闇属性の波動を放つ。この戦術は炎属性の神との戦闘経験から編み出された、『絶対に勝てる戦い方』である。皮肉にも、自身が剣を託した軍神アテナとアポロンが炎属性であったことがヘファイストスの敗因となった。
心臓に直撃した闇。同時に始まる『堕天』の変容。
ヘファイストスの瞳が闇の色に染まってゆく。
赤い炎は消え失せ、どす黒い闇色の炎が燃え上がる。
彼自身の心の闇を映しているのだろうか。障害を負っている両足は大きくなり、本来の姿以上にひしゃげた形に変わっていく。歩けないほど酷く変形した自分の足。それを見た瞬間、ヘファイストスは呪詛の呻きを漏らした。
絶望に打ちひしがれるヘファイストスの前に降り立ち、ザラキエルは鳥の姿から、元の生首に戻る。
「何を悲しむ、炎の神よ。貴様にはまだ腕も体もあるではないか。見ろ、私を。もはや首しか残っておらぬ。誰の所業だ? 答えよ。答えてみよ、ヘファイストス!」
桜色の髪も、ルビーレッドの瞳も、もはや禍々しさ以外のなにものも感じない。ヘファイストスは怯える小動物のように後ずさり、無事な両腕で床を這って逃げようとする。
ザラキエルは動かない。
生首は生首のまま、怒りに歪んだ表情で炎の神をねめつける。
「た、たすけ……たすけて……しにたくない……しにたくない……!」
半堕ちのコニラヤと同じだった。まるで幼児のように、プライドも羞恥心もなく泣き叫び、必死に逃げる。
そんな姿を見つめるザラキエルの瞳もまた、徐々に闇の色に染まっていった。
これは創造主に課された『役割』ではない。私怨に基づく報復であり、そこに正義は無いのだ。『堕天宣告』を請け負うザラキエルは、それを誰より理解している。
このまま堕ちて、自分はどうなるのかと考えた。
(……消滅するのかな……それとも、創り直してもらえるのかな……あの人間は、こんな姿でもまだ、私を救ってくれるのだろうか……)
ふと思い浮かべたマルコの姿に、自分でも驚愕した。
(……なぜ、あの人間のことが……?)
自分の心には、まだ『希望』が残されているらしい。
なんと浅ましいことかと自嘲した。私怨に駆られて、主から賜った力をこんなことに使っているというのに。それでもまだ、自分だけは救われたいと考えるなんて。
(……私は、本当に弱かったのだな……)
どこが最強だ。
なにが七大天使だ。
うまい負け方を知らずに、己の過ちから目を背け続けた。自分自身との戦いを避け、勝者のふりをし続けた愚かものだ。
泣き叫んで救いを求められるヘファイストスが羨ましかった。彼の姿は、彼が戦い続けた心の闇を表している。両足に障害を持って生まれながら、彼はオリンポスの神族が壊滅した今なお、こうして生き残っているのだ。あの悲鳴も、あの涙も、ひしゃげた両足も、自分自身や世界と向き合って戦い続けた、何よりの証ではないか。
戦うことをしなかった自分には、もう、涙を流す資格すら残されていない。
「……止めを刺してやるのも、優しさかもしれぬな……」
ふわりと姿を変え、桜色の小鳥が舞い上がる。
その翼を羽ばたかせ、ヘファイストスの命に終焉を告げようとした、そのとき。
「ぅおりゃあああぁぁぁーっ!」
床を這いずるヘファイストスの脇腹に、女神のスライディングキックが炸裂した。
素早く立ち上がったルキナはホームベースを踏む野球選手のように、誇らしげな表情でヘファイストスの背中に飛び乗る。
「ぐへっ!」
「反応がイマイチ!」
「ごっ! ぅぐっ! おふぁっ⁉」
何度も何度も背中の上で飛び跳ねるルキナ。後ろに続くヤム・カァシュはヘファイストスの口にトウモロコシを捻じ込み、ツクヨミは自分が履いていたアニマルスリッパで頭をバシバシ叩いている。
三柱の乱入にポカンとするザラキエルを、背後から近づいたコニラヤがそっと捕獲する。
「うわあっ⁉」
「獲れたぁっ⁉」
公園のハトを捕獲する感覚で手掴みできてしまった。獲ったほうも獲られたほうも、妙に間の抜けた悲鳴を上げた直後、互いの顔を見てフリーズしてしまう。
自分の仲間たちを殺した天使。
自分が惨殺した神々の、最後の生き残り。
その二人がいざこうして顔を合わせてみると、まず、なにから話せば良いものか。
身を強張らせてじっとしている小鳥の姿に、コニラヤは、この場の主導権は自分にあるのだと判断する。
「ええと、その……ザラキエル……僕のことを、覚えていますか?」
「……すまない。インカの神なのは分かるが、名前までは……」
「でしょうね……あのときあなたは、相手の名乗りすら聞こうとしなかったから……」
「……申し訳ない。何もかも、私が間違っていた。私は君の仲間を、この手で……」
「皆殺しにしました。私たちの信徒も、一緒に、何人も殺されました。それは事実です」
「……申し訳……ありません、でした……」
「何度謝ってもらっても、誰も帰ってきません」
「……はい……」
「だから、もういいです」
「……もういい、とは……?」
「もう、いいんです。死んだ仲間のことだけ思っていても、先には進めませんから。僕はこれから、全力で生きて、全力で幸せになります。世界中のどんなカミサマが見ても羨ましいと思うくらい、レインと一緒に、幸せになるんです。だからあなたは見ていてください。ずっと、僕とレインを見て、歯軋りするくらい羨んで、哀れに一人で生きながらえてください。それが僕の望む、『謝罪の方法』です」
「……生きなければならないか……? 私はもう、このまま消えてしまいたい……」
「許しません。僕は進化の力を持つ神です。僕は今から、あなたを『死ねない体』に作り替えようと思います。生きてください。生きて、永遠に苦しみ抜いてください」
「……同じことを言うのだな」
「え?」
「あの人間……マルコとかいう青年も、私に生きろと言った。ツクヨミと、その器もだ。私にはもう、生きる資格などないはずなのに……」
「ええ、ありませんよ。でもそれ以上に、死んで楽になる資格も無いんです。被害者遺族が望むことは、加害者が、被害者の苦痛を数万分の一でもその身で味わい、己の罪を悔い、苦しむことです。でも、その苦しみは己の所業によってもたらされたものです。一方的な暴力によって殺された被害者の苦痛に比べれば、まだまだ軽い。全然足りません。あなたは『苦しい』とも『つらい』とも言う資格を持ちません。死の瞬間まで、己の罪と向き合ってください」
「……それで私は、許されるのか?」
「それを決めるのは僕ではありません。あなたに殺された、あなたにとっては名も知らぬ神々です。そして彼らはもういません。あなたに許しの言葉が与えられる日は、もう永遠に来ないのです」
「……さっき、死ねない体にすると言ったな? あれは、どういう意味だ……?」
「そのままの意味です。あなたに不老不死の肉体を与えます。何千年か、何万年か……もしかしたら、何億年後か。創造主がいいかげんあなたを哀れに思えば、もしかしたら、もう一度天に召し上げてもらえるかもしれません」
「……わかった。それが、私にできる償いなら……」
最強の天使として味わい続けた孤独。『最強』という名の仮面が剥がれた今、その孤独すら、心を預ける静かな友ではなくなるということだ。
自分にはもう何もない。それでも生き続けることは、確かに苦痛だろう。
おそらくこの神は、自分の体を作り変える際に天使としてのすべての力を剥奪するだろう。そうなればごく普通の生き物として、日々糧を探しまわり、飢えや寒さに苦しむ暮らしが待っているに違いない。こんな小さな鳥の姿では物も持てず、飛ぶ以外のことは何もできない。くちばし一つで、いったいどうやって生きてゆけば良いのか――ザラキエルは自分の今後を思い、じっと待った。
そっと近づけられる唇から、ザラキエルのくちばしに青い蝶が受け渡される。
自分の体が作り変えられていく、未知の感触。しかしそれは、想像よりもずっと心地好いもので――。
「……? これで、終わったのか?」
姿も能力も、何も変わっていないような気がする。
いや、それどころか、戦闘によって消耗した体力が回復している気さえした。
「言ったでしょう? 死ねない体にすると。あなたはそう滅多なことでは怪我も病気もしない、丈夫な体になりました。天使ザラキエル、生きなさい。今度こそ、間違えずに」
「……はい……」
コニラヤは両手で握り締めていたザラキエルを放してやる。するとザラキエルは光に包まれ、天使の姿に戻った。生首ではない。きちんと体も手足もある。しかし、やはり翼と光の冠は戻っていなかった。
これが罪の証だと、己の姿を心に刻む。
「……ありがとう……ございます。これから、精一杯、償っていきます……」
涙を流すザラキエルの姿に、ヘファイストスをボコボコにして浄化し終えた三柱も、ホッとした顔を見せている。
だが、これで終わりではなかった。
「おのれ、貴様ら! 全員殺してくれるわっ!」
部屋の隅に落ちていた黒焦げのゴミのようなものが、突然跳び上がった。
全員すっかり忘れていた、天空神ハロエリスである。
「我は太陽と月と風の神! 貴様らのような低能な神が何人群れようと、我の力には……」
と、ハロエリスが口上を述べている途中でツクヨミが叫んだ。
「戦時特装! 天之尾羽張! 伊都之尾羽張!」
胸の紋章が光を発し、一瞬でツクヨミの装束が変化する。それとほぼ同時に、室内は目も開けていられないほどの眩しい光に包まれた。
「う……こ、この光は……まさか貴様!」
ハロエリスは直感した。
これは、自分と全く同じ属性の神であると。
光が収束した次の瞬間には、もう戦いは始まっていた。
「ハアアアァァァッ!」
「食らうかあああぁぁぁっ!」
ツクヨミの初撃は光の盾で防がれた。しかし続いて繰り出された鋭い斬撃は、とても『戦えない神』の攻撃とは思えない。速度、踏み込みの深さ、それによって生み出される一撃ごとの重量感――それらはすべて、闘神や軍神と呼ばれる神のものである。ハロエリスは必死に防壁を張るが、ツクヨミの猛攻に押され、次第に部屋の隅へと追いやられてゆく。
ツクヨミが手にしているのは二振りの光の剣である。天頂の太陽の如く燦然と輝く黄金の剣、天之尾羽張。水面の月の如く怪しく揺らめく紫紺の剣、伊都之尾羽張。大和の国では今なお神話に語り継がれる伝説の剣なのだが――。
「嘘……太陽と月の両方を司るですって? 大和の国に、そんな神が……」
「黄金の剣と、紫紺の剣って……キニチ・アハウ様の剣とそっくり同じでねえか! ツクヨミ様、あんた様は、いったい……⁉」
「そんなものが使えたなら、なぜあのとき……」
言いかけて、ザラキエルはハッとした。東京大空襲のあの夜、ザラキエルと対峙したツクヨミが戦わなかった理由。それは一つしかない。彼は燃え盛る炎の中、神社に逃げ込んだ人間たちを守るために、己の持てるすべての力で防御結界を構築していたのだ。彼はあの夜、己を犠牲にしてでも大和の民を守り抜く覚悟でザラキエルと向き合っていたのである。
(……かなわない。壊すことしかしてこなかった私には、到底……!)
あの戦争から半世紀以上。ザラキエルは今、はじめて己の『敗北』を実感していた。
(私は……私は、あの時からずっと……)
負けていたのだ。見事なまでの完敗だ。主から遣わされたものとして己の役割を果たすということが、いったいどういうことなのか。それをようやく理解できたのだが――。
(……遅すぎた……いまさら気付いても、もう、私に翼は……)
取り戻せないものの大きさを知った今、ザラキエルは何もできなくなっていた。
コニラヤはザラキエルの肉体を完全に修復してくれた。だから今の彼には攻撃能力も戻っている。ツクヨミに加勢しようと思えばできるし、この場から逃げ出そうと思えば、それも可能なのだ。
しかし、できない。
自分にとっての最適解が何か、判断の基準となる『経験』が間違いだらけだったのだ。もうザラキエルには、自分で考えたことのすべてがひどい誤答のようにしか思えない。
他の神々とともに、ただ、ツクヨミの戦いを見守る。
「おのれ……調子に乗るなよ、小僧! 《ホルズアイ》!」
「うっ⁉」
ハロエリスが反撃に出た。左目から闇、右目から光が同時に放たれる。ツクヨミはそれを交差させた二本の剣で防ぐのだが、すべては防ぎきれていない。
形勢が逆転した。
剣で作られた十字の防御壁でガードできているのは首や心臓などの急所のみ。足や肩、両腕にはレーザー光線のような攻撃が直撃している。
その様を見て、ザラキエルは確信した。
(やはりツクヨミは、剣と防壁の同時使用が出来ない……それに、この剣は……)
太陽も月も、どちらも刀身は光でできている。闇の波動を掻き消すことは得意でも、同じ光属性の攻撃を相殺するには出力が不足しているらしい。
ハロエリスの放つ光に対抗するには真逆の力、『闇属性の攻撃』が必要だった。
「ザラキエル!」
「あ……ああ! 分かっている!」
コニラヤとザラキエルがツクヨミの両側に立つ。
己の意思で進化する未完の月神、コニラヤ。
攻撃すること以外何もできない月天使、ザラキエル。
攻撃も防御も常に捨て身で行う不器用すぎる月神、ツクヨミ。
ひどく不完全で、それでいて奇妙にバランスのとれた『欠けた月』の即席チームである。三柱は申し合わせるでもなく、完璧に息の合った波状攻撃を仕掛ける。
「我が剣よ、水底の闇より湧き出でよ! 《三日月刃》!」
コニラヤの『剣』は手持ち武器ではない。三日月のように湾曲した小型のナイフが次々に出現し、水底から湧き出る気泡のように、コニラヤの周囲にゆらりと浮かぶのだ。コニラヤはそれを指先で摘まみ、踊るように軽やかに投擲する。
「汝の双眸が朝日を拝することは無い。この夜に沈め。《鋭月爪》!」
ザラキエルの両手の爪が闇色に染まり、漆黒の刃を形成する。こちらもコニラヤ同様の投擲技である。テクノダンスのように直線的で機械的な動作を繰り返すたび、闇の刃が射出される。
二柱の援護射撃により、ハロエリスの《ホルズアイ》はほぼ相殺された。
「助太刀、感謝する!」
ツクヨミはタイミングを計り、一気に攻め込む。
同属性だからこそ分かる。この技を使っている間、ハロエリスは防壁を構築することが出来ない。一旦攻撃をやめるか、攻撃の手数を増やして弾幕として使うか、いずれかを選択するしかないだろう。そしてこの神の性格からして、この状況で守りに徹するとは考えづらい。
「小僧ども! 我の力を舐めるなぁっ!」
読み通り、やはり攻撃を選択した。ツクヨミはにやりと笑い、攻撃モーションを変える。両手の剣に自身の力を注ぎ込み、バレエダンサーのように、高速ターンしながら斬撃を繰り出す。
天之尾羽張、伊都之尾羽張それぞれの特性は『超加速』と『自動追尾』である。使い手の技能以上の高速斬撃を可能とする天之尾羽張。それを伊都之尾羽張の追尾対象として認識させるとどうなるか――それがこの攻撃動作である。
「ソイヤ、ソイヤ、ソイヤ、ソイヤアアアァァァーッ!」
まるで祭り太鼓のようだった。一秒間に二発ずつ繰り出される斬撃には回転エネルギーが加わり、どんどん鋭く、重くなっていく。ほんの数秒ならば防ぎきれるだろうが、ツクヨミの攻撃は単発でも短時間型でもない。本人が《尾羽張り太鼓》と名付けたこの技の最長連続使用時間は約三十分。超加速も自動追尾も剣の能力であって、見た目ほど体力を消耗していないのだ。
ハロエリスも、彼の持てるすべての力で対抗しようとする。けれどもツクヨミにはコニラヤとザラキエルがついている。次第に競り負けていく己の様に、ハロエリスは動揺もあらわに喚き散らす。
「なぜ……なぜ我が⁉ 我は最強の神! 全ての神々の頂点に立つ天空神なるぞ! なぜ……なぜこんな……っ!」
「さあ、なぜでしょうな! 私は世界の頂点になど君臨したことがございませんので! お答えいたしかねますね!」
「き、貴様らは、敵同士なのだろう⁉ それなのに、なぜ……!」
「決まっているでしょう! 神だからです! 赦すことも受け入れることも、裁きの末に罰を与えることも、我ら神が規範を示してこそ! 私怨に駆られた貴殿の姿の、どこが神だというのです⁉」
「私怨⁉ 私怨だと⁉ 何を馬鹿な! 我は下等な神を裁き、罰を与える存在! 我の為すことはすなわち正義であり……」
「正義のための神か⁉ 神のための正義か⁉ 貴殿はその程度の違いも分からなくなってしまったのか⁉」
「神の……? 正義の……? 我は……我こそは、正義の……我が、正義の……」
ハロエリスの心の中に、何かが深く突き刺さった。
ツクヨミの剣はすべて防いでいるはずなのに、なぜだろう。胸が痛んだ。
「我は……我は、遥か高みより地平を見渡す者……地に在っては見えないものを、遍く見渡すために翼を与えられた者……我は……」
なぜ、自分はこんな地下にいるのだろう。そう思った瞬間、ハロエリスは気付いてしまった。自分がもう、何年も空を飛んでいなかったことに。
封じられたのは天空神としての力のみ。翼は取り上げられていないのに、なぜ、自分で飛ぼうとしなかったのか。創造主からの言葉を待つばかりで、自分より弱い神に命令するばかりで、なぜ、自分から世界の様子を見に行こうとしなかったのだろう。空を飛んで世界を広く見渡していれば、このツクヨミという神とも、もっと別の形で知り合うことが出来たのかもしれないのに――。
「我は……我は、間違っていたのか……?」
ハロエリスが攻撃をやめた。
ツクヨミも動きを止め、ハロエリスの喉元に剣先を突き付けたまま、優しく笑う。
「いいえ。貴殿はまだ、決定的な間違いは犯していないのでしょう。そうでなければ、創造主から『消去』を言い渡されていたはずですから」
「……けれども、正しくもなかったのだろうな。こちらの世界に送られたときに、力を封じられてしまったのだから……」
「そうでしょうね。ですからまず、歴然と判明している『良くないこと』から解消していきませんか?」
「……?」
「ザラキエルに謝罪を。貴殿はザラキエルを殺めることこそしなかったものの、生きたままその身を食らったのですから」
「……ああ、そうだな……。すまなかった、ザラキエル。我は、其方に苦痛を与えた。我は其方に、どう償えば良い?」
焼け焦げて擦り切れて、あちこちボロボロのミサゴ。しょぼんと項垂れた手負いの動物に過酷な罰を与えるような発想は、ザラキエルにはない。彼の心は良くも悪くも、従順で純粋な子供のようなものなのだ。念のためにと剣を突き付けているツクヨミと違い、彼はもう、完全に《鋭月爪》を解除している。
何の警戒もせず無防備にハロエリスに歩み寄り、傷だらけの体を抱き上げる。
「私は貴方に罰を与える資格を持たない。だって、私も貴方を攻撃したから。ごめんなさい」
少年とも少女ともつかない、柔らかく、温かい腕に抱きしめられる。そしてそっと、優しく撫でられた頭と背中の感触に、ハロエリスはどぎまぎする。こんな温もりははじめてだった。他の神の肩や頭に乗っていても、足先から伝わる体温を、こんなに素敵なものだと感じたことはなく――。
「な、何をした⁉」
「え?」
「其方は今、我に何かの術を掛けただろう⁉」
「術……?」
「とぼけても無駄だぞ! 教えろ! これは何だ⁉ なぜ、こんなに……」
羽毛に覆われたミサゴの顔色は分からない。しかし、ここにいるのは全員が神だ。相手の感情を察する能力は、人間のそれとは比較にならない。
「ザラキちゃん、ハロさまこっちにパス! 私も謝ります。ウォッカの瓶でぶん殴ってしまいましたから」
ルキナにそう言われ、ザラキエルは大人しくハロエリスを受け渡す。ルキナもザラキエルのように優しくハロエリスを抱きしめる。
「ごめんなさいね? どっちも相手を攻撃したんですから、和解のハグで終わりにしましょう?」
「あ、ああ……その……すまなかった……」
抱きしめられたミサゴか何を思っているのか、ルキナにも、他の神々にも手に取るようにわかった。
エジプト、ソマリア、エチオピア周辺の古代文明における最高位の神、天空神ハロエリス。ホルスともホルアクティとも呼ばれたこの鳥は、遥か昔から『絶対的強者』であり続けた。だから彼は知らないのだ。弱った時、傷付いた時、優しく手を差し伸べてくれる仲間の存在も、その手の温もりも。
生まれてはじめて感じる優しさと温もりに、ハロエリスはどんな顔をすればよいのか分からないらしい。ガチガチに体を強張らせるハロエリスに、ツクヨミはふわりと微笑みかける。
「ま、そのうち慣れますよ。そういうものです」
「そ、そうなのか……?」
「そうそう。もっとリラックスしていいんですよ?」
「う……うむ……?」
言われた通りにルキナの胸に顔を埋めるハロエリス。その姿に約二名、強烈な殺意を募らせる者たちがいた。
「姐さんの胸に……姐さんの胸に……っ!」
「鳥のくせに……鳥のくせに、ルキナちゃんに抱きしめられるなんて……」
それでも一応、この場の空気を読むのが神である。ハロエリスにぶつけられない怒りは、床にひっくり返っているヘファイストスを踏みつけることで解消した。
すべての問題を解決し、めでたく地上に帰還した神々を待ち受けていたのは、想定外の事態である。
「え? マルコが消えた? どうして⁉」
「チョコさんも消えとるだよ⁉」
「私の器は⁉ セレン⁉ セレン、どこだい⁉ おぉ~い!」
うろたえるザラキエル、ヤム・カァシュ、ツクヨミの三柱と、比較的冷静なコニラヤとルキナ。二柱は自分たちの依り代であるレインが目の前にいることで、何とか精神の安定を保ってはいるが――。
「こっちも、気がついたらヘファイストスとライオンがいなくなってて……確かに、一緒にいたはずなのに……」
「廊下に倒れていたはずのゴリラも、消えていましたわ……」
あり得ないものを見るような目で、何もなくなったエントランスホールを見渡す。
そう、今、ここには何もないのだ。ボスウェリアもトカゲもいない。確かにここにいたはずの神々が、忽然と消えてしまった。
「皆……いったい、どこへ……?」
ハロエリスも、何が起こったのか分からないという顔をしている。
レインは硬い表情で報告する。
「ジルチの皆さんがどこにもいません。セイジさんだけが、ご自分のお部屋でお休みでした」
「なに? 我の憑代だけ……?」
ハロエリスの反応に、これがヘファイストス側の策略でないということが窺い知れる。
「マルコたちはサラの世界にいるのでしょうが……他の神は、いつ、どうやって消えたのです?」
コニラヤの問いにはピーコックが答えた。
「水色の蝶が来たと思ったら、一瞬で消えちまったよ。ヒュッて感じで、空気に溶けるみたいに。あの蝶、結局何なんだ? コニラヤのじゃあないんだよな?」
「僕のはこれです!」
口の中からザラリと溢れ出す青い蝶。色も形も、確かに違う。違うものではあるのだが――。
「……似てるな……」
ピーコックはコニラヤの蝶をつまみ上げ、顔に近付けてよく観察する。
「サマエルちゃん、これ、さっきのとものすごく似てるよね?」
「ああ……ほぼ同じ能力のものとみて間違いない」
「同じ能力って……まさか……」
「おい、玄武! 起きろ! 貴様の兄は、正確には何の能力を持つ神々だ⁉」
レインの足元にいた玄武は、マルコと離れているせいでひどく体力を消耗しているらしい。甲羅の中に手足を引っ込めたまま、眠そうな声でボソボソと答える。
「……青龍は、生命の海。命の元になるものを生み出す。朱雀は、魂の灯火。青龍の創り出したものに、命を与える。白虎は……」
「白虎は、なんだ?」
「可能性の開放。青龍と朱雀の生み出した『生命体』を、環境や時代に応じた形に整えてあげる能力……」
「……やはり、コニラヤと同種の神か……」
「そしてボクは、三柱の開発データをもとに生命体を量産して、地上を命でいっぱいにする神。だから僕は、これまでに実在した動物ならなんでも生み出せるよ。実在しないものはひとつも創れないけど……」
「やはりな。何かがおかしいと思っていたんだ。大地を守護する者と言いながら、貴様は雨も降らせた。癒しの力を持つかと思えば、真逆の闇の属性も持つ。貴様は三柱の能力を寄せ集めた『複合型』なのだな?」
「そうだよ。白虎たちが任されていたのは、『地球』っていう世界の初期開発だもん。ある程度軌道に乗った段階で量産に踏み切るのは、開発プロジェクトの流れとしては自然でしょ? それで生命の大量生産装置として創られたのがボク。多分、その後の開発を任されていた神もいたと思うけど……」
「ハロエリスやティアマトー、イシュタル、フレイアたちがそれだ。人類誕生直前までの環境整備を彼らが行い、それ以降は我々天使が請け負った。だから、本来我々は敵対する存在ではないのだが……なぜ、戦うことになってしまったのだろうな?」
サマエルに視線を向けられ、ハロエリスは恥じ入るように下を向く。『地球』とは、神々が己の役割を忠実にこなし、協力し合うことを前提として創られた世界だったのだ。それがいつのころからか、神々は協力し合うことをやめ、誰が一番偉いとか、どこの神族が一番強いとか、そんな競争に熱を上げるようになってしまった。そして己の得た地位に固執するあまり、退くべき時を見誤り――。
「……世界のシステムが狂い始めた元凶は、おそらく我だ。我が最初に言い出したのだ。ティアマトーやイシュタルより、我のほうが優れた神であると……」
それから神々は、徐々に争いあうようになっていった。彼らが守護する人間も神々の影響で小競り合いを繰り返すようになり、いつしか国と国とが争う大規模な戦争が巻き起こった。
一度殺し合いを始めてしまえば、憎しみの連鎖は断ちようがない。武神や軍神などという新世代の神々が大勢産み出されたのも、すべてはハロエリスらの始めた『見栄の張り合い』が元凶である。
ハロエリスは、覚悟を決めた目でサマエルを見た。
「天使サマエル。頼む。我に裁きの剣を。我が天へと赴き、あの蝶がなにか、皆がどこへ消えてしまったのか、答えを聞いて参ろう」
「いいのか? 私が思うに、貴殿は寿命や能力を大きく損なう可能性があるが?」
「構わない。いや、それこそが順当な処遇であろう。神としての務めをおろそかにしていたのは、我なのだから……」
「……そうか。ならば……《ジャッジメント》!」
サマエルは赤い翼を剣に変え、その手に構える。
「……幸運を……」
地下とは逆だった。ルキナが放るハロエリスの体に、サマエルが光の剣を振り抜く。
次の瞬間、動きを止めたハロエリスの体はボトリと床に落下していた。動かないハロエリスを見つめて、創造主の判定&ペナルティ処理を待つ一同だが――。
「……サマエルちゃん? これ、長くない? もう一分くらい経つけど……」
「話を聞いてくるというのだから、多少は時間が掛かると思うが……」
「やっぱり、罪が重すぎてこのまま死亡コースなんじゃ……」
「それは……確かにその可能性もあるが、そうなると、非常に困るな……」
「答え、聞けなくなっちゃうもんねぇ……?」
じっと待つこと十分少々。これはもう死亡確定なのではないかと諦めかけたとき、ハロエリスは唐突に起き上がった。
「大変だぞ! タケミカヅチとかいう小僧が、白虎に乗っ取られているらしい!」
「は? タケミカヅチ? それってサイトの中にいるってカミサマだよね?」
「うちの子を乗っ取ったとは……? 器のほうを乗っ取ったのではなく?」
「どういうことなのかしら?」
「器のほうだとしても、あんのお人さ、そう簡単に乗っ取られたりしねえと思うんだけども……?」
「ですよね……?」
「だよね……?」
ピーコックに続いて、ツクヨミ、ルキナ、ヤム・カァシュ、レイン、コニラヤも首を傾げている。神が神を乗っ取るだなんて、聞いたことがない。神の眼を盗んで、器のほうにちょっかいを出したというのなら理解できるのだが――。
「ハロエリス殿、いったいどういうことでしょう?」
進み出たツクヨミに、ハロエリスは首を横に振ってみせる。
「すべて、白虎と青龍によって仕組まれていたことであるらしい。我々がこうして巡り合ったのも、戦うことになったのも、何もかも……」
重苦しい声で語られる話に、誰もが息を呑んだ。
生命を生み出し、進化させ、増殖させる。太古の地球を植物と動物で満たし、豊かな生態系を築き上げ――白虎ら四神の『役割』はそれで果たされた。彼らは余生を過ごす場として、一つの惑星を与えられた。それがこの世界である。
彼らは世界に『そらのそこのくに』と名前を付けた。ある日突然『用済み』とされて異界に送られても、彼らはまだ、力を合わせて生きていくつもりでいたのだ。
しかし、問題が起こった。地球で発生した史上初のシステム障害『マガツヒ』が、こちらの世界に逃げ込んできたのだ。よもや地球でマガツヒなどというモノが発生しているとは思いもしない。彼らはヤソマガツヒを、自分たち同様、異界送りにされた神だと思ってしまった。
マガツヒからオオマガツヒ、ヤソマガツヒへと進化していたそれは、大変愛くるしい姿をしていた。朱雀は一目で気に入り、毎日、片時も離すことなくヤソマガツヒを傍に置いた。
他の三柱が気付いたときには手遅れだった。朱雀は心を蝕まれ、闇堕ちになってしまった。異変を察知した創造主がオオカミナオシを寄越したが、そのときにはもう、朱雀の闇は玄武にまで感染していた。
修復不能なほど壊れてしまった朱雀はヤソマガツヒもろとも、創造主が用意した『別の世界』に飛ばされた。まだ比較的症状の軽かった玄武は、適切な修復方法が見つかるまでの暫定的処置としてそのままの状態で封印された。
二柱がいなくなってからも、残された青龍と白虎は必死に生きた。けれども女神が不在では、子を産み、神族を増やすことも出来ない。青龍がどんなに卵を創っても、白虎がどれだけ進化の力を与えても、その卵に命は宿らない。すべて空っぽの卵で、温めても、声を掛けても、一向に孵る気配はなかった。
次第に心を病んでいく白虎に、青龍は『リセット』を提案した。
生まれ直そう。
そしてまた、四人そろってやり直そう。
そのためには、玄武と朱雀を闇落ち状態から救済する能力者が必要で――。
ハロエリスの言葉に、ツクヨミは蒼褪める。
「……彼らは、ずっとこの時を待っていたというのですか? 人間が進化し、『器』となりうる心と体を手に入れる日を、何万年も……」
「創造主の話によれば、そういうことになる。器を持つ神ならば、朱雀が送られた『別の世界』にも飛ぶことが出来る。そこで闇堕ちになった朱雀と戦い、元に戻すことが出来れば、白虎らの悲願は果たされる。創世神である四神の力が揃えば、マガツヒという不具合を生み出してしまったシステムそのものの書き換えも可能だ」
「では、我々の運命を操作していたのは……」
「創造主だ。白虎と青龍の頼みを聞き届け、不具合の修正と、予定外の死を遂げた神と天使全員の再生を行うおつもりで。しかし主は、またも計算違いをされた。今度こそ神々は協力し合うだろうとお考えになったようだが……ヘファイストスは、とんでもないことをしでかしてくれたようだな。女神らを犯したばかりか、あれはタケミカヅチの兄弟を……」
ミカハヤヒ、ヒハヤヒの名誉のため、ベイカーもタケミカヅチも二柱が受けた仕打ちについては口外していない。ただ監禁され、力を奪われていただけだと話している。
同じく囚われ、二柱が何をされたか知るルキナは、ハロエリスに問う。
「それは、口に出さなければいけない話なのかしら? 彼らは必死に忘れようとしているのに……」
ハロエリスは静かに頷く。
「ああ……ここが話の核心であろう。ミカハヤヒとヒハヤヒはヘファイストスに犯された。ただ犯されただけではなく、ヘファイストスは二柱が自分に反抗しないよう、自分が遊びやすいよう、彼らの体を作り変えてしまったようだ」
二柱の父親イザナギの分身であるツクヨミは、全身に怒りの気を纏い、声色だけは静かに尋ねた。
「具体的にお教え願えますか? あのクソ野郎が、うちの子たちに何をしたのか」
「あれは『鍛冶屋の神』だ。軍神、すなわち武器の神を、より強く進化させることが出来る。しかし逆に、刃を打ち潰して、まったく無害な『飾り物』に変えてしまうことも出来る。外見的には何も変わっていないが、彼らの中身は……対マガツヒ用に強化されていた部分は、修復不可能なレベルで破壊されている。神として存在を維持できるだけの、最低限の能力だけがかろうじて残されているような状態だ」
「……では、あの子たちが今後、闇堕ちと戦うことは……」
「不可能だ。主のもとで彼らの記録を見てきたが、今の彼らは中身のない鞘のようなもの。柄と鍔だけを取り付けて、表面上だけは『剣』のように見せているに過ぎない。彼らはあれで全力。なにをどうしても、あれ以上の力は出せない」
「……そんな……三つ子のうち二人が戦えないのでは、どうやって朱雀を元に戻せば良いのか……」
「いいや。戦えないのは二人ではない。三人だ。創造主のお話では、それこそが最大の誤算であったと。二柱の神格をこれ以上落とさぬよう、タケミカヅチは今、常に限界に近い力を放出し続けている。彼が兄弟を見限ることはない。例え共倒れしようとも、死ぬまで彼らに力を……自らの命を分け与え続ける覚悟を決めている。そのせいで今の彼にはもう、自分が戦うために必要な力が残されていない……」
「……主の計画は、すでに破綻しているということですか?」
「いいや。もう一つ、良い意味での誤算もあった。主の計画に含まれない不確定要素が三人いる」
「三人? 誰です? まさか、ケルベロスですか? あれは『神の器』相手にも競り負けない桁外れの男ですが……」
「いいや。あれははじめから計画のうちに含まれている。我が聞いた名は、ガルボナード・ゴヤ、ポール・イースター、アレックス・ブルックリン。彼らは自らの意思と行動によって『神的存在』との『繋がり』を確立した。主によって導かれた出会いではなく、あくまでも本人が望んだ結果、天使の器、神の憑代となったのだ」
「器? 憑代? そんな馬鹿な。これまで彼らから神の気配を感じたことは……」
「だろうな。我も驚いた。彼らが神を宿したのは今夜のことだ」
「今夜⁉」
長々とした説明を省くためだろうか。それとも、情報の伝達ミスを恐れてのことだろうか。ハロエリスがここまで話したところで、創造主が介入した。この場の全員の脳内に、現場にいる本人でなければ知りえない『そのときの光景』を送り込んできたのだ。
バンデットヴァイパーと同型の寄生型武器を移植されたゴヤは、隔離施設で必死に力を制御しようとしていた。蛇に変化するだろうと思っていた左腕は大量の黒い蟲に変わってしまい、ゴヤの言うことを聞かず、部屋中を好き勝手に歩き回っている。
蟲たちはある一定距離からは離れようとしない。やはり寄生型武器としての活動限界範囲があるらしいのだが――。
「だあああぁぁぁーっ! もう! 駄目ッスよカナブンさん! カブトさんとキマワリさんはちゃんとまっすぐ並んでるんスから! ほら、そこに一列に……そうッス! それッス! やればできるじゃないッスか! カナブンさん最高! 超いい子! いっやぁ~、それに比べてこっちは……こんな小っちゃいカナブンさんにも出来るのに、なんでムカデさんたちは整列できないんスかねぇ~? こぉんなにデッカイのになぁ~? なぁんでだろうなぁ~?」
自由気ままに歩き回っていたムカデやヤスデ、ゲジたちはピタリと動きを止め、互いの顔色を探り合うように視線を交錯させ、のろのろと移動しはじめる。そして少々まごつきながらも、なんとか整列することが出来た。
ゴヤによる微調整でビシッと一列に整列した蟲たちは、号令に合わせて右向け右、左向け左、二列並び替え、回れ右などを次々にマスターしてゆく。グレナシンらが考えていた『力の制御』とは大幅に異なる何かが行われていることは間違いないのだが、確かに制御はできている。
「それじゃ、向かい合って……親善試合を始めます! 一同、礼!」
蟲たちは丸めたコピー用紙をボールとバット代わりに野球を始めた。この映像を見せられているピーコックらは全員揃って「なんでだよ!」とツッコミを入れてしまったが、これは創造主に寄って見せられている過去の光景である。ゴヤにも蟲にも、このツッコミは聞こえない。
しばらくそんなことを続けているうちに、突然蟲たちの姿が消えた。びっくりしてキョロキョロするゴヤの左側に、唐突に人影が現れる。
その人は片手で口元を隠し、もう一方の手で『ちょっと待って』というジェスチャーをしている。
「頼む、もう勘弁しておくれ。君が私の宿主として相応しい男か試すつもりで、あえて忌み嫌われる蟲たちの姿で顕現したのだが……これ以上は私の腹筋がもちそうにないよ……」
白い肌、黒く長いストレートヘア、琥珀色の瞳。漆黒のローブを大胆に着崩し、その背に十二枚の光の翼、頭上に光の冠を戴いた天使なのだが――。
「……え? えっと……? ……って! うわぁ⁉ 誰ッスか‼ つーか俺のミヤマさんどこ⁉ ヒラタさんもいない⁉」
いかにも神々しい姿の、史上最高位の天使の降臨を目の当たりにしてこの反応である。ゴヤにとっては、天使よりもミヤマクワガタとヒラタクワガタのほうがありがたい存在であったようだ。
その天使は大げさに溜息を吐くと、諦めきったような声で名乗る。
「あー……私はルシファー。明星の天使として、地球ではそれなりに名の知れた存在だったのだけれど……クワガタのほうがお気に召すなら、クワガタに変化しようか?」
「あ、はい、ぜひ!」
「そうか……」
全世界の女子が一瞬で心を奪われるような美青年だとしても、ノンケで昆虫オタクのゴヤには何の価値もないことである。ルシファーは生まれてはじめて『天使に無反応なクワガタ好き』に遭遇して、多大なカルチャーショックを受けていた。ボヒュッという空気が抜けるような音を立てて、大人の手のひらほどもある巨大なクワガタに姿を変える。
「うおぉぉぉーっ! ヘキサルトリウスマンディブラリススマトラヌスじゃないッスかーっ! 俺これ超好きッス!」
「よく一目で種名がわかるね……というか、一気に言いきれるものなんだね? どこかで区切らなければ言えないものだと思っていたよ……」
舌を噛みそうな昆虫の名前もスラスラと諳んじてみせるのが昆虫オタクという連中である。伝説の天使を呆れさせるという偉業を成し遂げた虫オタは、何の抵抗もなくルシファーを持ちあげ、顔の高さに掲げて名乗った。
「ピーコさんのバンデットヴァイパーみたいに蛇になると思ってたんスけど、クワガタなら、蛇よりもっと好きになれそうッス! 俺、ガルボナード・ゴヤ! ゴヤッチかガッチャンでお願いするッス!」
「え? あだ名で呼ばねばならないかね?」
「できれば! ってゆーか熱烈希望で!」
「そ、そうか……では、以後よろしくガッチャン」
「こちらこそ、よろしくお願いするッス! クワファーさん!」
「クワファーさん⁉」
「あ、ルシガタさんのほうが良かったッスか?」
「ルシガタさん⁉」
伝説の天使のペースを完全に乱している。動揺もあらわに大顎をワキャワキャと動かすクワガタだが、互いに名乗り合い、受け入れ合ったことで、創造主から『役割』を授かる条件を満たしたようだ。どこからともなく現れた水色の蝶がゴヤの肩に触れた瞬間、世界が変わった。
二人は一瞬で、ルシファーの『心の世界』に飛ぶ。
そこは真っ白な塩の大地と、紺碧の夜空の世界である。いくつもの水溜まりが空の色を映し、天と地の境界すら定かでない広大な空間。無数に瞬く星の明かりの中、特別明るい光を放つ星が一つ。
明星の天使ルシファー。彼の名の由来となった星である。
「え、あの、その……クワファーさん? ここ、どこッスか?」
「私の世界だよ。さあ、選ばれし者よ、決断の時だ。君はここをどうする?」
「どう……って……?」
「君にこの世界をあげよう。ただし、ここは見ての通りの不毛の大地。創造主の恵みの象徴、天頂の太陽も存在しない世界だ。今のままでは生き物を育むことは出来ない。何かをするには、世界を丸ごと作り変える必要があるわけだが……君はここで、何をしたい?」
そう言われて、ゴヤは周囲を見渡す。
確かに何もない。足元はカチコチに凝固した塩の結晶。水溜まりは塩水だし、夜空が広がるばかりで、湿った地面には腰を下ろすことも出来そうにない。
しばらく考えて、ゴヤは首を傾げた。
「あの、逆に聞きたいんスけど、クワファーさんはここで何してたんスか? 天体観測とか?」
「ふむ……そうだな。まあ、眺める程度には。あとは寝に帰る程度だ」
「地面濡れてんのに?」
「私は天使だからね。宙に浮いたままでも眠れるのさ。地面に降りたことなんてないよ」
「あ、じゃあ、それでいいんじゃないッスか?」
「それで、とは?」
「ここがクワファーさんのベッドルームなら、そのまんまでいいんじゃないッスか? 開発する必要ってあるんスか?」
「……それが答えで、いいのかい?」
「つーか、他に答えってあるんスか?」
「私は君の寄生型武器として生まれ変わった。これからは君と一心同体だ。私のものは、なにもかも君のもの。私の心の世界も、君の気に入るように作り変えられるんだよ? 塩の大地が気に入らないのなら、普通の砂にして、花でも育てればいいと思うよ?」
「え、だって、そんなことしたら星が見えなくなっちゃうじゃないッスか。明るくしなきゃ花育たないし、花育てたら、この水溜まりも、全部なくなっちゃうし……クワファーさん、地面に降りたことがないなら、下から空見てるんじゃなくて、空から水に反射した星を見てるんスよね? 駄目ッスよ、せっかく綺麗なものがあるのに、それ壊したりしちゃ」
「本当にそれでいいのかね? 君は、私の所有物を作り変えることが出来るようになったのだよ? この世界は君の望むとおり作り変えられる。君の大好きな昆虫でいっぱいにすることも、大勢の美女に囲まれて暮らすことも、大好きな食べ物を無限に作り出すことも可能だ。それでも君は、ここを今のまま、手つかずの状態で残すと言うのかい?」
「ん~……なんつーのかな? 可能か不可能かで言えば出来るのかもしれねえッスけど、たぶん、それはやっちゃ駄目なあれッスよ」
「どうして?」
「一心同体ってのがビミョーに理解できてねえッスけど、こうやって会話で来てるんスから、『別の人格』じゃないッスか? 一緒にいて別々の人格があるんなら、それって兄弟とか、友達みたいなもんかなって思うんス。いくら一緒に住んでるからって、家族やルームシェア相手の持ち物を勝手にいじくっちゃ駄目ッスよね? 俺、そういう非常識なヤツとかマジで駄目なタイプなんで……」
ゴヤの答えに、ルシファーは心底面白そうに笑った。
「いいね! 最高だ! ありがとうガッチャン! 君となら、この先うまくやっていけそうだ。私も、君の持ち物を勝手にいじる気はないよ。プライベートにズカズカ踏み込まれるのは苦手なタイプなのでね」
「そんじゃ、それが俺たちの共同生活ルールってことで」
「ああ、それが私たちのルールだ」
ルシファーは天を仰ぎ、大きな声で呼びかけた。
「主よ! ご覧になりましたか? この男はかつての彼と同じです! 理由は少々異なるようですが、私の世界を受け取ろうとはしないのです! 面白い! 非常に面白い男です! さあ、お役目を下さいませ! 私とこの男にふさわしい、退屈しないお役目を!」
星明りしかない暗い世界が、一瞬で透明な光で満たされる。
そして次の瞬間、どこからともなく声が響いた。
〈驕れる者には絶望を。
正しき者には明星を。
破壊せよ。そして再生せよ。
生と死を、黄昏と夜明けを、あるべき形に整えよ。
それが其方等に課す『役割』である。〉
フッと光が消え、ゴヤとルシファーは元の部屋に戻されていた。
突然のことに困惑したゴヤは、手のひらに乗ったクワガタにどうでもよいことを尋ねる。
「クワファーさん、主食は昆虫用のゼリーで大丈夫ッスか? それとも生樹液派?」
「どちらでも構わないが……え? この流れで、お役目の話はスルーなのかい……?」
「いや、だって、なんかよく分かんなかったんで……さっきの渋い声のおっちゃん誰ッスか?」
「渋い声のおっちゃんって……」
「自己紹介とかしてもらわねえと、誰だかわかんねーッスよ」
「あ、ああ、まあ、確かに……」
急に現れて世界規模の話をされても、ゴヤにはピンとこない。大きすぎて理解できない話より、彼にとっては目の前のクワガタの飼育法のほうが重要な問題のようであった。
ところ変わって、今度は騎士団本部内、総務課の女子職員寮である。
午後八時ごろ、特務部隊の隊長補佐アレックス・ブルックリンは大量の酒や菓子類を持参して女子寮を訪ねていた。
男子禁制と言われてはいるが、それは夜這い目的で入り込む不届きな輩を遠ざけるための建前である。手土産持参で正面から堂々と訪ねて行けば、一階の応接間には通してもらえる。
「ええっ⁉ ボイラーに取り憑いた幽霊さんとお話しできるんですか⁉」
「アレちん、それマジ? 嘘でしょ~?」
「な、なな、なんかよく分からないけど怖いですぅ~っ!」
「これは私自身が実証済みの方法でして。特務部隊に舞い込む案件の中に、幽霊にまつわる話が多いのは、皆さんもご承知の事と思いますが……」
総務の三人娘は真剣な顔で頷く。彼女らの後ろにも同じ寮の女子職員が十名ほどいるのだが、全員、ゴヤが幽霊退治案件を担当していることを知っている。まさか自分たちが暮らす建物内に幽霊がいるなんてと怯える彼女らに、アレックスは協力を求める。
「全員で捧げ物をして、頭を下げて、『もうボイラーに悪戯しないでください』とお願いしましょう。それでも直らなければいよいよゴヤ君の出番となりますが、彼は今体を壊して入院中ですので、あまり無理もさせたくありませんし……」
一般職員にはそういう話で通してある。女子職員らは互いに頷き合い、自分たちにできることがあるなら試してみようと意思を固めた。
浴室の外側に設けられたボイラー室に移動し、全員でボイラーの状態を確かめる。するとやはり、現在進行形で怪奇現象が発生中だった。ボイラーは今も問題なく稼働しているのに、すぐ外の配管には結露がついているのだ。これは配管内を流れる水が、外気よりずっと低温であることを示していた。
アレックスの指示の下、全員で酒や菓子を一つずつ並べていく。そして全員で頭を下げる。
「今この場所にいらっしゃる方へ。ボイラーが使えないと、お風呂に入れなくて大変困るのです。少し話をしませんか? どうか、お返事を下さいませ。お願いいたします」
「お願いいたしまーす!」
本当にこんなことで幽霊と会話が出来るのか?
疑念を持ちながらもアレックスの言葉を繰り返した女子職員たちは、次の瞬間、全員揃って悲鳴を上げることになった。
「わ、私の存在がわかるのか⁉ 分かるのだな⁉ おい、男! お前、私の声が聞こえるか⁉ 聞こえるよな⁉」
「聞こえる……というか、普通に見えておりますが……?」
「なに? ……見える、のか? 私が……?」
目を丸くして女子のほうを向くと、再び悲鳴が上がる。
「うっそーっ! 何よこの美少年! あんたが幽霊? あんたがボイラーに取り憑いてたの⁉」
「名前は? なんていうの? いくつ?」
「可愛いですぅ~っ! お人形さんみたいですぅ~! その羽、どうなってるんですかぁ~?」
すっかり力が衰えて、他の神々に気配すら感知されなかった存在である。人間から供物をささげられても、声も届くかどうかというほど神格が下がっていた。しかし、アレックスのちょっとした思い付きによって、彼は人間の前に顕現できるほどの力を手にすることが出来た。
アレックスはツクヨミから聞いた話から、このような推論を立てた。
一人の人間から捧げられた一杯のコーヒー。それで会話出来る程度の『希薄な繋がり』が生まれるのなら、大勢の人間が同時に捧げ物をして、首を垂れたならどうなるのか。グレナシンの母を救った際、ツクヨミは村人全員に同時に声を届けている。これまでに読んだ資料からも、信徒の数が増えるほど、その信仰心が強いほど、神の存在は強く、はっきりしたものになっていくという。だったら一人で接触を試みるより、他の職員らに協力を頼んだほうがコンタクト成功率は上がるのではないだろうか。
アレックスの予想は見事に的中した。問題の神と、声のみならず、姿を視認できるほどの『繋がり』を持つことが出来た。そして予想以上に幸運だったのは、この神の見た目が非常に『女性受け』するものだったことだ。
「あ、あの……わ、私は……私はサハリエル。導きの天使だ……」
「天使⁉ 幽霊じゃないの⁉」
「な~んだ~、てっきりなんか悪いモンが住み着いてんのかと思った~」
「オバケじゃないなら怖くないですぅ~♪ 天使ちゃんカワイイですぅ~♡」
「や、その、えっと……わ、私は可愛いとか、そういう目で見られるような対象では……」
身長は百三十センチほど。フワフワの蜂蜜色の髪、明るい茶色の瞳と、頬に散ったそばかすは、どう見ても小学生くらいの男の子にしか見えない。
小さくてかわいい天使の頭や翼を、女子一同、何の遠慮もなく撫でまわしている。彼女らの『可愛い!』『うちの弟にしたい!』『ボイラー室なんかじゃなくて女子寮の中に住めば?』といった友好的な発言は、もれなくサハリエルへの信仰心としてカウントされるようだ。はじめはどことなく頼りなかった存在感が、次第にはっきり、普通の人間の同様に感じ取れるようになっていく。
「サハリエル様? このところ騎士団本部内でボイラーの故障が頻発しているようなのですが、サハリエル様に関係しているのでしょうか?」
「え、え~っと……その……すまない。お腹が空いたから、少しエネルギーを分けてもらおうと……」
「供物以外からもエネルギー調達可能なのでしょうか?」
「それが……駄目みたいなんだ。いくら食べてもお腹いっぱいにならないし、元気も出ないし……」
「あの、貴方が天使だとすると、いったい何を司っておられるのでしょう?」
「道案内だ。私は道を間違えそうになっている人間に、『正しい道はこっちだ!』という直感を与えるのが仕事で……人間たちは、私に案内されたことにも気づかない。だから、私個人に信仰を寄せる信徒を持たないのだ。まさか、地球を離れると天使長殿からの力の配給が途絶えるとは思っていなくて……」
そこまで黙って話を聞いていた女性陣は、『地球』という単語が登場した途端、にわかに盛り上がる。
「え! 君、地球から来たの⁉」
「ウッソ! 地球って、こんな天使ちゃんが普通にいるとこなの⁉」
「やぁ~ん! 地球旅行したいですぅ~! チケット当選しないかなぁ~!」
「ウチ、この前の抽選一番違いで外れてもうたんや! ホンマ悔しいわ! 末尾の数字一個ちがいやで⁉」
「マ~ジ~で~⁉ それメッチャ悔しいじゃ~ん!」
「サハリエルちゃん! 地球ってどんなところ? お米が美味しいってホント? パンは堅焼きとフワフワ食感、どっちが主流? 『サヌキウドン』って食べ物が大人気って話、嘘じゃないよね?」
「あ、それ! 超気になるよね! 『カガワケン』っていうウドンしか食べない変な国があるって本当なの⁉」
「みんなアヤタ・ラミアの話信じてるの~? 絶対嘘だって~! そんなに毎日ウドンばっかり食べる人間がいるわけないじゃ~ん!」
「えー、でもアヤタ君、フツーに毎日ウドン食べてるじゃん?」
「あれは店のまかないだからでしょ~?」
「ねえ、どうなのサハリエルちゃん! ウドンってそんなに大人気なの⁉」
「え、え~っと、ちょっと待って、今、主に聞いてみる……」
困ったときの神頼み。サハリエルが自分の羽根を一枚引き抜いて宙に放ると、羽根は真っ白な鳩に変化した。鳩はサハリエルの頭の上、フワフワの癖毛の中に腰を下ろし、女子の質問に丁寧に答えていく。
「米料理を主食とする国の中で、米そのものを最もおいしく品種改良できたのは『日本』という国だ。米にその他の調味料を添加して炒めたり、茹でたりする文化圏では『タイ』『スペイン』『台湾』『ベトナム』などが非常に高度な調理技術を有する」
「パンは⁉」
「地球も広い。地域によってあらゆる食感のパンが存在する」
「ウドンは⁉」
「『日本』の『香川県』という土地では毎日うどんを食してもまったく飽きないという人間が多いが、それ以外の土地では主食とは言い難い。世界的に見ればうどんを主食とする人間は少数だが、『香川県』の人間が度を越えたうどん好きであることは真実だ」
「あ、じゃあアヤタ君嘘ついてないんじゃん!」
「へ~、『ウドン王国カガワケン』って実在するんだ~」
「すご~い! フェアリーランドみたいな空想上の存在だと思ってた~!」
アレックスは思った。天使と創造主がダブルで降臨しているのに、もう少しマシな質問はないのだろうかと。というか、彼女らはおそらく気付いていない。鳩が現れたその瞬間から、このボイラー室ごと、どこか別の空間に飛ばされていることに。
(言わないほうが、いいですよねぇ……?)
身長百九十四センチのアレックスの目線では、ボイラーの機械の向こう側に小さな窓が見えている。その窓の外の景色が、どう見ても現実空間ではない。天も地もない虹色の亜空間に、水色の蝶が無数に舞い飛んでいるのだ。
女子の身長では窓の存在自体に気付けないはずだ。迂闊なことを言って女子一同を混乱させるより、ここはひとまず、何も気付いていないふりをして創造主との話を進めるほうが良いのではないか。
アレックスがそう考えた瞬間、頭の中に直接声が響いた。
(サハリエルに気付いてくれたこと、感謝する。其方等が供物と信仰を捧げてくれなければ、この子はいずれ自然消滅していただろう)
(あなたは……創造主様、ですか?)
(いかにも。其方が聞きたいことは分かっている。なぜこの天使が現れたか、だろう?)
(はい。はじめはザラキエルさんがボイラー不調の原因かとも思ったのですが、何か違うようでしたので……)
(この天使は、どうにも好奇心が強いのだ。ザラキエルが何処かに消えたという噂を聞いてから、あちこちの神に尋ね歩き、『異界送り』というシステムに気付いてしまった。導きの天使だけあって、自然発生する時空の歪みを発見するのも上手かった。あっという間に異界に渡ってしまって……自分が餓死する可能性を考えもせずな……)
(ははぁ……好奇心のためならどんな危険も顧みず、という点では、踏み込み過ぎるフリージャーナリストのような天使さんですね?)
(其方に似ているな)
(私はこんなに可愛くありませんがね?)
(魂の姿は瓜二つだ。アレックス・ブルックリン、其方の体はたった今、サハリエルの『器』として作り変えられた。導け。それが其方の『役割』だ)
(えっ⁉ 作り変えた⁉ いつ……どのあたりを⁉)
(外見上は何も変わらぬ。ほんの少し体を丈夫にしてやったまで。どうか、サハリエルを大切にしてやってほしい。あれはまだ、見た目通りの歳なのでな)
(見た目というと……八歳か九歳くらいでしょうか?)
(いや、七歳と四か月だ)
(七歳四か月⁉)
アレックス・ブルックリン、三十四歳、独身。大学卒業後早々に結婚した同級生らは、今や小学生の子供を持つパパになっている。しかしアレックスにはそのような縁も出会いも機会もなく、自分はこのまま生涯独身なのだろうと、どこか諦めた目で孤独な老後を見据えた人生設計を立てていたのだが――。
(あの、創造主様? その……いきなり羽の生えた子供を預けられましても……)
どう育てたらいいのですかと、尋ねようとしたのだが。
「あれ⁉ 消えちゃった!」
「嘘! どうして⁉」
「鳩さんどこ行っちゃったの⁉」
女子の質問に答えていた鳩は、ほんの一瞬で姿を消してしまった。あとに残るのは、サハリエルの頭上の羽根一枚である。
「す、すまない。私はまだ未熟者であるから……皆の問いに、適切な答えを返すことが出来ない……」
困った顔の美少年に、女子一同、胸をキュンキュンさせて身もだえていた。
「やあぁ~ん! か・わ・い・いぃぃぃ~!」
「サハリエルちゃん! リビングのほう行こう! お姉さんたちとトランプしよ、トランプ!」
「何が良い? ババ抜き? 七並べ?」
「みんなでやるならポーカーじゃない?」
「ダウトとかは?」
「天使ってそういうのズバッと見抜いちゃいそうじゃない?」
「そうなの?」
「いや、私はそういう能力の天使ではないから……」
「あ、じゃあ、普通に遊べるね!」
「リビングはこっちだよ~♪」
お姉さんたちに手を取られ、サハリエルはリビングルームに強制連行されてしまった。
アレックスはそこで気付く。
ボイラー室は、いつの間にか元の空間に戻されていた。
「……私が天使さんの『器』……ですか……?」
自分の手のひらを見つめ、憮然とした表情で立ち尽くす。
「……こんなオジサンが……?」
超個性派と超絶イケメンばかりが勢ぞろいした特務部隊で、ただ一人『ごく普通の三十代』という希少なポジションをキープしていた。その自分が、なぜ急に『天使の器』に選ばれてしまったのだろうか。
全く納得のいかないアレックスは、つい、本音を漏らしてしまう。
「こういう場当たり的な対処をするから、システムに重大な不具合が出るのでは……?」
この発言に対し、創造主からの罰はない。一応、本人も場当たり的対処であるという自覚はあるようだ。
「アレち~ん! 何やってんの~? アレちんもババ抜き大会参加すんでしょ~?」
「あ、はい! 今行きます!」
本人たちが何も言わないうちに、創造主によって勝手にコンビを組まされてしまった。まるで事務所のごり押しで決定したアイドルユニットのようだなぁ、などと思い、自分の発想にショックを受けたオジサンであった。
最後の一人は、なにやら妙な雰囲気だった。
特務部隊の隊長補佐ポール・イースターは、自宅の遊戯室でソファーに腰を下ろし、跪く二柱の神を見下ろしていた。その様子はどう見ても、友好的な関係とは言い難い。
「単刀直入に申し上げます。迷惑です。お引き取り下さい」
「そこをなんとか」
「お願いします」
「いやです。というか、なんで僕なんですか? お二人とも、ベイカー隊長にくっついていればいいでしょう?」
「駄目なんだ。それだと、タケぽんに迷惑が掛かる」
「うん。多少無理があっても、とにかくタケぽんとの接続を切りたい。僕らはどれだけ弱ってもいい。どうせ、もう戦えないんだ。最悪、存在が消滅しても仕方がないと思っている」
「接続を切るために、サイトとは別の人間に憑く必要があるんだ」
「だからお願いだよ、ポール君。フォルトゥーナの運命接続が解除されてからも、君はこうして、僕らの存在を認識している。君と僕たちの相性は、それほど悪くないということだ。どうか、僕らと……」
「メリットは?」
「メリット?」
「僕がお二人を受け入れることで、僕にはどのようなメリットがありますか? また、どのようなデメリットがあるでしょう? 契約交渉をするなら、まずはプレゼンテーションからでしょう? 何の資料も説明もなくいきなり『契約書にサインしろ』と言われても、お引き取り下さいとしかお答えできませんよ?」
「えーと……そうだな……まず、僕は暗器の神だ。弱ってはいても、人間の君に最低限の加護を与えることは出来る。君は貴族なんだから、命を狙われるような事態も想定されるだろう? そんな時、僕は刺客が隠し持っている武器に不具合を起こして、使用不能にすることが出来る」
「なるほど、それは便利ですね。では、デメリットは?」
「僕自身にたいした力がないから、能力を発動させる場合、君の体力を激しく消耗することになる。病み上がりのような虚脱感を感じるだろうけど……」
「命が掛かった場で、殺されるか疲労を感じるか、ですか? そんなの、多少の疲労を感じてでも命を守るほうが重要です。ミカハヤヒさん、貴方のことは受け入れることにします」
「ありがとう」
「では、次。ヒハヤヒさん、貴方にはどんな能力がありますか?」
「僕は……飛び道具の命中精度を上げることが出来る」
「どの程度? 全くど素人の僕が撃っても、必ず的に当たるほどですか?」
「いや……さすがにそこまでは……」
「ならば問題外です。僕はデスクワークが主な仕事です。自分自身で戦うことはありません。他を当たってください」
「……そうか……すまない、無理を言った……」
ヒハヤヒは立ち上がり、すっと姿を消す。
ミカハヤヒは残念そうな顔をするが、はじめから分かっていたのだろう。『最高に相性がいい』とは言えない相手に二柱で同時に憑くことは難しい。なんとか憑くことが出来たとしても、力が使えないのだ。無理に力を使えば、心か体か、あるいはその両方か、憑いた人間の健康を損なうことになってしまう。
「……何も言わないんですね?」
「僕には、君に文句を言う権利は無いよ。こちらが無理を言っているのだから」
「いつからです?」
「え?」
「いつから、貴方はそういう負け犬根性で生きているんですか? その生き方、楽しいですか?」
「……楽しくなんかないさ。でも、僕にはもう、他に出来る事もないし……」
「本当に? ついさっき、貴方が言ったんですよ? 『君は貴族なんだから』って」
「……何が言いたいんだい?」
「まったく、本当に頭の働きが鈍いカミサマですね。僕がここにこうしてふんぞり返っていて、目に入っていないはずが無いでしょう? 僕は貴族。加えて、特務部隊の所属です。つまり僕には、二十四時間、常に携帯できる物があるんですよ?」
「……え? いや……とすると、そうか。アレさえあれば……っ!」
なにかに気付いて顔を輝かすミカハヤヒに、ポールは不敵に言い放つ。
「刺客の武器を使用不能にする? それでは手緩い! 暗器の神だというならば、それを手にして、自ら戦って見せてください! そのための肉体なら、僕があなたに……いいえ、『あなた方』に与えましょう! この……」
ポールは腰のホルダーから魔導式短銃を抜き、高らかに宣言する。
「対霊特殊魔弾、《サンスクリプター》で!」
ポールの声に反応し、銃は讃美歌のような荘厳な声明を響かせた。この音声の響く範囲内でなら、霊は仮初の肉体を得て実体化する。その特殊効果がミカハヤヒにも有効であることは、ダウンタウンの戦いで証明されている。
ミカハヤヒが実体化する。するとミカハヤヒの後ろに、消えたはずのヒハヤヒの姿もあった。
「やっぱり、まだいましたね」
「……いいのか? 僕も、君の傍にいて……」
「下手糞なスナイパーは要りません。射撃の腕は?」
「百発百中」
ポールはニヤリと笑い、手を差し出した。
「よろしく、ヒハヤヒさん。ミカハヤヒさん共々、役に立ってくださいね?」
「恐ろしい男だな、君は」
「誉め言葉として受け取っておきましょう」
ヒハヤヒは差し出されたポールの手を取り、握手を交わした。続いてミカハヤヒも握手を交わす。
それが彼らの契約の証だった。
どこからともなく現れた水色の蝶が、一人と二柱を『心の世界』へと誘う。そこはこの三人のため、創造主によって新たに創られた世界である。
白骨死体で埋め尽くされた真っ白な大地。
頭上に広がる機械的な天井。
無数に設置された殺菌用紫外線ランプで、世界全体が青白く輝いている。
完全無菌の死者の国。
その異様な世界に、彼らは三者三様に満足した。
ポールはこの潔癖な世界がひねくれた自分にぴったりだと思ったし、ミカハヤヒは足元の白骨死体を無力な軍神の象徴のように感じ、新たな道を往く自分への戒めとしようと考えた。また逆に、ヒハヤヒはこの骨を征服者の象徴ととらえた。これから立ちはだかるあらゆる『闇』を、このように容赦なく、徹底的に叩き潰してゆこう――そう思ったのだ。
非常に危険な三人の、まったくまとまらない胸の内。それを丸ごと見透かして、創造主はこう告げた。
〈世界のルールを書き換えろ。それが其方等の『役割』だ。〉
唐突に響いた創造主の声に、天才少年は淡々と言い返す。
「その表現は不適切では? そもそも明文化された状態ではなかったのですから。これは書き換えというより、ようやくオープンソース化された管理システムの全世界共通規格化に向けたプロジェクトの立ち上げのようなものでしょう?」
ぐうの音もない。すべてはバージョンの異なる管理システムをそれぞれ別個に運営していたが故の悲劇である。二柱の神は創造主の心中を思い、曖昧な笑みでその場をやり過ごした。
三人の人間と二人の天使、二柱の神の『不思議な出会い』を目撃し、ピーコックらは何とも表現しがたいうめき声をあげていた。
「ぬぐぐぎがぐがぐぐぐぐぅ~……謎の蝶の正体が創造主の創ったモンだって分かったのはいいんだけど……いいんだけどさぁ~! ……よりにもよって、あのクソ天才的アポカリプティック暴走少年に軍神が二柱も……マズい……本格的にマズいぞぉ~……」
ポールをよく知るツクヨミとレインも、絶望の淵に突き落とされたうえに鋼鉄製の蓋でも被せられたような顔をしている。
「ルールの書き換え? え? 違うよね? あの子たぶん、人類の完全絶滅か機械的管理か、何か極端なことを言い出すよね……?」
「史上最年少テロリストに、アサシンの神とスナイパーの神が味方するんですか? これって、世界終了のお知らせですか?」
事情がよく分からないルキナ、コニラヤ、ヤム・カァシュ、ザラキエルに、ピーコックと共にありとあらゆる『王国の暗部』を見てきたサマエルが説明してやる。
「ポール・イースターは国家転覆を企てた重罪人だ。今騎士団で働いているのも、六歳のころに計画・実行した『発電所・変電所連続爆破テロ』に対する償い。つまるところ、強制労働に処されている状態だ」
「爆破テロって言っても……六歳の子供に何が出来るのかしら……?」
「小学生向けの社会科見学ツアーに参加して正面から堂々と発電所に入り、爆破呪符を仕掛けた。まだ学校で呪符の起動法を教えていない年頃だし、六歳の子供が自力で爆弾を製造するなんて誰も考えていなかったからな。犯人の見当もつかないまま、マスコミが流した偽情報や憶測に踊らされて……私の宿主は丸三日間、まったく無駄に駆け回る破目になった。そしてその間にも、計七か所の発電所と変電所が爆破された」
「……どうして、子供がそんなことを……?」
「王立騎士団は本当に国内随一の治安維持能力を持つのか。そうでないとしたら、今後どのような組織改革が必要か。これは一国民として、社会に警鐘を鳴らす目的で行った『実験』のひとつである……というのが、捕まった六歳児の供述だ。いや、驚いた。あの頃の私はまだ思考が制限された状態であったが、さすがにあのときは『化け物め』と思ったな……」
「そんな子が、どうしてその騎士団に入団できたのかしら? そういう危険思想者は、普通、秘密裏に処刑されてしまうものでは?」
「そうなる予定だったが、罪を犯した当時の年齢がたったの六歳だったことから、ベイカーが女王に直訴した。そして助命されて、色々あって現在に至る。ポールはなぜかベイカーにだけは懐いていて、ちゃんということも聞く。生かしておくなら、ベイカーの隣に置いておくしかなかった。放っておくと、また何を企むか分からないからな……」
「でも……安全装置があのちゃらんぽらんなプレイボーイ一人って、かなり危険な状態なんじゃないかしら……?」
「ああ。人類は今、核ミサイルの発射スイッチと添い寝しているようなものだ。ベイカーのほうも、本気で世界征服計画を立てはじめるような男だしな……」
「アレとソレとトリオ・ザ・ワッショイをめぐり合わせた主の御心が完全に意味不明だわ……ぶっちゃけ正気を疑うレベルじゃない?」
ルキナよ、その発言は女神としてどうなんだ。そう思ったサマエルだが、裁きの雷がないところを見ると、このくらいはセーフなのだろう。
「それより、ハロさま? 最初に仰っていたこと、詳しく説明してくださる? タケぽんが、今どうなっているのか」
ルキナは床にいたハロエリスをそっと持ち上げ、柔らかな胸元に押し付けるように抱える。当たり前のように胸の谷間に体を埋める鳥に対し、二名が舌打ちと歯軋りの音を立てている。ハロエリスはそれを完全無視してルキナの問いに答える。
「白虎に悪気はない。悪気はないのだが……ミカハヤヒとヒハヤヒに力を与え続けていた影響で、タケミカヅチが弱りすぎてしまったのだ。吸収した白虎の力のほうが強くなってしまったため、今はタケミカヅチではなく、白虎の意識が表層に現れている」
「それは……多重人格の人みたいなものかしら?」
「だとは思うが……白虎はタケミカヅチの器を使って、地球へ行ってしまった」
「えっ⁉ 地球へ⁉」
「創造主によれば、白虎は記憶をリセットされた状態だという。分かることは白虎という名と、かつて自分が『地球の神であった』という二点のみ。なにかを企んでいるということは無いようだが……タケミカヅチが力を取り戻すまでの数日間、ベイカーの体は白虎の都合で動かされることになる。神々にとっては『ほんの数日のこと』だとしても、人間はそうはいかないのだろう? 毎日、せわしなく動き回っているようであるし……」
一同は顔を見合わせる。
これはマズい。非常にマズい状況である。
今は連日、ベイカー、マルコ、ポール、ロドニーの四人がかりで貴族のご機嫌伺いに奔走しているところだ。ここで予定に穴を開けたら、その後のリカバリーが難しい。
「……連れ戻しに行くしかなさそうだね。しかし……私もセレンを連れ去られた状態だし……サラがいつ泣き止んで、戻ってきてくれるか……」
ツクヨミの言葉に、レインが手を挙げる。
「器を持っている神しか、向こうに渡れないんですよね? だったら、私とコニラヤさんが行って、隊長を連れ戻します」
「大丈夫かい? 白虎の精神状態によっては、力ずくで、という展開もあり得るが……」
「その場合は、無理せず退却します。隊長と互角にやり合えるのなんて、ロドニー先輩くらいですから。それより、皆さんのほうこそ大丈夫ですか?」
「うん? 何がだい?」
「トカゲやイノシシやゴリラがあの蝶に『連れて行かれた』ということは、ジルチの皆さんも、単なる『憑代』から『神の器』へ創り直されているということですよね? まさかこの期に及んで、『さっきの仕返しだーっ!』なんて言い出すとは思いませんけど……」
レインがそう話している最中、エントランスホールから続く廊下のずっと奥、ジルチメンバーの居住区のほうから騒々しい物音が聞こえてきた。そしてその直後に聞こえた歓喜の叫びで、一同は頭を抱える破目になる。
「ウッホオオオォォォーイッ! スッゲエエエェェェーッ! このゴリラ、本気出すとこんなだったのかよ! マジ最強パワーじゃねえかあああぁぁぁーっ! ウフォフォフォフォオオオーゥ!」
「お兄チャアアアァァァン! イノシシも超すごいよこの突進力ゥゥゥッ! ヒャッハアアアァァァーッ!」
ドッカーン、バキバキー、ズッゴーンと、冗談のような破壊音が聞こえてくる。
戦闘狂エリック・メリルラントと、その弟アスター・メリルラントだ。よりにもよって、あの二人がゴリラとイノシシの『神の器』に選ばれてしまったとは。ただでさえ暴走しがちな雷獣兄弟に、どうしてこれ以上無駄な馬力を与えてしまうのか。いったい創造主は何を考えているのか。
誰もが遠い目をして立ち尽くしたそのとき、アスターが非常に危険な言葉を発した。
「お兄チャン! さっき創造主とかいうヤツに見せられた映像、ピーコックいたジャン⁉」
「おう! いたなぁっ! んでっ⁉」
「俺たち今、神と合体してるジャン⁉ アイツの幻術、あんまり効かないんジャネ⁉」
「お~と~う~とぉ~! お前マジ頭良いな! よっしゃ! 今からアイツぶん殴りに行こうぜえええぇぇぇーっ!」
「イエアアアァァァーッ! オナホの敵討ちダゼエエエェェェーッ!」
ピーコックは蒼褪めた。
アホが二匹で攻めてくる。これは可及的速やかに退却せねば、色々と面倒臭いことになる状況だ。
「サマエルちゃん! 急な話で申し訳ないんだけど、俺たちもレインと一緒に地球行くとか、そういう提案したいんだけど……どう⁉」
「全面的に賛同する!」
「OKダブルデート決定! 行くぞレイン! コニラヤ!」
「はい!」
「うん!」
すかさずツクヨミが言う。
「一旦器に納まれ! その状態で言霊を発すれば地球へ飛べる! その言霊は……」
ツクヨミの指示通りに言霊を発すると、ニケとカリストの器たちと同様、レインとピーコックも光の粒に姿を変え、天に上るようにその姿を消した。
あとに残された神々は、いつの間にか眠りについていた玄武を連れて全力で逃げた。ザラキエル曰く、「生まれてはじめて地面を走った。ゴリラとイノシシが嫌いになった」とのことだが、彼がその感想を述べるのはこの数日後、遅れてやってきた筋肉痛に苦しみながらのことである。




