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そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,07 / Chapter 07 〉

 玄武はこれまでの十倍以上のシロアリを発生させ、すぐにマルコとの接続を切った。代わりに顕現したサラは再び竜の姿を取り、エントランスホールに大量の水を出現させる。

 シロアリが混ざった水から身を守るため、全員、マルコにピタリとくっついて結界内に納まった。正直な話、サラと玄武にこの技を使わせたマルコ本人すら蒼褪めているような有り様だ。数十万匹のシロアリは、敵にも味方にも等しくダメージを与える捨て身の攻撃であると言えた。

「サラ! 水を消してください!」

 竜の嘶きで、ホール中に満たされた水は一瞬で消滅した。その瞬間にサマエルはピーコックの体を抱え、空中に飛び上がる。

 十二枚の光の翼。サマエルが放つ深紅の光は燃え盛る炎にも、体内を巡る血の色にも似ていた。本能的な恐怖を呼び起こすその光に、マルコたちは本人も自覚しないまま体を強張らせる。

 その反応を横目で見て、サマエルはわずかに表情を曇らせた。

 創造主への忠誠を試す『神の毒』。彼女の前では、どんな生き物も自分を偽ることが出来ない。それが誰かを陥れるための嘘ではなく、強く生きるため、自らを励ますためについた嘘であったとしてもだ。

 ありのままの心をさらけ出すことは、己の最も弱い部分を直接攻撃される可能性があるということ。サマエルにその気がなくとも、どんな生き物も防衛本能から警戒心をあらわにする。

 自身の存在それ自体を畏れている相手と、対等な友となることは出来ない。かつてのサマエルには、ザラキエル以外に友と呼べる相手はいなかった。バンデットヴァイパーとして新たな『役割』を与えられた今も、やはり以前と同じままだ。自分はこのまま、人間たちに受け入れられない存在であり続けるのだろう。

 そう思ったサマエルだが――。

「サマエルちゃ~ん? 大丈夫? 俺、結構重くな~い?」

 ベルトを掴んでぶら下げている猫耳中年男は、何の警戒心もなく、いつも通りの口調でそう言った。

「……怖くないのか?」

「え? 何が? 俺、別に高所恐怖症じゃないけど?」

 嘘はついていない。というより、サマエルに対して嘘をつける生物は存在しない。つまりこの男は何一つ心を偽ることなく、本心からサマエルを心配して声を掛けたことになるが――。

(なぜだ? なぜ、この男は私を畏れない? 私がこの男の右腕と一体化しているせいか? しかし、それにしても……?)

 わけが分からなかった。自分の能力が以前より衰えているのか、創り直される際に仕様が変更されたのか。

 ともかく、サマエルは計画通り出入り口の真上で待機する。そして待つこと三十秒。ボスウェリアは自分の根に何が付着しているか気付き、発狂した。予想通り、すべての根が同時に、四方八方に振り回されている。人間と同じような思考は持たないが、植物は植物なりに、シロアリの襲来にパニックを起こしているのだ。

 地下へと続く階段。その出入り口を塞いでいた根が動いた瞬間、巨大なオニプレートトカゲが大口を開けて飛び出してきた。先ほどと同じく、前脚を掛けて無理矢理出入り口を抜けようとしている。

「今だ! ゴミクズ!」

「その呼び名で定着なの⁉」

 ショックを受けつつも、ピーコックは呪符をばらまく。

 十枚の呪符のうち、三枚は振り回される根によって弾き飛ばされてしまった。しかし残る七枚は、おおよそ狙い通りの場所に落下した。

「よし! 発動!」

 ピーコックがそう言うと、呪符は一瞬で潤滑ジェルに変化する。トカゲの表皮と出入り口のフレームの間に入り込み、抜けそうで抜けないトカゲの体をぬるりと滑り出させ――。

「落とすぞ!」

「オッケィ!」

 サマエルはピーコックの体を出入り口へと放り込む。そして自分は、直後にふっと姿を消した。実体化を解けば、彼女はピーコックの右腕に戻るのだ。ピーコック本人さえ無事ならば、寄生型武器のバンデットヴァイパーはいくらでも体を再構築できる。

 他の神と違い、二人はあまり離れることが出来ない。その代わり、他の神にはできない連携が可能である。そう、例えば――。

「正面から何か来る! 上を抜けるぞ!」

 バンデットヴァイパーはぐっと体を伸ばし、進行方向の天井に設置された配管に巻き付く。そしてピーコックが踏み切った瞬間、一気に体を縮めて前方に存在する『何か』を跳び越えた。

 それは振り向くこともなく、ピーコックの足元を走り抜けて行ったのだが――。

「なんだ、今の⁉」

「闇の気配はあったが……神ではなさそうだったな。元からここにいた何らかの生物が、神々の放つ『闇』の影響でモンスター化したのかもしれない」

「もともといた生物って……」

 旧本部の地下にいる生物なんて、ゴキブリとゲジとワラジムシ程度しか思い浮かばない。その中で最も可能性が高いのは、おそらくワラジムシだろう。ゴキブリが巨大化したならばあんなに鈍間ではないはずだし、ゲジならばもっと長い。

「ん~……三枚しかないから、本当は温存しときたいんだけど……」

 先ほど水没させた影響で、地下の照明はすべて消えている。目視で確認できない以上推測の域を出ないが、あれがワラジムシだとしたら、一匹しかいないということは絶対にありえなかった。

 ピーコックは《照明弾》の呪符を取り出し、発動させる。

 その瞬間、二人は絶叫した。


 これから進もうとしている方角は、巨大な虫でギュウギュウ詰めだった。


 ゴキブリもワラジムシもゲジもコオロギも、名も知らぬその他様々な虫たちも、いずれも巨大化し、黒い霧を放ちながら手当たり次第に他の個体を食い散らかしている。

 共食いなんて言葉で表現しきれる状況ではない。ワラジムシに襲い掛かったゴキブリの脚には別の虫が噛みついていて、その虫も既に体が半分なくなっている。

 噛みついた脚を引きちぎろうと体を大きく動かせば、振り回された虫の腹部から別の、もっと小さな虫がボロボロとこぼれ出し、また別の虫に取りついて腹を食い破って中へ中へと潜り込み――。

 チラリと振り向いて後ろを見れば、自分たちが跳び越えたのは確かに巨大なワラジムシだった。しかしその体中にびっしりと、人間の握りこぶし大に巨大化したダニが付着している。ワラジムシはダニに食い荒らされ、早く動こうにも動けない状態だったようだ。

 ピーコックは、いまさらながら息を殺し、できるだけ動かないようにした。

 このまま虫同士で食らい合っていてくれればいいが、もしもこの虫たちが、すべて同時に自分たちに興味を持ってしまったら――。

「……ヘビ子さん? さっき木の化け物に使ったやつ、もう一発撃てる?」

「ああ……天使の姿に戻れば、百発でも二百発でも撃てるが……」

「それじゃあ、多いほうは……」

「いいだろう。貴様は後ろのあれを……」

「了解。行くよ、サマエルちゃん!」

 名前を呼ばれ、バンデットヴァイパーは再び天使サマエルの姿に変化した。

「天の火よ! 罪悪の都を粛清せよ! 《メギドフレイム》!」

「《火炎弾》!」

 ピーコックは知る由もないが、サマエルの攻撃力は全天使の中でもトップクラスである。その力は天使長ミカエルやその兄ルシファーにも匹敵する。つまりサマエルの技は、このように狭い場所で、害虫駆除に用いるようなものではないということであり――。

「うおおおぉぉぉーうっ⁉ ちょ……ナニコレどうなってんのぉぉぉーっ⁉」

 廊下を埋め尽くす断罪の火焔。それは通常の炎と異なり、直接触れても熱を感じない。深紅の光に包まれた瞬間、その者の罪に応じた『余命』を焼き消されてしまうのだ。

 本能に従って生きる虫たちに罪はない。虫たちは焼き殺されることなく、その身に巣食った『闇』の部分だけが焼き清められてゆく。

 闇の力を失い、次々に動きを止める虫たち。どの虫も、無理な巨大化と食らい合いで既に致命的なダメージを負っていた。サマエルが止めを刺すまでもなく、もはや息のある者はいない。

「……あの、サマエルちゃん?」

 ワラジムシとダニを炭化させたピーコックは、サマエルのほうを振り向き、目を細めて言った。

「もしかして天使の炎って、死骸の処理までは……?」

 そう、虫たちは動きを止めたが、その場に死骸は残されたままだ。先に進むには巨大なゴキブリやゲジの死骸を、手作業で撤去せねばならない。

「……さ、作業用ゴーレムの呪符くらい持っているだろう! さっさと使え!」

 ばつが悪そうに目を逸らすサマエルに、ピーコックは特に何かを言うこともない。唇の端をちょっと引き上げ、軽く肩をすくめてみせるのみだ。

 寄生型武器だからか、たったそれだけで、サマエルにはピーコックの言いたいことが伝わった。


 ごめんね。いや、責めてるわけじゃなくてさ。聞き方悪かったかな?


 言葉が聞こえたわけではない。ただ、そんな気持ちが流れ込んできたのだ。

 寄生型武器バンデットヴァイパー。宿主の脳と神経接続されたそれは、自分の四肢同様に自在に操作できるものである。ピーコックはバンデットヴァイパーを自分の右手として使用し、ごく普通に日常生活を送っている。

 サマエルは堕天した後、創造主の計らいでバンデットヴァイパーの中に宿された。だから彼女は、ずっとこう思っていた。


 今の自分は寄生型武器。

 宿主の心を読み、行動する。

 宿主と連携して動けるのは当たり前。


 しかし、今の一瞬で理解した。

 連携がうまくいっているのは、自分が相手に合わせているからではない。相手もまた、こちらの心を読んで呼吸を合わせているからだ。

 ピーコックが自分を畏れない理由。それが分かった瞬間、サマエルは茹蛸のように赤面した。自分は創造主への忠誠を試す『神の毒』。何人たりとも己を偽ることを許さない、絶対的な存在。誰もが自分を畏れ、近付くことを避け――それは変わっていない。変わった項目はただ一つ。

 自分自身も宿主に対し、気持ちを偽れなくなったということ。

(まさか……まさか、まさか、まさか! こいつ、はじめから私の心を、なにもかも……⁉)

 バッと振り向くと、ピーコックはこちらに背を向けていた。作業用ゴーレムに死骸を撤去させながら、サマエルのほうを見もせずに、あっさり答えを示してみせる。

 左手を顔の高さに掲げてヒラヒラ振っているのは、残らず投げたはずの潤滑液の呪符である。幻術で十枚すべて投げたように見せかけて、実は初めから、必要最小枚数の七枚しか投げていなかったようだ。

 サマエルは創造主に祈った。

 このスケベ中年の股間に裁きの雷を直撃させてください、と。




 地下二階の戦場は二つに分かれていた。一つはザラキエルとヘファイストスがいる最奥の地下牢。もう一つは隔壁の手前側、水没している長い廊下部分。廊下から各部屋への扉は物理的にも魔法学的にも厳重にロックされているため、戦場は変えようがない。

 幅二メートル、高さ三メートル、長さは五十メートル。水没し、照明は落ちている。狭くて長い真っ暗な戦場に、この場にそぐわない能力の神々が七柱。

 ゴリラは廊下の大きさギリギリの巨体で、そもそもろくに身動きが取れていない。ライオンは通常の動物サイズだが、ゴリラが邪魔で前には出てこられない。ミサゴは小柄な体格ながら、天井まで完全に水没したこの場所では自由に羽ばたくことも、急降下攻撃を仕掛けることも出来ない。彼らは今、闇の波動のみで攻撃を仕掛けている。

 対するツクヨミはツキノワグマの着ぐるみが水を吸い、超スローモーション。ルキナは泥酔状態で千鳥足。ヤム・カァシュはルキナのフォローで手いっぱい。唯一まともに動ける海パン姿のコニラヤは、初めて見るゴリラに恐れおののき、最後尾でガクガク震えている。

「あわわわわ~! な、なな、なんですかあの生き物! ウホウホ言ってます! なんかウホウホ言ってますよぉ~!」

「だからゴリラだって言ってるでねぇか! ただの猿のデカいヤツ! おめえさんも、もっとちゃんと防壁張らんと!」

「は、ははは、はいぃ~……」

「ウッホォーッ!」

「ひあああぁぁぁ~! やっぱり怖いですぅ~!」

「オラを盾にすんでねえーっ! ああっ! ルキナ姐さん⁉ 寝たらなんねえです! 姐さんだけが頼りなんですからに! しっかり……しっかりなさって下さらんとぉーっ! お願いですからにーっ!」

 ツクヨミが張った防壁は、ゴリラの力ずくの突進で押し戻されている。五十メートルの直線廊下を、既にずるずると三十メートルほど。ゴリラの足元からライオン、肩のあたりからミサゴが援護射撃を入れているため、ゴリラだけを集中的に攻撃することが難しいのだ。

 ルキナが万全な状態ならば、この状況でも問題なく攻撃を当てられただろうが――。

「わ~た~し~ね~む~い~。も~、ね~る~」

「寝たらなんねえです! 寝たらなんねえんですってば!」

「うっさ~い。眠いモンはぁ、眠い…の…よぉ~……スヤァ~……」

「あああぁぁぁーっ! 姐さぁーんっ!」

 ルキナ、脱落。これにより、こちらはいよいよ攻撃手段を失った。一人で防壁を維持し続けているツクヨミは、もう言葉を発する余裕もない。

 コニラヤも、彼なりに努力していつもの青い蝶を吐き出しているのだが――。

(だめだ……やはり水の中では、僕の蝶は溶けてしまう……)

 命を生み出せる神は『創世神』と呼ばれ、その他の『守護神』より神格は上とされている。コニラヤ自身、自己の能力は把握している。しかし彼の能力は万能ではないのだ。彼の能力はあくまでも、文明発展の立ち遅れた南米大陸で手っ取り早く人と植物を進化させるためのもの。条件付きで付加された生命創造の能力は、使用に厳しい制限がある。

 まず、玄武のように完全に何もないところから命を生み出すことは出来ない。コニラヤはあらかじめそこにある生命を『進化』させる神なのである。

 次にその能力は、必ず青い蝶を介して発動する。蝶は口から吐き出され、水には溶ける。それは進化の力を与えるために必要な『体内に浸透する作用』なのだが、このように完全に水没した状況下では、吐き出した瞬間に溶けて消えてしまう。水中で生物を進化させるには、対象となる生物に口移しで直接蝶を送り込むしかない。

 コニラヤは異界送りにされてから、自分の体の一部からシーデビルを創った。シーデビルに口移しで青い蝶を与え、進化を促し、なんにでも変化できる体と知能を与えた。

 つまりコニラヤが力を発揮するには、この場に『進化の余地のある生き物』が存在する必要がある。

(サラの水には何の生き物もいない……もともと地下にいた昆虫たちは、この水で溺死してしまっただろうし……また僕の体を分けて……いや、でも、今から創ったって全然間に合わないし……ぼ、僕は……どうしたらいいんだ……⁉)

 神ばかりが何柱いても何もできない。それが『条件付きの創世神』だ。

 大混乱のコニラヤと、寝落ちしたルキナ、防御も攻撃もできないヤム・カァシュ、もはや限界に近いツクヨミ。まさに絶体絶命のこの状況に、それは救世主の如く現れた。

「うわっ⁉」

「な、なんだべ⁉」

「い、今何かが横を……⁉」

 ルキナの蛍が消えた今、地下二階にはわずかな光も存在しない。その漆黒の闇の中、神々の耳元をかすめるように何かが飛んでいく。

 立て続けに五発。数秒の間を置いて、再び五発。

 大半は外れたようだが、一発か二発は当たったのだろう。ゴリラがこれまでとは異なる声を上げ、わずかに退いた。

 コニラヤとヤム・カァシュが振り向くと、彼らの後ろに一体の戦闘用ゴーレムが接近していた。『神の眼』によって暗闇でもその姿は視認できるが、恐ろしいことに、気配は一切感じない。神々にも感知されないほどの幻術。そんな桁外れな技術を持つ人間は、あの男を置いて他にいない。

「やあ、カミサマたち? 元気してます?」

 ゴーレムの頭にくくり付けられた通信機から、ピーコックの声が響く。

「このゴーレムは陸戦用なんで、水中で使える武器がボウガンしかありません。ぶっちゃけ、戦力としては考えないでください。こいつを盾代わりにして、ちょっとずつ後退してもらえますか? そこ、完全水没してて俺が呼吸できないんで。加勢したくても出来ないんですよ」

 この水の中でも問題なく使える通信機の性能に感心しながら、ヤム・カァシュはルキナを背負い、戦場を離脱する。続いてコニラヤとツクヨミが少々強めに防壁を張り、自分たちが脱出するまでの時間を稼ぐ。

 地下一階に上がって少し移動したところで、ツクヨミが倒れた。力を使い果たして動けないツクヨミは、寝落ちしたルキナと共にこの場で回復を待つことになった。二人の傍にはヤム・カァシュがつき、彼らを守るようにピーコック、サマエル、コニラヤが立つ。

「サマエルちゃん? この音、闇落ちがゴーレムに体当たりしてる音?」

「ああ、ゴリラの神がな」

「ゴリラの神なんかいるんだ……」

「地球にはなんでもいるぞ。フンコロガシだって神になる世界だ」

「マジ? その話ものすごく気になるから、後で詳しく聞かせてもらっていい?」

「ああ、あとでゆっくり話そう。今はそれどころでは……来るぞ! 構えろ!」

 サマエルが言うと同時に、体に響くドンという爆発が。その直後階段を駆け上ってきたのは、意外にもゴリラではなかった。

「こちらが先か!」

 全身が闇色に染まった漆黒のライオン。それは四つ足の動物特有のしなやかな動きで、駆け上がってきた勢いそのままに壁を蹴って方向転換した。まったく速度を落とすことなく一瞬で肉薄し、攻撃モーションに入る。

 サマエルは動じることなく、その場でライオンを迎え撃つ。

「あるべき道を外れた者よ、父なる神の裁きを受けよ! 《ジャッジメント》!」

 十二枚の翼のうち、二枚が光の剣に変わる。なぜ二枚なのか、説明は要らない。ピーコックは自分でも不思議に思うほど自然な動きで、そのうちの一振りを掴んでいた。

 右からサマエルが、左からピーコックが。二人は完璧な連携でライオンに斬りかかる。

 左右から同時に繰り出された斬撃に、ライオンは回避も防御もできなかった。深紅の刃はライオンの顔から尻までを綺麗に切り裂き、その命を奪った――はずなのだが。

「あっれぇ~っ⁉」

 手ごたえのおかしさに、ピーコックは素っ頓狂な声を上げる。


 刃が当たっていないのだ。


 確かにライオンの皮膚を突き破り、その肉を切り裂いたと思った。剣は絶対に外すはずのない軌道で振り抜かれていた。それなのに、何も切れていない。斬ったピーコック同様、斬られたライオンのほうもポカンとした顔で、ピクリとも動かずその場に立っている。

「え、あの、これ……サマエルちゃん⁉ この剣本当に大丈夫⁉」

 困惑するピーコックに、サマエルは胸を張って宣言する。

「案ずるな。この者の魂は今、一時的に主の元に送られている。今は主がこの者の生きざまとその所業をお調べになり、この先を生きるに値するかどうかをお決めになっておられる。生きることを許されれば意識は戻るし、そうでなければこのまま死ぬ」

「ってことは今、審判の判定待ちみたいなモノ……? それって、どのくらいかかるの?」

「分からない。生きるに値すると判断されても、その罪の重さだけ、余命や能力が差し引かれる。そのための作業時間も多少はあるから……」

「人生丸ごとビデオ判定されてる時点で、滅茶苦茶時間かかりそうなんだけど?」

「人間と一緒にするな。主は物理的制約の中で録画映像を再生しているわけではない。そう長く待たされることは……」

 そう言っている最中に、創造主の判定及びペナルティ処理は終了したらしい。緊迫感の無い『ぽわわわ~ん』という音と共に、ライオンの姿が消えた。代わりにそこには、生まれたばかりの子ライオンが出現している。全身が真っ黒な毛に覆われているが、その気配は闇堕ちでも神でもなく、何の変哲もないただの動物である。

 ミィミィ泣いている子ライオンを、サマエルは指先でひょいとつまみ上げた。

「ふりだしに戻る、か。良かったな、ちびすけ。存在抹消よりはずっと軽い処罰だぞ。コニラヤ、預かっていろ」

「あ、は、はいぃ~!」

 ポイと放り投げられた子ライオンをあたふたとキャッチし、コニラヤはハッとした。

 これは何の変哲もない、ごく普通の生き物だ。この子ライオンに自分が力を与えれば、新たな生命体に進化させられる。そうすれば、あのウホウホ言っている化け物とも戦えるかもしれない。

(あ、でも、あの二人がいれば残りの二体も倒せるだろうし……僕が何かしなくても……)

 しかし、何もしなかったらレインはどう思うだろうか。自分と同じ顔の『器』を思い出し、コニラヤは逡巡する。

(たぶん、レインは怒って……いや、怒るんじゃなくて……失望? そう、失望するよ。しないわけがない。僕は神なのに、なんの役にも立たないから……。でも……)

 コニラヤはピーコックとサマエルを見た。彼らは強い。戦闘能力を有する天使と、神をも欺く幻術の使い手だ。自分よりずっと戦い慣れているし、二人の息もぴったりである。自分のような『ド素人』が思いつきだけで手を出せば、せっかくうまく連携している二人を邪魔してしまうかもしれない。

 けれども、何もせず傍観しているというのも、何か違う気がする。頑張れと応援することも、ヤム・カァシュのように補給を担当することも、どちらも自分の役割ではないような気がして――。

(ああ、もう、本当に……僕は、どうしたら……?)

 コニラヤが迷い、動けずにいる間も、ピーコックとサマエルは階段のほうに近付き、地下二階の様子を窺っている。

「あれ? ゴリラ、全然出てこないねぇ? サマエルちゃん、下の階見えてる? どんな感じ?」

「戦闘用ゴーレムを破壊したあと、その場で動かなくなってしまった。肩に乗った鳥が何か言っているようだが、私には聞き取れない。二体とも、おそらくある程度の知能が残っているな。こちらの反応を見るために、ライオンだけを行かせたようだ。奴ら、自分たちに有利な場所で待ち構える気だぞ」

「ただの動物じゃないワケかぁ……」

「下の階を排水するには何分かかる?」

「サラなら一瞬、旧本部のオンボロ排水ポンプなら丸三日」

「極端だな。だが、ゴリラを倒すために水を抜くと……」

「ヘファイストスの炎で大火事でしょ? この辺も、またかなり気温上がってきちゃったし……」

 そう言いながら、ピーコックは上着のボタンを外す。下階の最奥で火災が発生している影響で、いったん低下した地下一階の気温は再び上昇していた。体感としてはサウナの温度設定と同じくらいだろうか。生身の人間が、こんな高温多湿の環境に長居できるはずがない。

「大丈夫か?」

「ん。まだなんとか、ね……」

 サマエルにはこの言葉が嘘だと分かる。二人の思考回路は別個のもの。互いの脳内を直接覗き見ているわけでなく、心で相手を感じている。漠然とした感情の起伏や切り替えのタイミングを察知し、互いのリズムを合わせているのだ。

 だからサマエルには、ピーコックが無理をしていることが手に取るようにわかった。実際にはもう限界に近いのに、それを口にすまいと、必死に耐えている。


 自分以外に、この役目を果たせる人間がいないのなら。


 ピーコックの中にあるのは、そんな使命感と情報部エースの意地だった。

 宿主が覚悟を決めているのなら、寄生型武器も、それに応えて見せねばなるまい。

「……よし、私が一人で行こう。蛇のときと違い、天使の姿でなら、ある程度までは離れていられる。それでも貴様の右腕である以上、どこまでいけるかは分からないが……」

「気を付けて」

「ああ……」

 サマエルは一人で階段を下りて行こうとする。それを見て、コニラヤは咄嗟に言っていた。

「ひ、一人で行くなんて駄目ですよ! 僕も行きます!」

「……コニラヤ?」

 驚いた顔のサマエルは、言葉には出さず、目だけで尋ねていた。「貴様は何かの役に立つのか?」と。

 そんな目を向けられて黙っていたら、それこそカミサマ失格である。

「ぼ、僕だって、戦えます……たぶん……いえ、絶対に!」

 レインの顔を思い浮かべながら、コニラヤは自分自身を鼓舞するように言った。

「僕は今、もう二度と逃げないって決めたんです! だから……」

 コニラヤは蝶を創り出す。

 口からザラリと溢れ出す数千頭の蝶。その蝶は子ライオンと、それを抱くコニラヤ自身を包み込んでゆく。

「僕は、僕自身のことをすっかり忘れていました。僕から分けた、たったひとかけらの肉片がシーデビルにまで進化できるのなら……僕が! 僕自身が! 進化の余地が、ないはず無いんです!」

 青い蝶によって、コニラヤの体が作り変えられていく。

 月神コニラヤ・ヴィラコチャ。インカの神として文明の誕生、発展、繁栄と衰退、滅亡の歴史を目の当たりにし、最後にただ一人生き残った悲劇の神。その神が今、自分自身を、まったく別の神へと作り変えようとしている。

「なん……だ? 何が起こっている……?」

 青い蝶がコニラヤ自身の口から生み出され、体に吸収される。その瞬間にコニラヤの体は別の生物の姿に変わるのだが、その状態でまた蝶を生み出し、吸収し、すぐに別の生物へと姿を変えてしまう。魚、カエル、トカゲ、ヘビ、甲虫、蜘蛛、サソリ、ムカデ、猿、犬、鳥、牛、ワニ――ほんの数十秒の間に、一体どれだけの変異を遂げるのだろうか。恐るべき超高速トランスフォームに、さすがのサマエルも、呆然と見守るよりほかにない。

 一分もしないうちに、コニラヤは己が知り得るすべての動物に変身し、その中で今の状況に最もふさわしい獣の姿を選び終えていた。

 足はカエル。脚力があり、壁を蹴ることも水を掻くことも可能だ。

 体は鋭い棘に覆われたヤマアラシ。甲羅に覆われた亀や甲殻類より、より攻撃的な防御をおこなえる。

 両腕はシャコ。瞬間的に繰り出されるパンチは非常に強力で、その速度は霊長類には視認不能である。

 そしてなんと言っても、最大のインパクトは頭部だった。

 ワニのような口、蜘蛛のような八つの眼、髪はタコ、イカ、オウムガイ、イソギンチャクなど、ありとあらゆる種類の触手に変化している。

「僕が先に行きます! 援護をお願いします!」

「あ、ああ……」

 どこからどう見てもラスボス級の凶悪クリーチャーなのに、クリアボイスで人語を発する。たったそれだけのことに衝撃を受け、サマエルとピーコックは揃って棒立ちになった。

 地下二階へ降りてゆくコニラヤの後ろに、元の大きさと同程度に成長したライオンが続く。

 ほんの一瞬のことではあったが、サマエルは確かに見た。ライオンの鬣の後ろに、魚の胸鰭のようなものがあった。四肢は鎧のような硬い鱗に覆われ、背中には鳥の翼、尾の先端にはサソリの毒針。

 コニラヤは創造主によって『ただの動物』に戻された個体を、ほんの数十秒で、それも自分自身を作り変える片手間に『神獣』にまで昇格させてしまったらしい。

「……サマエルちゃん、どうしよう。コニラヤが想定外すぎる……」

「ああ……たかだかゴリラ相手に、あそこまで気合を入れなくともよかろうに……」

「よっぽど怖かったんだろうねぇ、ゴリラ……」

「貴様のほうが百倍は恐ろしいぞと教えてやりたいな……」

 サマエルは決して口にしないが、その横顔を見てピーコックは察した。


『え? あの化け物と一緒に、こんな不潔な溜まり水に潜るの? 本当に? マジで最悪なんですけど? あいつなんか変な汁とか分泌してそうじゃない? ゴリラだけのほうが百万倍マシだったよね……?』


 女子の本音も見抜けないほど青くない。ピーコックは『おじさん力』を最大限発揮して、サマエルの尻をそっと撫でまわす。

「大丈夫だよ、サマエルちゃん♡ 全部終わったら、俺が一緒にお風呂に入ってあげるからね♡ サマエルちゃんを上から下まで、全身きれいに洗ってあげ…」

「死ね! ゴミクズ!」

 サマエルはピーコックの頬に強烈な平手打ちを炸裂させ、キレた勢いで水に飛び込んだ。

「行ってらっしゃ~い♪ ……ッテェ~……んも~、本気で叩くことないじゃ~ん……」

 廊下に残されたピーコックは、サマエルの姿が見えなくなった途端に崩れるように座り込んでしまった。

「あ! ピーコックさん! 大丈夫ですかや~⁉」

 ルキナを介抱中のヤム・カァシュに声を掛けられ、ピーコックは力なく手を振って見せる。

「あ~、情けね。俺からは見えてなくても、あっちからは普通に俺のこと見えてんだよね~?」

「ああ、はい、それはそうですだよ~。天使さんも、オラたつと同じ『神の眼』をお持ちですからに~」

「もうちょっと格好つけてたかったんだけどなぁ~。あ~、クソあち……」

 とっくに人間の活動限界を超えている。ピーコックはヤム・カァシュに担ぎ上げられ、まだ比較的涼しい場所へと運ばれた。




 コニラヤの攻撃は圧倒的で、一方的だった。

 ゴリラもミサゴも、戦うべき敵はサマエル一人と判断したからこそ地下二階の水没エリアに留まったのだ。まさかこんな超ハイスペックモンスターが現れるとは思っていない。

 コニラヤはカエルの脚で水を掻き、急加速でゴリラに迫る。動物的本能をそのままの形で残しているゴリラは、反射的に体の前方に両腕を突き出し、この『突進』を止めようとした。

 しかし、カエルの泳ぎは魚と違う。ゴリラの手に触れる一瞬前、コニラヤはもう一度水を掻く。

 人間が平泳ぎをする時と同じである。太腿を進行方向側に引き上げてから後方に蹴り出す動作は、引き上げた瞬間、遊泳速度が極度に遅くなる。もちろん、遅くならないようにうまく泳ぐテクニックはいくらでもある。だが、コニラヤはあえて水の抵抗が大きくなるように足を引き上げた。

 アタックが来ると思ったそのタイミングから、コンマ五秒遅れての衝撃。突き出した腕の筋肉が最高の状態で衝撃を受け止められるのは、突き出したその瞬間だけなのだ。どれだけ強靭な筋肉を持とうとも、わずかにタイミングをずらされただけでその力は半減してしまう。

 ワニの鼻先で引っ掛けるようにガードを跳ね上げ、無防備になった顎下へ右ストレート。後方にのけぞるゴリラの首にダイオウイカの触手を伸ばし、こちらに引き戻しながら鼻への左ストレート。素早く身を屈め、前方に一回転しながらゴリラの胸と腹にヤマアラシの棘をお見舞いする。

 このまま猛攻に持ち込みたいところだが、ゴリラの後ろにはミサゴがいる。コニラヤは一旦触手を離し、ゴリラの膝を蹴りつけて距離を取る。

 案の定、ゴリラの背後からミサゴが顔を出し、闇の波動を放ってきた。

 コニラヤは月神。闇属性の神であるため、多少は耐性がある。しかし、直撃を続ければ半闇堕ち状態に陥り、知能指数が極端に低い状態に戻ってしまう。そうなってしまえば、どれだけ強い体を持っていても意味がない。効果的な戦い方も分からず、ゴリラの腕力で一方的に殴りつけられるだけだ。

 ミサゴの放つ波動を魔法障壁で防御しつつ、再接近のチャンスを窺う。

(暗いな……最初に見たときはちゃんと見えていたのに、今はよく分からない。やっぱり瘴気の中では、闇堕ち状態のほうが目が利くのか……?)

 ミサゴの波動は正確にコニラヤの急所に飛んでくる。つまり、現状では相手側が有利ということだ。この状況を何とかしないことには、後ろに控えるサマエルとライオンを戦わせるわけにはいかない。

「サマエルさん! なにか光を出せませんか⁉ ここは視界が効かないんです!」

 コニラヤの要請に応えて、サマエルは自分の力を翼に集中する。赤い翼はキラキラと発光するが、そもそも照明代わりに使えるものではない。小刻みに明滅する光は、確かに闇を照らしている。しかし、常に動き続ける物体の形状や距離を視認するには不向きな光り方であると言えた。

 コマ送りの映像のような、ノイズだらけの古いフィルム映画のような――こんな細切れにされた視覚情報では、攻撃モーションの連続性が認識しづらくなるばかりだ。

(……チッ。私の翼の光では……)

 サマエルは一旦光を消し、コニラヤに言う。

「すまない、私の光ではこの闇を照らすことは難しいようだ!」

 それなら仕方がないと、コニラヤが答えようとしたときである。コニラヤの足元からピーコックの声がした。

「はあ~い、カミサマたち~? もしかしてお困りかなぁ~? そういうときには是非とも人間を頼ってもらお~う! さあ言ってみよう! 『きゃ~、助けてピーコックぅ~♡』と!」

「えっ⁉ どこから……」

「さっきのゴーレムか!」

 ゴーレムは破壊されたが、頭にくくり付けた通信機は生きていたらしい。ピーコックはふざけた口調で言う。

「ほらほら早くぅ~♪ サマエルちゃぁ~ん♡」

「何か手があるのならさっさと使え! このゴミクズ!」

「はい駄目~。ちょっとちょっとサマエルちゃ~ん? 人に何かをお願いするときは、もっとそれらしい態度でさぁ~?」

「くっ……貴様! この状況で何をふざけて……」

「いや、ふざけて無いんだわ。発動呪文なの。『きゃ~、助けてピーコックぅ~♡』っていうのが」

「何? 何の発動呪文だ?」

「言ってみればわかるよん♪」

「ゴミクズめ……何の役にも立たなかったら、その首をへし折ってやるからな!」

 サマエルは覚悟を決めて、渋々、その言葉を口にする。

「き……きゃー、たすけてピーコック……」

 呪符にとって、術者の心理状態の良し悪しは発動に何ら影響を及ぼさない。発動呪文を感知した呪符はあらかじめ組み込まれたプログラム通りの効果を発揮した。

 地下二階に、真昼の太陽にも匹敵するほどの光源が発生する。

「な……なにが……⁉」

 誰より驚いたのはサマエルだ。《照明弾》と呼ばれるこの呪符が発動している場所は、サマエルの尻なのだ。まるで夜会用ドレスのように着付けた漆黒のローブの、腰の飾り紐。そこに挟み込むように二枚の呪符が取り付けられている。

 発光しているのは一枚だけ。もう一枚には、また別の『恥ずかしい発動呪文』が設定されているのだろう。

「……あのときか……」

 サマエルの尻を撫でまわしながら、ピーコックはさりげなく役に立ちそうなアイテムを持たせてくれたようなのだが――。

「おい、こら、このスケベ中年! もっとマシな渡し方はないのか!」

「いやいや、おっぱいの谷間に手を突っ込むのは、さすがに失礼かと思ったんだよねぇ?」

「尻を撫でまわすのは失礼ではないと主張する気か?」

「ほら、地球とこっちとじゃあ、そのへん、ちょこっと文化が違うから……」

「嘘はつかないほうがいいぞ?」

 サマエルがそう言っている間に、通信機の向こうからピーコックの「ふぎゃっ!」という悲鳴が響く。

 サマエルに対してあからさまな嘘を吐くと、創造主からの天罰が下る。気絶しない程度の電気ショックのようなものだが、それなりのダメージは受けるのだ。

「悔い改めよ」

「うう……彼女のパパに監視されっぱなしの男女交際なんて、幼稚園児かよ……」

 この発言に、このゴミクズは幼少期からずっとこんな調子だったのかとあきれるサマエルである。

 何はともあれ、光源は確保できた。今、この廊下は屋外と同程度の明るさになっている。闇堕ち二体は光を嫌い、闇の波動を連射しながらじりじりと後退し始めた。

 それを攻め立てるコニラヤの動きは、これまで以上に俊敏だった。

 自分の後ろに控えさせていたライオンに手負いのゴリラの相手をさせ、自分はゴリラの隙をつき、顔の横の隙間を抜ける。コニラヤの敵はゴリラの後ろに隠れたミサゴだ。ミサゴはノーダメージのまま、仲間を盾代わりに使い続けている。ゴリラに何かを指示していたことから見ても、この神は闇堕ちになっても知能や知性を失っていない。おそらく、この場で最も手ごわい相手であろう。

 壁面を蹴ってミサゴに飛び掛かり、まずは様子見のつもりで触手を伸ばすのだが――。

「なにっ⁉」

 触手が斬られた。

 ミサゴは武器も技も使っていない。それなのに、ミサゴに触れる瞬間に触手の先端が切断されたのだ。

 コニラヤは水を蹴って方向転換し、ミサゴと距離を置く。

 水中戦に適さないミサゴは、水中では歩くことも泳ぐこともままならないらしい。ゴリラの肩から降りた今、なんとも中途半端に、水中にゆらゆら浮かんでいるだけだ。

 何もできない無力な動物。その姿を見る限り、そうとしか思えないのだが――。

(なんだ? 今のは『攻撃型の防御結界』だよな……? この神、なにか違うぞ? 他の神は動物が神格化したもので間違いなさそうだが、これは……?)

 十分な距離を置いて、両者は睨み合う。

 この瞬間にコニラヤは気付いた。ミサゴの右目は、白目と黒目の区別がはっきりしている。闇の色に染まっているのは左目だけなのだ。

 この神は完全に堕ちてはいない。今ならまだ十分救えるだろう。

「ぼ……僕の名前はコニラヤ! 月神コニラヤ・ヴィラコチャという者だ! 貴殿の名をお教え願いたい!」

 ミサゴはコニラヤの姿を凝視し、何かを考えるように沈黙した後、重々しく口を開いた。

「……天空神ハロエリス……」

「ハロエリス? 天空神ということは、貴殿が司るものは……?」

「我が右目は太陽を、我が左目は月を。そして、我が翼は風を。我は天を渡るすべての者の守護神である」

「光と闇と風⁉ そんなお方が、なぜこちらに……!」

「なぜ、だと? 愚問だな。異界送りにされた其方にならば理解できよう。奴らに信仰の力を奪われ、立ち向かうことすら許されなかった我らの無念が……」

「貴方は、天使と戦ったわけではないのですか?」

「戦ったさ。存在のすべてをかけて戦ったとも。けれど、創造主はその戦いの最中に我を異界へと送ったのだ。我は、天空神の誇りを掛けて戦っていたというのに……創造主は天使どもの肩を持ったのだ……」

「違います! 主は万物に平等の慈悲をお与えになる! 貴殿は救われたのです! 完全に闇に呑まれる前に新たな大地に移されたのは、貴殿に次の役割をお与えになられるための準備で……」

「そんなものは要らぬ! 我は天空神! 遥か高みより地平を臨む者なり! 幾百もの神、精霊の頂点に立っていた我に……それ以外の、何の役目に就けというのだ⁉」

「……貴殿は、いつまで過去の栄光に囚われているおつもりですか? 僕より、ずっと古い時代の神とお見受けしますが……」

「ああ……そうだとも。我は古の神。誰よりも古く、誰よりも輝かしい『天空神』の名を冠する者だ。それなのに……なぜだ? なぜ、主はいつまで待っても、何のお言葉も授けてくださらぬのだ? 我より後に送られてきた神々は、次々と新たな『役割』を与えられているというのに……我が奴らに劣るというのか⁉ そんなはずはない⁉ つまりはこの世界に、我に相応しき役割など存在しないということだ! だから! 我は地球に帰るのだ! 地球に戻り、再び世界の頂点に輝く! それこそが、我の往くべき道である!」

「ハロエリス! 聴いてください! 地球の人々は、もう無条件に自然を恐れ、信仰する原始人ではありません! 人間は進化しました! 風が吹く理由も、雨が降る理由も科学的に説明できるようになりました! 人々は、以前のように貴殿に祈ることはありません! もう時代は変わったのです!」

「認めぬ! 我を神と崇めぬ文明など認めるものか! そんな文明は滅ぼしてしまえば良い! 人類は我の庇護の下、もう一度はじめからやり直せばよいのだ!」

「神の役目は人々の歩みを支え、見守ることですよ⁉ 滅ぼすだなんて、貴殿は何を……そんな恐ろしい考えは、今すぐ捨て去りなさい!」

「うるさい、小童が! 我に指図するとは不遜極まりない! 滅びよ!」

「うっ⁉」

 ハロエリスが叫んだ瞬間、突如として体が重くなった。コニラヤはこの攻撃を重力操作かなにかと考えたが、次の瞬間にはそうでないと気付く。


 光が奪われている。


 コニラヤの体からも、この空間からも、光がどんどん吸い取られてゆく。光を失えば、その分神々は力を失い――。

「まさか……『天を渡るすべての者の守護神』とは……!」

 そのまさかだった。

 ハロエリスの能力は他の神から光を奪い、代わりに闇を与えること。またその逆に闇を奪い、光を与えることもある。つまりこの神は、体内に光と闇、どちらの力も蓄えることが出来るということだ。

「貴殿は……闇堕ちではないのか⁉」

「闇堕ち? なにを馬鹿な。我にそのような下等な神のシステムが適用されるはずが無かろう?」

「ならば……貴殿が放っていた、あの闇の波動は……」

「言ったはずだ。我は光と闇の両方を司る者。其方等のような下等な神を戒めるため、ときに闇に堕とすこともあった。また、悔い改めた神を救済することもあった。まったく……天使などという不完全なシステムに地球の管理を任せるとは。創造主は何をしておられるのか……」

「そん……な……」

 コニラヤの体からはどんどん力が奪われ、ついには変身状態を保っていられなくなった。体は人間の姿に戻り、髪の色も、目の色も、光を失くした闇色に染まっていく。

 思考に掛かる黒い靄。コニラヤは、自分が再び『半堕ち状態』に戻ったのだと気付いた。

「あ……ぼく、は……そんな。せっかく、レインがよろこんでくれたのに……」

 胸の中一杯に悲しみが溢れる。知能指数が低下したこの状態では、もう何かを考えることは出来なかった。コニラヤはただ、感情だけに支配される。

「いやだ……いやだよ……こんなの、こんなの……」

 コニラヤは幼子のように蹲って、両手で顔を覆って泣き始めてしまった。

「其方は今から、我の随神となるが良い。ザラキエルとかいう小僧を食ろうたおかげで、封じられていた我の力も解放された。我と共に、世界を統べる新たな神族を築こうではないか。其方の創世神としての力は、我の傍にあってこそ輝くものであろう……」

 ろくに身動きも取れないミサゴの姿で、ハロエリスはジタバタとコニラヤに近付く。そしてその足先でコニラヤの髪に触れようとするが――。

「うぐっ⁉」

 ハロエリスの翼にボウガンの矢が突き刺さった。

「クソ! 何を……」

 振り向いた瞬間、ハロエリスの体は鷲掴みにされ、そのまま何度も壁に叩きつけられる。

「ぐ……ぐふ! うぐぁ! ……お、おのれ……! なぜ、この泥人形が……!」

 気配を消して接近していたのは、ピーコックの戦闘用ゴーレムだった。これは先ほど破壊された機体である。しかしハロエリスは、その動きがゴーレムではないことに気付いた。

 ゴーレムのパーツを別の魔法で組み替えて、何者かが甲冑代わりに身に纏っているようだ。

「はいは~い! やあ天空神様? どうも、人間です! さあ、思う存分戦いましょうか!」

「なん……だと⁉ なぜ人間がこの場に……!」

「あっは~? さっきコニーちゃんが言ったじゃないですかぁ~? 進化したんですよん♪ いつまでもウホウホ言ってらんないでしょ~?」

 もちろんこれはハッタリだ。この水没エリアにピーコックは入れない。ピーコックの声は頭部にくくり付けられた通信機から響いているに過ぎない。今このゴーレムの中にいるのはサマエルである。サマエルはピーコックの右腕。ピーコックの魔力で作られたゴーレムの中に収まってしまえば、その気配はピーコック本人と区別がつかなくなる。

「馬鹿な……そんな馬鹿な! 人間が! 人間如きが、我を攻撃しているだと⁉ あり得ん! そんなことは、断じて……」

「ありえちゃうんだなぁ~?」

 ピーコックの声に合わせ、サマエルはハロエリスを持った腕に力を込める。

「う、ぐぅ……うう、う……」

 腕力は戦闘用ゴーレムのアームパーツのまま。これは岩をも粉砕するパワー強化タイプアームである。ミサゴの姿でどれだけもがこうと、この拘束から逃れることは出来ない。

(お、ちょっとした思い付きだったけど、もしかして効いてる? ピヨさんけっこう動揺してない?)

(だが、これからどうする? なにか技を使えば、一瞬でバレてしまうが……)

(大丈夫。ルキナちゃんが復活したから。今そっち行ったよ)

(いや、しかし彼女は酔っていて……)

(リバースしたらすっきりしたみたい! いやぁ、そりゃあもう豪快だったよ! 女神のゲロを目撃した人類なんて、地球でもこっちでも俺くらいなんじゃない⁉)

(豪快……って……)

 酒の飲み過ぎで男たちの前でひっくり返るだけでも問題なのに、その上ダイナミックに嘔吐したというのか。それは神として、いや、女としてどうなんだと、非常に複雑な心境に陥ったサマエルであったが――。

「ヴォォォォーイッ! 私の飲み友に何してくれてんじゃーい!」

 この声を聞いた瞬間に悟った。失恋の自棄酒から酒乱キャラになってしまったルキナは、もう完全に女を捨てているらしい。神々しい黄金の後光を放ちながら空の酒瓶を振りかざし、蟹股で突進してきた。

 ライオンの頭を踏み台に跳び上がり、ゴリラの頭をスパーンと殴りつける。当たり所が悪かったのか、コニラヤの攻撃でもライオンの攻撃でもピンピンしていたゴリラは、この一撃で昏倒。ルキナの後光によってあっさり浄化された。

 ルキナは半堕ち状態に戻されたコニラヤを見た後、ゴーレムの手の中のハロエリスに視線を移し、酒瓶を構える。その構えは、まるでバッターボックスに立った四番打者である。

「文明を滅ぼすですって? はぁ? 何言ってんのよ、このクソマズそうな手羽先! 人間が原始人に戻っちゃったら、誰がお酒作ってくれんのよぉぉぉーっ!」

 ルキナが大きく振りかぶったその動きに合わせ、サマエルはハロエリスを投げる。

「うううぅぅぅるああああぁぁぁーっ!」

 酒瓶は見事にハロエリスの体の芯を捉え、まっすぐ水平に打ち出す。

 これが水中でなかったら、空気摩擦で発火していたに違いない。ハロエリスは衝撃波を発するほどの速度で吹っ飛び、廊下の最奥、閉ざされたままの隔壁に直撃した。

 ベコッ、という鈍い音。次の瞬間、隔壁に穴が開いた。

 同時に巻き起こる大爆発。ヘファイストスの炎と流れ込んだ水とが水蒸気爆発を起こしたようだ。神々は全員、衝撃で後方に押し流された。

 廊下の突き当りはコンクリートの壁。誰もが衝突を覚悟し、身構えたとき――。

「え?」

「あら?」

「わっ⁉」

 なにかに優しく受け止められた。

 振り向けば、そこにはマスコットキャラクターのクマ――ではなく、クマの着ぐるみのツクヨミがいた。

「みんな、大丈夫クマ?」

「ルキナ姐さん! お怪我はねえですか⁉」

 ヤム・カァシュから力を借り、ツクヨミが防壁を張っていた。極薄の脆い防壁を幾重にも張ることで、衝撃緩衝材代わりにしたらしい。

 はじめて見る防壁の使い方に、サマエルは率直な感想を口にする。

「器用だな。戦闘用の術ではなさそうだが……?」

「子育て用クマ。子供はよくいろんなところにぶつかるクマ」

「子育て?」

 天使は子供を作らない。大和の神々の偉大なるパパ、イザナギが身につけたイクメン技は、サマエルには理解できないモノなのである。

「よく分からんが、助かった。礼を言う。皆は退避してくれ。私はこのまま、ザラキエルの加勢に……」

「駄目クマよ、サマエル。一度戻るクマ。このままではピーコックが死ぬクマ」

「なに?」

「やっぱり気付いてないクマね? あの男は病的にやせ我慢が上手いクマ。ここで君が行ってしまったら、あと五分ももたないクマよ」

「……おい、ゴミクズ? どうした……?」

 身に纏ったゴーレムパーツからは確かにピーコックの気配を感じる。しかし、いくら通信機に呼びかけても返事はなかった。『神の眼』を使って上の階を見て、サマエルは悲鳴を上げた。

 ピーコックは気を失っていた。爆発からサマエルを守るために遠隔操作中のゴーレムパーツに魔力を送り、すべての力を使い果たしてしまったのだ。

 バンデットヴァイパーは寄生型武器。宿主が無事ならばいくらでも再構築は可能なのだが、ピーコックは咄嗟にサマエルを守ろうとしたようだ。

「そんな……あの馬鹿! なぜ私をかばった……!」

 サマエルは取り乱した様子を隠しもせず、一目散に駆け出して行った。

 そんな姿を見て、ルキナはわざとらしく溜息を吐いて見せる。

「あー、やだやだ。なんなの、あのラブラブ馬鹿ップル。さっさと子作りしちゃえばいいのに。どんなアホや不細工が生まれても、私がウッザイくらい祝福して絶対にハッピーにしてやるんだからさ~」

 生と祝福の女神のストレートすぎる発言に、ツクヨミ、ヤム・カァシュ、コニラヤは苦笑するよりほかにない。

「それじゃ、私行ってくるわ。みんな上で待っててよ」

「いや、ルキナ。君は戦いの神ではないクマ。あの二人の戦いには……」

「ツクヨミさん? これは私が生きていくのに必要なケジメですの。止めないでくださるかしら?」

「ケジメ……クマ?」

「ええ、ケジメよ。このままじゃ私、力ずくで犯された可哀想な女のままなの。私、そんなのは嫌。私は私の手で、私の名誉を取り戻すわ。……幸い、まだ酔いも冷め切っておりませんもの。今なら、何も怖くありませんわ……」

 空の酒瓶を片手に歩き出すルキナに、その後光で浄化されたコニラヤが続く。

「僕も戦う。ザラキエルを恨んではいないけれど……殺された仲間の事だけは、ちゃんと償ってもらわなくちゃ……」

 ヤム・カァシュとツクヨミも二人に続く。

「ルキナ姐さんが行かれるんですたら、オラが行かねえ理由はねえですだよ!」

「宵闇の安息を司る月神として、乱闘騒ぎは見過ごせないクマ。行き過ぎたら止めさせてもらうクマ」

 なおも続く爆発音。その渦中に、四柱の神は足を踏み入れた。




 地上では、ボスウェリアがようやく動きを止めつつあった。

「効いてる! 除草剤、超効いてるわよ!」

 レインが持ち込んだ除草剤を、サラが水を使ってエントランスホール中にまんべんなく散布した。シロアリの攻撃で根が穴だらけになっていたボスウェリアは、この『化学兵器』による攻撃を防ぐ術を持たなかった。徐々に動きが鈍くなっていき、ついにはピクリとも動かなくなった。

「……死んだのかしら?」

「いえ、サラが言うには、まだ生きているようだと……」

「てゆーか、これ、ホントに闇堕ちしてる? 結局どこからも黒い霧出て無いわよね?」

「はい。……あの、サラ? 私たちには木の言葉が分かりませんが、水を介して話をするサラならば、なにか分かりませんか?」

 マルコがそう言うと、サラは首を傾げた。


〈どうなるか分からないけど、ちょっと、はなしかけてみるね?〉


 サラはマルコの傍を離れ、ボスウェリアの本体に近付いた。

 すっかり弱り果て、動きを止めた木。もう何の危険もないだろうと思ったのだが――。

「!」

「サラ⁉」

 ボスウェリアは突然動き出し、枝葉でサラを取り押さえた。

 サラも必死にもがくのだが、なにしろ『腕』の数が違う。数十の枝で雁字搦めにされたサラはキューキューと苦しそうな鳴き声を上げ、マルコらに救いを求める。

「サラ! すぐ助けます! 《緊縛》!」

 魔力で作り上げた鎖を木の枝に絡め、マルコは全力で引き剥がそうとするのだが――。

「く……びくとも……!」

「マルコさん、そのまま枝を固定していてください! チョコ! 枝が特に大きくしなっている箇所だけを狙ってください! 繊維が伸びきって、他よりもろくなっているはずです!」

「わかった! 《火炎弾》!」

 レインの指示でチョコは《火炎弾》を放った。《百裂火炎弾》のほうが攻撃力はあるが、サラに当たる可能性がある。弱くとも、一発ずつ正確に狙うしかない。

「これで! この! おらぁっ! どうだっ⁉」

 マルコが枝を固定しているおかげで狙いがつけやすい。十数発撃ったところで、わずかに拘束が緩んだ。サラはその隙に抜け出そうとしたのだが――。

「……?」

「サラ⁉ さあ、早く逃げて……」

 なぜか動きを止めてしまったサラに、マルコは必死に呼びかける。だが、サラは動かない。ボスウェリアの枝葉に埋もれたまま、何かをじっと待っているように見える。

「……サラ……?」

 その様子に、マルコはハッとした。サラは今、耳を澄ませてボスウェリアの『声』を聴いているのだろう。

 やがてサラはボスウェリアの枝をするりと抜け出し、マルコのもとに戻ってきた。その表情を見るに、コミュニケーションには成功したが、内容は面白いものではなかったようだ。

「……サラ? あの木は、なんと……?」

 サラは怯えたような目でグレナシンを見て、それから人間たち全員に聞こえるように話した。


〈あの人間が自分の仲間を香料として使ってるから、自分も、そうしてみたくなったって……根っこがあれば……足さえ残ってれば、また生えてくるんでしょって。だから、腕を一本ちょうだいって。自分の枝と交換っこしようよって……すっごく、楽しそうに言ってるの……〉


 グレナシンは乳香の香りがする自分の髪に手をやって、蒼白な面持ちで問う。

「……え? なに? あの木、アタシの搾り汁を体に塗る気だったの……?」

 サラは今にも泣き出しそうな顔で頷き、蛇のように長い体で三人をぐるりと囲み、そっと輪を狭める。よほど怖い話を聞かされたのだろう。ひどく怯えているのが分かった。

 三人は、自分たちよりずっと大きい『子供』を全力で抱きしめてやる。

 あれは植物と動物の体の違いが分かっていない。無邪気にグレナシンの腕をもぎ取ろうとしていて、サラは、そんな相手にどう説明すれば話が通じるのか、適切な解答法が見つからなかったようだ。

 混乱した様子で、必死に体を摺り寄せてくる。

「ごめんなさい……サラ、ごめんなさい。私がいけないんです……」

「サラちゃん、忘れなさい。全部忘れちゃいなさい!」

「泣くなよ~、俺たちは、そう簡単にやられたりしないからさ~」

 竜の目から流れる大粒の涙は、零れるそばから透明な真珠に変わってゆく。宙に漂う不思議な宝石に囲まれて、三人はボスウェリアの様子を窺った。

 レインはエントランスホールの入り口から除草剤を投げ入れて、それからずっとその場を動いていない。無理に合流するより、すぐに応援を呼びに行ける入り口付近に待機したほうがいいと判断したのだ。

サラの声はレインにも届いていたのだろう。なんとも気味の悪そうな目でボスウェリアを見ている。

 残る敵はこの木のみ。

 ボスウェリアが振り回した根に当たり、トカゲの化け物は昏倒。その隙にサラの光によって浄化されている。先に浄化されたスナギツネとイノシシも、何度も根が当たってボロボロの状態ではあるが、エントランスホールの隅のほうで身を寄せ合っている。闇堕ち状態を脱したおかげか、二柱の目には知性の光が戻っていた。

 しかし、ボスウェリアのこともある。迂闊に話しかけて、またサイコパスのような答えが返ってきたら、今度こそサラが立ち直れなくなる。

 三人はどうする? と目だけで問いかけ合うが、具体的な案は浮かばない。

 サマエルが上がってきたのは、まさにそのときだった。

 サマエルに抱きかかえられたピーコックに意識はない。そのぐったりした姿を見て、死んでしまったと思ったのだろう。サラは短く悲鳴を上げ、大量の涙を流す。

「サラ! 落ち着いて! 大丈夫! 大丈夫ですから!」

「死んでない! あのネコ科オジサン、そう簡単に死んだりしないって!」

「そうよ、サラちゃん、大丈夫だからね。そんなに泣かなくてもいいのよ」

 マルコたちが必死になだめるが、逆効果だった。大好きな人間たちの声で、サラは考えてしまったのだ。マルコが、グレナシンが、チョコが――みんなが、あんな風になってしまったらどうしようと。

 ついにサラの恐怖が限界に達した。

 サラは三人をぎゅっと抱きかかえると、ふっと姿を消す。もうこんな怖いところには居たくない。そう思ったサラは自分の『心の世界』に逃げ込んでしまったのである。

 あとに残されたのは、レイン、玄武、サマエル、ピーコック、トカゲ、スナギツネ、イノシシ。そのうちピーコックとトカゲは気絶していて、スナギツネとイノシシは大怪我を負っている。サマエルはピーコックを抱きかかえていて、あまり激しく戦える状態ではない。

「……え~と、これってもしかして……」

「ボクたちがやるしかない?」

 レインと玄武は顔を見合わせ、首を傾げあう。

「一応、倉庫にあったチェーンソーも全部持ってきてますけど……」

「シロアリ以外に、カミキリムシとかも出したほうがいいかなぁ?」

「あ、では、徹底的に伐採する方向で……」

「うん、やろう」

 二十四本の触手と二本の腕で同時にエンジンが掛けられる一三機のチェーンソー。

 玄武の足下から湧き出る虫、虫、虫。数十種のシロアリとカミキリムシが、それぞれ数千匹ずつ。

 サマエルもマルコの落とした魔導式短銃を拾い上げ、それを構えつつ、十二枚の翼を最大解放して言った。

「あるべき道を外れた者よ、父なる神の裁きを受けよ! 《ジャッジメント》!」

 サマエルの光の翼はそれぞれが赤い光の戦士に姿を変え、十二の剣をもってボスウェリアの魂を創造主のもとへと送る。

 完全に動きが止まった。この状態のボスウェリアに意識はない。狙うなら今だ。

 レインはチェーンソーで根を切断し始めた。

 虫たちは一斉に飛び掛かり、ボスウェリアの枝葉を食い荒らす。

 サマエルはフルチャージ状態の魔弾を発射し、《デスロール》で大きな枝を次々に落としていく。本来魔導式短銃は所有者以外には操作できないように設定されているのだが、マルコは非常事態を想定し、他の隊員にも撃てるようロックを解除しておいたようだ。

 異常に長く伸ばされた根と枝。それが取り除かれていくと、ボスウェリア本体は、三メートルもない小さな木だった。

 ずんぐりとした幹からひょろりとした枝が伸び、そこから丸い葉が連なる。豊かに茂る緑を象徴するような風貌ではない。どちらかと言えば、見栄えの悪い植物に分類されるかもしれない。

「動かなければ、意外と普通の木ですね……」

「なんで狂暴になっちゃったんだろうね? 木の精霊は、だいたいみんな穏やかなのに……」

「この木自体は、闇堕ちとも何か違うみたいですし……?」

 レインと玄武が話し合っている間に、創造主の判定&ペナルティ処理が終了した。『ぽわわわ~ん』という締まりのない音と共に、エントランスホール一杯に広がった根と異常成長した枝葉、それを食い荒らしていた虫たちが消失した。

 しかし、ボスウェリア本体は何も変わっていない。

「……あれ? これって、近付いて平気なんでしょうか……?」

「ただの木……じゃないよね? サマエル、この木、カミサマの気配するよね?」

「ああ……この木自体は、『神』から神格を落とされていないようだ。普通に動くと思うが……?」

 創造主はいったいどんな審判を下したのだろうか。状況が好転したのかどうか判断がつかず、迂闊に近づくことも出来ずにいると――。

「……あ! 鳥!」

「え? あ、ホントだ! うわぁ、可愛い鳥さん!」

「鳥……だと?」

 ボスウェリアの幹に開いた小さな穴から、メタリックな光沢の青い鳥が顔を出している。それはセイキムクドリという、アフリカ大陸では一般的な鳥類だった。

「もしや……おいで。話を聞かせておくれ?」

 サマエルが呼ぶと、ムクドリは素直に従った。そしてサマエルの指に止まり、チチチと鳥の声で説明を始める。

「ふむ……そうか。ならば、闇堕ちになっていたのはお前のほうか。木は、お前から放たれた闇の影響でおかしくなっていたのだな?」

 ムクドリは申し訳なさそうに首を垂れている。

「気に病むことはない。主はお前を許した。それが全てだ」

「そうだよ! キミ、なんにも悪くないじゃない!」

 サマエルと玄武に励まされ、ムクドリはようやく顔を上げる。

「あのー、どういうことでしょう?」

 鳥の言葉が分からないレインに、サマエルが説明してやる。

「この鳥とボスウェリアの木がセットで『神』なのだ。本来はつがいの鳥だったようだが、異界送りにされた際、雌だけが地球に取り残されてしまったらしい。つがいの片割れを探すために、天使ザラキエルの血を飲んで地球に戻る力を得ようとした、と……」

「あ、じゃあ、そもそも悪いのはうっかり一羽取りこぼした創造主のほうってことですか?」

「お前……私の前でよくそんな率直な感想が言えるな……」

 創造主への忠誠心を試す『神の毒』、天使サマエル。彼女の前でここまで堂々と創造主批判をする者に遭遇したことはないが、間違ったことは言っていないので、レインに罰が下ることはない。創造主も今頃、大慌てではぐれたもう一羽の所在を確認していることだろう。

 ムクドリの説明によれば、ボスウェリアの樹皮には薬効があり、それによって人間と共存関係が成立していたという。このムクドリは動くことも話すことも出来ない木のために、他の神々との通訳を引き受けていたらしいのだが――。

「もう一羽のほうが、木と人間との通訳を担当していたらしい。しばらく人間と話をしていないせいで、この木は人間のことがよくわからなくなってしまったそうだ」

「あー……だから副隊長の腕をもぎ取る気満々だったんですね……」

「腕を? どういうことだ?」

「詳しいことは分からないんですが、自分の枝と一本ずつ交換しようよ~、とか言ってたみたいで……」

「交換して……どうするんだ?」

「血を搾り取って、香水代わりに自分の体に振りかける気だったみたいですよ?」

「……やはり、闇に呑まれた神が考えることは常軌を逸しているな……」

「完全に精神疾患ですよね。あの、ムクドリさん? あの木、もう人間の腕をもいだりしませんよね?」

 ムクドリは頷く。直接人間と会話することは出来なくとも、これでも一応は神だ。人間から語り掛けられた言葉は、きちんと内容を理解している。

「それじゃ、あとは……」

 十三機のチェーンソー。一旦は切ったエンジンを再駆動させながら、レインはエントランスホールの隅へと歩み寄る。

「スナギツネさ~ん、イノシシさ~ん。ちょっとお話聞かせていただけますか~?」

「ヘイ、ヨウ、ブラザー? 楽しいトークショーの時間だぜ! イェアーッ!」

 玄武は大好きなラジオDJの口調を真似てそう言って、大量のサソリとタランチュラを生み出していく。

十三機のチェーンソーを掲げた触手の怪物と、そのあとに続く毒蟲の軍勢。

 手負いのオジロスナギツネとモリイノシシは、哀れにもその場で失禁した。

「ひいいいっ! い、命だけは! 命だけはぁぁぁっ!」

「申し訳ございませんでした! 申し訳ございませんでしたっ!」

 毒蟲に囲まれ、自分で垂れた小便の上で土下座する神々。彼らの姿には、神としての威厳は欠片も残されていなかった。こんな連中に《ジャッジメント》を使うのも馬鹿馬鹿しい。サマエルはため息交じりに吐き捨てる。

「もう二度と、己の分に不相応な企みは抱かぬことだな。さあ、どこへでも行け。神としてのふるまいを忘れぬ限り、主が其方らを見捨てることはない。正しき道を歩むが良い」

「は、ははは、はいぃぃぃ~っ!」

「ありがとうございます! ありがとうございますっ!」

 玄武がサソリとクモを退けてやると、彼らは脱兎のごとく逃げ出した。

 だが、レインとサマエルには分かっていた。一応は外に出て行った二頭だが、あそこまで神格の低い神が存在を維持するには、誰か相性の良い人間の体に間借りするしかない。そしてその『相性の良い人間』というものは、そうそう簡単に出会えるものではなく――。

「あの二頭、どうせ後で戻ってきますよね?」

「ああ。先日ここで戦ったジルチとかいう連中の体に戻るのだろうな」

「まあ、これだけ脅せば、以前のように無理矢理操ったりは……」

「やったら次こそ《ジャッジメント》だ。あの連中は存在抹消レベルだと思うがな」

「ですよね~」

 サマエルは床に寝かせたピーコックの横に屈み込み、顔を近づける。

「ピーコック、ここで待っていてくれ。私にはもう少しだけ、やらねばならないことがある……」

 まだ意識は戻っていない。そう思って語り掛けたのだが、ピーコックは狸寝入りを決め込んでいたらしい。

 唐突に手を伸ばし、サマエルの頭を抱え込み――。

「んっ……!」

 有無を言わさず、強引に唇を奪う。

 右腕のない生身の人間と、戦闘能力を有する天使である。サマエルが拒絶しようと思えば、こんな拘束は簡単に振りほどけるはずだ。しかし、どうしたことか抵抗しない。サマエルはおとなしく、されるがままになっている。

 目のやり場に困るレインと玄武の前で、二人の濃密すぎる口づけは一分近く続けられた。終わる気配のないラブシーンにしびれを切らし、玄武が冷静にツッコミを入れる。

「あのさー、それ、初キスにしては長すぎると思うよ?」

 ハッとして体を離すサマエルと、それがどうしたと言わんばかりのドヤ顔のピーコック。二人を見てレインは直感した。これは間違いなく、『恋愛未経験の処女』と『チョイ悪系男子』の組み合わせだ。ティーンズノベルや少女漫画なら、諸々のハプニングを乗り越え、大波乱の末に結局結ばれる王道タイプの恋愛である。恋愛小説マニアのレインとしては、天使と先輩のリアルラブがどういう方向に転ぶのか、ぜひとも見届けたいところであった。二人を邪魔するお子様カメをサッと抱き上げ、爽やかに宣言する。

「ピーコックさん! 私たち、今のうちにジルチの皆さんの様子を見てきますね! どうぞごゆっくり!」

「ちょ、駄目だよ! まだザラキエルが……ゆっくりしてる場合じゃ……ちょっと! レインーッ⁉」

 ジタバタ暴れるカメを小脇に抱え、レインは旧本部の奥へと姿を消した。

 その場に残されたサマエルは、慌てて立ち上がろうとするのだが――。

「おい! ピーコック! 離せ! 私は行かねばならぬのだ! 早く行って、ザラキエルに加勢せねば……」

「行かせない。あいつのところにだけは、絶対に行かせないからね」

「何をふざけているのだ? 今はそんな場合ではないことくらい、貴様にも分かるだろう? さあ、手を離してくれ。私はザラキエルの……」

「友達? それとも恋人?」

「……え?」

「好きだった? それとも、今も好き?」

「……それは……いや、私は……」

 分からなかった。自分と似た境遇のザラキエルに、何らかの親近感を抱いていたことは間違いない。しかし、その感情が何かと問われると、サマエルには答えることが出来なかった。


 愛でもない。

 恋でもない。

 友情でもない。

 憐憫でもない。

 同情でもない。

 天使としての仲間意識かと言われると、それも違う。

 ただ、よく似た境遇だと思っただけ。

 それ以上でも以下でもなく――。


「……ああ、そうか。私は……私とザラキエルは、何でもなかったのだな……」

 互いに抱いていた漠然とした寂しさ。動機はそれだけだった。寂しさから、なんとなく話しかけ、話しかけられ――友と呼ぶには浅すぎる、行きずりの話し相手。今にして思えば、たったそれだけの相手だった。

 はじめはどちらも友達がいなかった。だからその程度の関係でも、まるで親友のように思えた。けれども、サマエルは自らの意思で他の天使たちと交流を持つ努力をした。イオフィエルやツァドキエルと話をし、助け、助けられ、心の底から友と呼べるだけの関係を築けた。

 だから、それきりになっていた。

 遠い昔に少し話をした知り合い。たくさんの思い出で満たされたサマエルの心の中で、ザラキエルの存在はその程度のものになっていたのだ。しかしザラキエルのほうは他に話し相手もなく、いつまでもサマエルだけが『唯一の友』であり続けて――。

「サマエルちゃん、よく聴いて。そういうことって、人間でもよくあるんだよ? 一方は唯一無二の親友と思っていて、もう一方はただの知人くらいに思っててさ。で、いざ何かあった時に『お前を信じていたのに』とか、『裏切り者』とか、『僕を見捨てたんだろう』とか言われちゃって。なんか、自分がものすごく悪いことしたような気になっちゃうんだよね。けどさ、そんなの、どう責任とれって? 時間もチャンスもいくらでもあったのに、どうしてお前は友達作る努力をしなかったんだよって話で。だから、サマエルちゃんも気にしちゃダメだよ。あいつは、サマエルちゃんの優しさにつけ込んでるだけなんだから」

「……しかし、ザラキエルがヘファイストスと戦うには……」

「他にもいっぱいカミサマいるんだから、少しは甘えちゃっていいと思うけどなぁ?」

「……そう……だろうか……?」

「そうだって。それに、ここでサマエルちゃんが手を差し伸べたら、あいつはきっと、この先ずっとあのままだ。サマエルちゃん以外の誰にも心を開かない。それじゃあ何の解決にもならないでしょ? あいつがサマエルちゃん以外の友達をいっぱい作ってから、もう一度、改めて友達になればいい。……俺、なにか間違ったこと言ってる? 間違ってたら、それってサマエルちゃんに対して嘘をついてるってことになるよね? 創造主からのジャッジは?」

「……裁きの雷がないことが、すべての答えだ。お前は正しい……」

「お~、良かった良かった。あのビリビリ、結構痛いんだよねぇ~」

「まったく……お前はどこまで大ウソつきなんだ? 今のキスは、レインと玄武を追い払うための演技だったのだな……?」

「あれ? そういうことにしておいたほうがいい? それこそ、裁きの雷がないことが全てだと思うけど……?」

「う、うるさい! 黙れ! 大ウソつきのスケベ中年のくせに! 急に真面目っぽいことを言うんじゃない!」

「あ、なになに? もしかしてギャップ萌え~? 俺に惚れ直しちゃったとか~?」

「調子に乗るなーっ!」

 スパーンという、よく響く炸裂音。あまりにうまく決まりすぎて、上体を起こしていたピーコックは勢いよく後方に倒れた。床に後頭部を打ち付けて、痛みでゴロゴロとのたうち回る。

「反省しろ! このゴミクズ!」

 そう言い放つサマエルの声は、ほんの少しだけ上ずっていた。


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