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そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,07 / Chapter 04 〉

 便所掃除を終えたザラキエルは、オフィスでマルコの仕事を手伝わされていた。

 いつまでもボロ布のような服を着せておくわけにもいかないので、先日から借りっぱなしになっているクリーンスタッフの作業着を着せてある。水虫疑惑のある安全靴もそのまま履かせているが、マルコは今、『天使だからきっと大丈夫!』と必死に自分に言い聞かせていた。

 ザラキエルはマルコに指示された通り、事務用封筒の裏に特務部隊のロゴ入りスタンプを押している。彼はとても真面目で、几帳面な性格をしているらしい。差出人が特務部隊であると示すだけのスタンプなので、これは掠れていても曲がっていても、何の問題もないものだ。しかしザラキエルはひとつひとつ丁寧にインクをつけて、できるだけ真っ直ぐに、同じ場所に押そうとしている。

 その仕草を見ているうちに、マルコは納得した。

 彼は真面目で忠実すぎる。だからこそ、自分に与えられた役割以外のことを知ろうとしなかったのだろう。

 彼の役目は天使を堕天させること。文明の発達で不要になってしまった『時代遅れ』の天使をあえて堕天させ、信徒らの祈りによって主のもとに還す。それによって天使はこれまで司っていた能力を失い、真っ新な状態にリセットされる。創造主から時代に適した新たな能力を与えられ、天使は再び、信徒らの前に姿を現すのだ。

 堕天後のことはザラキエルの仕事ではない。彼はこれまで、天使を堕天させた後はすぐにその場を立ち去っていたという。つまり彼は、隔絶された世界に堕ちたツァドキエル、イオフィエルらのことも知らないことになる。二人きりで作業をしていたマルコは、そのことを話してみた。

 あの世界について説明すると、彼は驚いた顔で言った。

「信徒らの祈りが通じなかった⁉ そんな馬鹿な! だって、システムでは確かに……」

「ええ、システム上は、確かに問題ないのでしょう。しかし、人間には心があります。彼らは黒い霧に包まれた『悪魔』の正体が、かつて自分に啓示を与え導いた天使だと気付いてしまいました。それから彼らは、どうしたと思いますか?」

「……分からない。システムに従って祈る以外に、どんな選択肢があるんだ?」

「彼らは天使を救おうと、果敢にも、黒い霧の中に手を伸ばしました」

「闇に触れたのか⁉ そんなことをしたら、人間の心なんて簡単に闇に呑まれて……」

「はい。一緒に闇に堕ちました。そして世界の運命から隔絶された空間で、絶望に苛まれていました」

「……ツァドキエルとイオフィエルの、二人だけ?」

「いいえ。その他に三百人ほど。天使たちだけでその人数です。天使と共に堕ちた人間もそれと同数です」

「……三百……? そんな。なんで、そんなに……私は、与えられた役目に従ったまでで……」

「従うだけなら機械やゴーレムにもできます。ですが貴方はそうではない」

「……何が言いたい?」

「貴方は今、スタンプが曲がらないように、どう押したらいいか考えながら作業していたでしょう? そこには確かに、あなた自身の『思考』がある。それなのになぜ、堕天後の様子を見届けようとしなかったのですか? その場にほんの数分留まることも出来ないほど、貴方はお忙しかったのですか?」

「……いや。忙しくはなかった。天使を堕天させることなんて滅多にないことだから……。ただ、私が見たくなかっただけだ。堕ちると、みんなひどく苦しむから……」

「本当に、誇りを持っていましたか?」

「え?」

「ツァドキエルさんは堕ちてなお、必死に木を育てていました。彼は人の死体と黒い水で、咲くはずのない花を咲かせようとしていました。あんなひどい場所でも、どうにかして『生命の樹の実』を作り出し、命を落とした聖戦士たちに与えようとしていたのです。彼には、自分の仕事に対する誇りがありました。貴方には、仕事に対する誇りはありましたか?」

「失礼な! 私だって……!」

 言い返そうとして、ザラキエルは言葉を呑み込んだ。

 誇りがあると思っていた。だからこそ、自信を持って天使を、神を、人間を、闇の中に叩き堕とすことが出来た。けれどもマルコに言われて気付いてしまった。

 自分は逃げていただけなのだ。

 己に課された役割と向き合って最後まで見届けていたら、それだけでもっと早く知ることが出来ただろう。堕とし方次第では救済されない天使がいることも、このシステムが他の神族や人間には適用されないことも。

 もっとうまくやれたはずだ。天使に与える苦痛も、それを救う信徒らの負担も、ずっと軽減できたはずなのに――。

「……私は……本当に、どうしようもない馬鹿だ。なぜ主は、まだ私を生かしておかれるのか……」

「創造主のお考えは私にはわかりません。けれど、私は『救え』と言われています。貴方が絶望の闇に堕ちそうになったら、何度でも救済させていただきます」

「ひどい奴だな。お前も、ツクヨミも」

「はい。そう簡単に『死んで楽に』とはいきませんからね?」

 そう言いながら、マルコは机の下から追加の事務封筒を取り出す。マルコの入隊以降、特務部隊には今まで以上に貴族からの相談や問い合わせが殺到しているのだ。返信用の封筒は何百枚あってもすぐに使い切ってしまう。

「……これも、全部押すのか……?」

「言っておきますが、これは労働刑ではありませんからね? 事務員の通常業務の一環です」

「通常業務⁉ これが⁉」

「お昼までに全部終わらせてくださいね」

「ぜんぶっ⁉」

 山積みの封筒を前に、スタンプを握り締めたザラキエルは戦慄した。

 この作業をそんな速度で終わらせろだなんて、なんという無茶を言うのだろう。いや、人にそれを要求するのだから、この青年にはそれが可能であるということか。主より賜った役割の都合上、これまで戦場以外で人間と関わった経験はほとんどない。人間たちは、いつの間にそこまで高度な進化を遂げていたのだろうか。

 会話しながらも書類のチェック作業を続行するマルコを見て、ザラキエルは思った。

(私は人間について、何も知らなかったようだな……。戦場以外では、こんなに繊細な動作をこなすのか……)

 そんな心の声は、マルコには届かない。マルコは淡々と言い放つ。

「午後はこちらの定形外郵便用の封筒にスタンプを押していただきますから。お早くお願いします」

「えっ……?」

 そう言って指差す先には、今目の前に置かれた山の五倍以上の封筒が積み上げられている。

 人間とはなんと恐ろしい生き物だろうか。自分はツクヨミの話を聞きに来ただけなのに、なぜこんなにも過酷な『通常業務』をやらされているのだろうか。先ほどからなぜか足もむず痒くなってきたし、同じ姿勢を続けていたせいで肩も腰も痛くて仕方がない。

 半分涙目になりながら、ザラキエルは作業を続けた。




 ザラキエルの指先からすべての油分が封筒に吸収されつくしたころである。特務部隊オフィスの内線端末が着信音を響かせた。

「はい、こちら特務部隊」

 どうせまた自分宛ての郵便物のことだろう。そう思って気楽に通信に出たマルコは、直後に顔色を変えた。

「なんですって? シアンさん、もう一度おっしゃっていただけますか?」

「ええ、何度でも申し上げましょう。ダウンタウンで暴動発生。付近で活動中だったトニーが現場に急行しました。王子は、絶対に、オフィスを離れないでください」

「暴動の原因は?」

「強制立ち退きです。これまでマフィアの関係者が所有していたアパートと雑居ビル六棟が、いつの間にかヴェニーチェ侯爵の名義に書き換えられていました。立ち退きを迫られた入居者とその後ろ盾の組織が、侯爵の私兵隊と正面衝突しています。いずれも重武装兵と戦闘用ゴーレムを多数投入している模様」

「重武装兵ですって⁉ それはもはや戦争ではありませんか!」

「はい。ですから、王子は絶対に現場に出ないでください。貴方が姿を見せれば、誰もが『ヴェニーチェ侯爵には王家の後ろ盾がある』と判断します。貴方が何をお考えになっていようと、全市民が貴族と王家の敵に回ります」

「市民が敵に……ええ、そうですね。分かりました。しかし貴方がわざわざ連絡してくるということは、何か、私にやらせたいことがあるのでしょう?」

「話が早くて助かります。ラジオジャックをお願いしたい」

「え? ラジオジャック、ですか?」

「はい。放送局に乗り込んで、『私のお気に入りのDJがヴェニーチェ侯爵の私兵隊によって殺害された』と、怒りをぶちまけてください。できるだけ感情的に、ヒステリックに」

「DJが殺害されたとは……まさか……」

「立ち退きを迫られた住民の中に、先日王子がスカウトされたDJライノとDJリリコが含まれていました。現状では彼らの安否は不明ですが、おそらく無事です。アパートの住民はさっさと逃げ出したようですので」

 シアンの言葉に、マルコは胸を撫で下ろす。しかし、そこから続く言葉に血の気が引いた。

「王子には、『二人が殺されたかもしれない』という情報でいてもたってもいられずラジオ局に乗り込み、『ライノとリリコに何をした! 本当に殺したのか⁉ あの二人は私の友だ!』と喚き散らす大変重要な仕事をお任せします。ヴェニーチェ侯爵本人を直接責める文言ではなくとも、自分の兵が王子の友達を殺してしまったかもしれないとなれば、今日のところは尻尾を巻いて逃げ出してくれるでしょう」

「あの、そ、それは……ひょっとして私は、非常に高度な演技力を要求されているのでは……」

「はい。一か所でも棒読みになれば市民は疑念を抱くでしょうし、わずかに言い回しを間違えば、正義感に駆られた市民らによる『ヴェニーチェ侯爵討伐作戦』が始まってしまうでしょう。あくまでも、『王子は友の死という一報に我を忘れるほど取り乱しておられる』という印象だけが残るような、同情や共感を呼び起こす演技を……」

「難しすぎます! 私にはそんな……」

「やるしかありません。三十分以内に実行する必要があります。それ以上の時間が経過すれば、この暴動はダウンタウンの全域に拡大し、中央市内の別の貧困者居住区にも飛び火してしまうでしょう」

「そ、それはそうでしょうが……」

「すぐに裏口へまわってください。俺とコバルトがラジオ局まで同行します」

 シアンは必要なことだけ言って、さっさと通信を切ってしまった。

 マルコは蒼白な顔で立ち尽くした。

 取り乱してヒステリックに喚き散らしながらも、国民が同情し、共感したくなるような『篤い友情』や『身分を問わず人命を尊重する精神』をにおわせ、なおかつ国民感情がヴェニーチェ侯爵への殺意や敵意とならないように誘導する。

 いったい、どんな演技力があればそんなことが出来るのだろうか。

 オフィス内を巡回していた玄武も、マルコに歩み寄って困った顔で言う。

「マルコ、お芝居なんて絶対に無理だよね。嘘つくの下手すぎるもん……」

 それでも行って自分がすべきことをしなければ、状況は悪くなるばかりだろう。真面目で正直な王子は、両手で自分の頬を叩き、気合を入れた。

「ザラキエルさん! 貴方をここに残して行くことは出来ません! 一緒に来てください!」

「え、あの、これは……?」

「今は緊急事態です! 通常業務は放っておいてください!」

「え? えっ? ええぇ~?」

 右手で玄武を抱え上げ、左手でザラキエルの腕を引っ掴む。

 そのまま駆け出していくマルコを、水槽のサラは胸鰭を振って見送っていた。




 トニーが現場に到着したころには、既に戦闘が始まっていた。

 通常は装備の整った貴族側が優勢となるだろうが、なにせここは『犯罪者の巣窟』とまで謳われる街である。近隣の建物からも攻撃魔法や実弾、生ゴミ、汚物が飛来し、ヴェニーチェ侯爵の私兵隊は散々な目に遭わされていた。

 しかし高位の防御呪符を使用しているだけあって、汚物が直撃した精神的ダメージ以外、さしたる問題は発生していないようだ。隊列を崩すこともなく、重武装兵らは『自警団』と呼ばれるマフィアの戦闘員らに突撃を掛ける。

 いずれも前線の戦闘員は五十名ほど。そのほかに戦闘用ゴーレムを操る呪符使いがいて、さらに後続に長距離攻撃を得意とするウィザード部隊が控えている。

 戦力は同等。ただし、現時点での話だ。この街には協会非所属の野良ウィザードが大勢いる。非合法な仕事ばかりを請け負う裏街道の連中が、この戦いをどう見るか。ヴェニーチェ侯爵が優勢と見れば、一斉に侯爵への『売り込み』を始めるだろう。このままダウンタウン再開発の流れが出来上がってしまえば、強制立ち退きやマフィアとの武力衝突が頻発するに違いない。そのときに侯爵側についていれば、食いっぱぐれることなく、美味しい仕事をいくらでも回してもらえる。貴族が自分の私兵を使って『まだ自分のモノでもない物件』の強制立ち退きを迫ることは出来ない。絶対に、表には出せない汚れ仕事担当が必要になるものなのだ。

 逆にこの場でマフィア側が優勢となったら、ウィザードたちが直接手を出すことはない。彼らには厳密な『すみわけ』がある。こういった正面衝突には、それに応じた能力のウィザードが使われているのだ。今現場に出ているウィザードにコンタクトを取り、呪符や治癒などのサポートを申し出る。その代わり、いつか自分が窮地に陥ったときには、という互助契約が取り交わされる。

 トニーがすべきことは一つ。マルコがラジオジャックを行うまで、現場の状況を『対等』にとどめておくこと。いずれかの勢力が優勢となれば、もう歯止めは利かなくなる。

 一見しただけでは身元が割れないように、トニーは黒犬の姿に変じている。今の彼は路地裏を逃げ惑う野良犬のようにしか見えない。三体に分身した黒犬は方々に散り、私兵隊、自警団双方の作戦行動に妨害工作を施して回った。


 狭い裏路地で粗大ごみを燃やし、予定の移動ルートを潰す。

 ただでさえ凸凹とした路面舗装を小規模爆発で穴だらけにし、歩行を困難に。

 背後や側面から《火炎弾》を当て、敵側の援軍が現れたと錯覚させる。


 トニーの工作に翻弄され、双方、決定打を打てないまま小競り合いのような衝突を繰り返している。開けた場所で行われる野戦と違い、これは市街戦。それもこの街は馬車一台がギリギリ通れるような路地ばかり。どれだけ屈強な重武装兵をそろえても、横並びに陣を敷くことが出来ない。戦闘用ゴーレムも長距離攻撃魔法も、視界が確保できない状態で遠隔操作できる術者はそうはいない。今のところ、うまく戦況を誘導できている。この状態を維持していれば、よほどの馬鹿者以外は、いったん兵を後退させて作戦を練り直そうとするだろう。しかし――。

「……クソ! そうきたか!」

 ヴェニーチェ侯爵側が妙な動きを始めた。自分が買い押さえた物件のうち、一番古いアパートに何かを仕掛け始めたのだ。


 手順や設置場所から見て、爆破解体用のダイナマイトだろう。


 マフィアが行う『強制立ち退き』や『住宅乗っ取り』はその後に拠点化することが目的だが、侯爵は違う。ダウンタウンを潰して、再開発を行いたいのだ。そのためには買い押さえた建物を更地にして回る必要がある。ひしめくように建物が立ち並ぶダウンタウンは、その猥雑さが犯罪者たちの居心地の良さに直結しているのだ。そこを物理的に『開けた空間』に変えていってしまえば、人目に触れたくない裏家業の連中は自然と逃げてゆく。それは確かに、治安の向上と環境浄化につながるだろうが――。

「ただの低所得者も大勢居住しているのに! なぜそれが分からないんだ!」

 このアパートの住人はアーティストやクリエイターたちである。DJ、歌手、デザイナー、イラストレーター、漫画家、造形作家たちが共同生活を送っていて、市民階級の若者の間ではちょっとした名所にもなっている。ダウンタウンにはこういった『芸術屋敷』がいくつも存在するのだが、貴族らが好む『高尚な芸術』とは全く異なる表現活動であるため、『くだらないガラクタを持て囃す野蛮人ども』として犯罪者と同列のように見られているのだ。

「く……どうにかして爆破を止めさせないと……ドナテルロシリーズの新作が……!」

 トニーはここに暮らす漫画家コンビ、フェデリコ・A・フェデリオとフェデリコ・F・フェデリオの大ファンだ。任務以上の熱意をもって覚悟を決め、隣のビルからアパートに飛び移る。

 ダイナマイトから導火線の類は引かれていない。有線爆破ではなく、無線か魔法で着火するタイプだ。現物を見なくとも、それだけは分かっていたのだが――。

「……これは……!」

 建物の四隅に仕掛けられていたのは、一片が十センチほどのキューブ状の呪符着火式爆弾だった。しかし、着火の魔法陣は紙に書かれて貼られているわけではない。爆弾の表面に直接書き込まれている。呪符さえ剥がせばそれで終わりというわけにはいかない。肉球でゴシゴシ擦ってみるも、当然、その程度で落とせるはずもなかった。

 黒犬は人の姿に戻り、手早く爆弾を回収して回る。仕掛けた連中が安全圏に退避するまで、どんなに長くても三分もかからないだろう。爆発を止める方法が無いのなら、トニーにできることはただ一つである。

「《ゴーレムホース》発動!」

 手持ちの呪符を使い、ペガサスを出現させる。爆弾を懐に抱え、外に飛び出し、空を目指して飛ぶ。

 侯爵の私兵隊がいる側からは、トニーの姿は見えていない。彼らは爆弾がきちんと仕掛けられているつもりで起爆ボタンを押した。

 高度百メートルで発生した爆発。直後に降り注いだ肉片の雨が何者であるか、その場の誰にも分からない。

 けれども双方、これで動きを変えた。


 ヴェニーチェ侯爵はこう考えた。『犯罪者どもは死者を出してまで爆破解体を阻止した。さらなる強硬策が必要である』と。

 ダウンタウンの住民はこう考えた。『奴ら、見せしめに誰か爆死させやがった。狂ってやがる。ここで食い止めなければ、この街は本当に潰される。徹底抗戦しかない』と。


 それまでは使用が控えられていた中級以上の攻撃魔法が連続使用される。重武装兵らの使用武器も、小口径の拳銃から大口径の強火力兵器に。

 魔法か、銃火器か。絶え間なく鳴り響く発砲音と炸裂音の中で、残る二頭の黒犬は合流し、じっと身を潜める。

 戦いは激化してしまったが、一応、『対等な戦い』を維持することには成功している。おそらくこの状況は一時間程度続くだろう。その間にマルコが『怒りと悲しみのコメント』を表明してくれれば、ダウンタウンの住民にも中央市民にも『王家は市民の敵ではない』との認識が一気に広まる。このまま私兵を戦わせていたら自分が悪者になるのだと、ヴェニーチェ侯爵が危機感を持って撤退してくれればいいのだが――。

「まずは、あのヘボ王子が上手く国民感情を誘導できるかだよな」

「無理。絶対無理。棒読みになるに決まってる」

「失敗したらやるしかない」

「そう、やるしかない。一頭死んだのは誤算だったが……」

「二頭で十分だ。そうなったら、どんな手を使ってでもフェデリコ先生の仕事場を……」

「守る! 絶対に守る!」

「新作のために!」

「新作のために!」

 黒犬たちは頷き合い、物陰から戦況を窺う。




 放送局に乗り込んだマルコは、緊張のあまり紙のような顔色になっていた。

 シアンとコバルトがいかにもそれらしい態度と口上で放送局長に話をすると、局長は一も二もなく放送枠を用意してくれた。『今話題のマルコ王子がうちの局で特別放送を行ってくれるだなんて!』と、その後の局の収益を見越し、すでに有頂天となっている。

 シアンはあえて民間の放送局、『シティチャンネル77』を選んだ。なぜ国営放送局を選ばなかったかと言えば、あちらは全国放送で、ダウンタウンの雰囲気や情勢が分からない地方民にまで放送が行き渡ってしまうのだ。中途半端で不完全な情報ほど迷惑なものはない。その後に発生するであろう諸々の混乱を避けるため、わざわざ弱小ラジオ局を選んだというわけだ。

 放送局のスタッフらに誘導されるまま、マルコは収録用のブースに入れられる。そこで『録音して編集してから放送しましょうか』と、局長のありがたい申し出があったのだが――。

「ことは一刻を争います。生放送、一発勝負で!」

 この瞬間、マルコの中でシアンの存在が鬼か悪魔のように思えた。

「では王子! 二十五分からですので! そこのオンエアランプが点灯したら、お話をどうぞ! みんな、いくよ!」

 局長の合図で、それまで流されていたポップな歌謡曲がプツリと切られた。直後、マルコとは別のブースに待機していたラジオDJが、いかにも緊迫した声色を作って話し始める。

「セントラルシティの皆さん! よくお聴きください! このあと十二時二十五分より、マルコ・ファレル・アスタルテ王子の緊急放送を開始したします! ご家族や近隣の皆様にも、ラジオをつけるようお声掛けをお願いいたします! チャンネルは77! シティチャンネル77での放送となります! 繰り返します! このあと十二時二十五分より……」

 現在の時刻は十二時二十一分。市民の大多数は自宅で、職場で、食堂で、ラジオを聴きながら昼食をとっている時間帯である。マルコ王子の特別放送が始まるという話は、瞬く間に広がった。道行く人にもこのことを教えようと、ラジオの音量を最大にする市民が相次いだ。

 誰もが食事や仕事の手を止めて、ラジオの前で耳を澄ませる。

 セントラルシティに、曰く言い難い、不気味な静寂が広がった。

 今にも飛び出しそうな心臓に手を当て、マルコは何度も深呼吸する。そんなマルコの内側から、玄武が声を掛けた。

(大丈夫だよ、マルコ。変なお芝居なんてする必要ない! マルコの、正直な気持ちを言えばいいんだよ!)

(正直な気持ち、ですか? ですが、シアンさんのおっしゃった筋書き通りにせねば、状況はさらに悪化するでしょうし……)

(だから、その気持ちだよ!)

(え? その気持ち、とは……)

(みんなに仲良くしてほしいんでしょ? 今以上に、悪いことになってほしくないんでしょ? だったらその気持ちを、そのまんま言えばいいじゃない! せっかくお友達になったライノさんとリリコさんがいじめられるのが許せない! でも報復したいわけじゃない! みんな、とにかく落ち着いてって! マルコだって、そう思ってるでしょ? マルコは嘘つくのは下手だけど、本当のこととか正しいことを話そうとすれば、きっとうまく行くよ!)

(正しいこと……ですか……)

(法律とか、条令とか、マルコの得意技じゃない! 市内で武器もってたらダメなんでしょ? ビシッと言ってあげなよ! 人に刃物を向けちゃいけませんって!)

(!)

 演技すること、つまりは『作り話をそれらしく語ること』ばかりを考えていたが、そんな必要はないのだ。自分が語ろうとしているのは、治安を維持するために必要な『正しいこと』なのである。ならば、こんなにビクビクする必要はない。いつも通り胸を張って、市民らに法と人権、相手の意思や立場を尊重することの重要性を説けばいい。

「……ありがとう、ゲンちゃん。それなら出来るはず……いえ、やってみせます!」

 自分の内側にいる玄武にのみ聞こえるよう、小声でそう言った。

 玄武からの返事はないが、気配で分かった。玄武は笑っている。『さあ、呼吸を整えて! 考えて! あと一分も無いよ!』と、ドンと背中を叩かれたような気がした。

 この日の放送は、その後の王国の歴史上、何百年も語り継がれるものとなった。




〈中央市民の皆さん、こんにちは。私はマルコ・ファレル・アスタルテです。まず、放送をお楽しみになっていた方々にお詫び申し上げます。今回中断された番組の振り替え放送は、必ず近日中に行わせていただきます。

 さて、今回、番組を中断させてまで放送枠を用意していただいたわけでありますが、これには大変大きな理由があります。現在、ダウンタウンにて武力衝突が発生しているとの報告を受けました。一方はヴェニーチェ侯爵の私兵隊と確認されておりますが、もう一方は所属不明の武装集団です。侯爵の私兵隊と対等に渡り合うほどの武装集団が、いったいどこからやってきて、何の目的で戦闘行為に及んでいるのでしょうか? これは明らかな法令違反であります。早急に彼らの身柄を拘束し、厳罰に処すべき事案です。現在騎士団では彼らの所属や目的を突き止めるべく、全力で任務に当たっています。

 しかしながら、市民の皆さんに知っておいていただきたいことがあります。この武力衝突には、どちらにも『正義』がありません。

 ヴェニーチェ侯爵側も、法令に反する行為を行っています。侯爵はご自分が購入された物件の入居者を強制退去させましたが、中央市の条例では強制執行に及ぶまでに半年間の退去勧告期間を設けるように定められております。侯爵が土地家屋の権利を取得した正確な日付は、私は把握しておりません。ですが、先月までは間違いなく別の人物の名義であったことは確認されています。つまり、侯爵が本日強制執行に及んだことは、歴然とした法令違反なのです。

 私は、相手が貴族だからといって特別扱いはしません。

 また、長年の慣習だからと見て見ぬふりをすることもしません。

 ここは法治国家です。罪を犯した者は等しく裁かれるべきです。

 市民の皆さん、これからどんな噂や根拠のない憶測が流れたとしても、どうか、これだけは心に留め置いてください。

 私、マルコ・ファレル・アスタルテは、法に則って行動いたします。

 私はこれより、この事態の収拾に向かいます。対話による解決が不可能と判断された場合、武力鎮圧、もしくは無力化ガスの広域散布が予想されます。市民の皆さんは今いるご自宅、職場などから離れられませんようお願い申し上げます。安全な建物の中で、ご家族やご友人、同僚の皆さんがお揃いかどうか、点呼の実施を。今日、この時間、確かに全員一緒にいたことを写真や音声記録などで証明されることをお勧めいたします。万が一、あの現場に戦闘員として参加していたとの疑惑が浮上した場合、無実を証明することが非常に困難であると予想されるからです。

 もう一度言います。ご自宅、職場など安全な建物の中で、仲間と一緒に、じっとしていてください。興味本位で現場に近付いた場合、戦闘員や協力者と判断され、その場で身柄を拘束されるかもしれません。最悪の場合は射殺される可能性もあります。

 それでは、私からの放送はこれにて終了とさせていただきます。皆さん、ご清聴ありがとうございました。また、市民の皆さんに直接声を届ける機会を設けてくださったシティチャンネル77関係者の皆さんに感謝の意を。

 ご協力、ありがとうございます!〉




 収録ブースの外では、シアンがわざとらしく拍手するそぶりを見せていた。彼はマルコの性格を見抜いたうえで、あえて『演技しろ』と無茶な要求をして見せたのだ。マルコは追い詰められれば追い詰められるほど、土壇場で強くなるタイプである。過度なプレッシャーを掛ければ、いい意味でプツンと切れてくれる。

 狙い通り、マルコは見事に『国民感情を揺さぶるスピーチ』を繰り出してくれた。先日のドラゴン退治騒動で固定されつつあったマルコの印象は、今、このスピーチによって決定的なものとなった。


 貴族もマフィアも依怙贔屓しない、法と秩序と正義の味方。


 人間ならば、誰しも一度は考えることがある。いっそ悪事に手を染めて、もっと楽な暮らしができたら、と。しかしごく一部の人間以外は、心に芽生えた悪の芽を必死に摘み取って生きているのだ。悪魔の誘惑を撥ね退け、真面目に働き、家族を養い――ごく平凡な、当たり前の幸せを手にする。けれども、そんな幸せの中でもどうしても思ってしまう。

 悪いことをしている連中が野放しになっているなんて不公平だ、と。

 そんなやり場のない思いを抱えていた人々にとって、この王子の登場はまさに希望の光だった。自分たちが『損している』と感じる最大の原因、悪徳貴族とマフィアたちに、自分たちに代わって立ち向かってくれるのだから。

 この放送によって、マルコは国を支える最も重要な要素、『中層・下層労働者』という人的資源を手中に収めた。王国の九割以上を占めるこの階層の人々を味方につければ、よほど頭の悪い貴族以外はマルコに敵対しようとは思わなくなる。

 そう、それは今まさに『王子の敵』と認識されそうになっている、ヴェニーチェ侯爵も同じだった。

「な、なな、何だって⁉ 法令違反⁉ そんな馬鹿な! だって、ここは私が買ったんだぞ⁉ 私の持ち物をどうしようと、私の自由ではないのか⁉」

 ヒステリックに泣きわめく侯爵に、家臣たちも慌てた様子で言い募る。

「申し訳ございません! 条例の存在は存じておりましたが、あれは建前として市議会に通しただけの条例でございまして! これまで一度も適用されたことがなく……まさか、貴族相手にあの条例を持ち出してくるなんて……」

「侯爵様、ここは一旦、兵を引かれたほうが……」

「撤退しましょう! このままここにいて王子と鉢合わせてしまったら、王家への反逆行為とみなされかねません!」

 相手側も大慌てで戦闘員を撤退させている。こうも大々的に『どちらも悪い』と言われては、事前に用意していたもっともらしい言い訳も、他の貴族らに行った根回しも、何もかもが台無しだ。

 ヴェニーチェ侯爵はダウンタウンから撤退した。その道すがら、あちこちで車列に生卵が投げつけられたことは、当然の成り行きであると言えた。




 放送局を出たマルコは、馬車の中で待たせていたザラキエルに尋ねる。

「放送、聞こえていましたか?」

 ザラキエルは頷き、ボソボソと小声で答える。

「聞こえていたよ。すごいと思う。ああ言われて君の前に立てるのは、自分が正しいことをしているという自信のある者だけだ。悪いことをしている連中は逃げ出すしかない。君は……何者? あの短時間で、何があったの? さっきまであんなに怖がっていたのに、どうしてあんなに、堂々と話すことが出来たんだい?」

 マルコは照れくさそうに笑う。

「昔からなんです。追い詰められると、こう、いつも以上の力が出せるというか……そういうことって、ありませんか?」

「追い詰められると……?」

 ザラキエルは、これまでの自分を思い返す。自分は強かった。たいていの天使や神は簡単に堕とすことが出来たし、その行為に迷いや躊躇いがなかった分、いつも強気でいられた。

 追い詰められたことがない。

 追い詰められるのは、いつでも相手のほう。

 月天使の追跡から逃げられないと悟り、向き合って、覚悟を決めた瞬間の神々は――。

「……ああ、そうだな。追い詰められると、強くなる。きっと、誰だってそうだ……」

 つまり、そういうことだったのだろう。自分は向き合っていなかったのだ。これまで一度も、自分の仕事にも、自分自身にも、覚悟を決めて向き合ったことがない。


 自分の仕事が大失敗でも、その結果を見たことが無ければ自信は失わない。

 自信を失わなければ、いつでも強気で生きていられる。

 けれども、それでは何も変わらない。

 自分の欠点と失敗を見つめ直し、改善せねば、いつまで経っても駄目なまま。技術は向上せず、何度でも同じ失敗を繰り返す。そしてそんな事実に気付いていながら、『それは自分の役割ではない』と言い訳をして、また、最悪の結末から目を背ける。

 本当は、薄々分かっていたのだ。

 何かがおかしいと感じ続けていたのに、それに気付かぬふりをして――。


 俯き、暗い顔になるザラキエルの手を取って、マルコは言う。

「ザラキエルさん。私は、ゲンちゃんからアドバイスをもらって覚悟を決めることが出来ました。演技しようとすると、どうしても、自分の心に嘘をつくことになります。でも、私は自分の正直な気持ちを皆さんにお伝えしたい。ゲンちゃんは、それでいいと言ってくれたのです。私のこの気持ちは間違っていないと。お願いです、ザラキエルさん、教えてください。貴方の正直な気持ちとは何ですか? 翼を捨てた今、貴方は、何をしたいと望んでおられますか? 本当にこちらの世界で、人間と同じ労働に従事していたいのですか? それが贖罪となるとお考えですか?」

 ザラキエルは、マルコの目を直視できなかった。心を見透かされている気がした。神や天使より、ずっとちっぽけな人間という存在に。

 創造主によって生み出されて以来初めて、ザラキエルは自分を『恥ずかしい』と思っていた。この恥ずかしさは、きっと簡単に振り払える。『うるさい、人間のくせに無礼だぞ』とマルコの手を叩くだけで、簡単に拭い去れるのだろう。

 でも、もうザラキエルは分かっている。

 それでは何も変わらないのだと。

「……私は……帰りたい。地球に帰って、謝りたい……」

 自分の声がどうして震えているのか、ザラキエルには分からなかった。

 最強の天使は、涙を流したことなどない。生まれてはじめて流した涙の感触に戸惑い、頬に手を添え、それでようやく理解する。

 自分にも、涙はあったのだと。

 これはきっと、これまで気付かぬふりをしていた弱さの証――そう思った瞬間、ザラキエルの中で何かが変わった。

 自分は強くなんかない。

 たったそれだけの事実に気付くために、自分はいったい、何をしていたのだろう。

 あとからあとから流れ出てくる涙は、ザラキエルが被り続けた『最強』の仮面を剥ぎ取ってゆく。今ここにいるのは最強の天使でも、破壊と惨劇の象徴でもない。

 過去を悔いて涙を流す、ただの人間だった。

「私は……私は、間違っていた。何百年、何千年かかっても、私が奪ったすべての命に……一人一人に謝りたい。許してもらえなくても、謝って……死ぬまで謝り続けて、彼らを弔い続けたい……」

 マルコは何も言わず、ザラキエルの体を抱き寄せる。

 翼を失った天使は、子供のように声を上げて泣いた。




 御者席のコバルトとシアンは小窓から車内の様子を窺い、呆れた顔で言葉を交わす。

「いや、本当にすごいね。神とか天使とか、そんなものをこんな至近距離で目撃する日がこようとは……なんか今車内が恋愛映画のクライマックスシーンみたいになってるけど、王子本当にノーマル?」

「あのくらいならセーフだろ? というか何がすごいって、ウン百万人ぶっ殺しておいて『間違っているとは思いませんでした』とか言い放つメンタルのほうだよな。神々のシステムとやらはいったいどんだけ大雑把なんだ……?」

「そういうものなんじゃないかな? 僕たち人間だって、実際に現場を見ないと分からないことなんていくらでもあるわけだし。末端で何百人死んでても、現場を知らない上層部は運営方針を変えなかったりするだろう?」

「まあな。システム上は正しいことになってても、必ずどこかに欠陥があるモンなんだよな……」

「ところでシアン? 君のナビ、本当に大丈夫かい? この道、ダウンタウンの現場よりずっと南側に出てしまうと思うんだけど……」

「大丈夫だ。わざと別ルートを選んでいる。馬鹿正直に最短ルートなんか通ったら、マスコミに囲まれて大変なことになるだろう?」

「ああ、それはたしかに」

「俺たちが裏口につけたのと同時に、放送局の表に特務部隊専用車両をつけさせた。ナイルのゴーレムが王子に化けて放送局に入って、俺たちが出る一分前に放送局を出ている。局の周辺、マスコミいなかっただろう? 今頃最短ルートのほうはマスコミの大パレードになっているだろうよ」

「なんだ、そうならそうと、僕にも先に教えてくれればよかったのに」

「そんな暇あったか?」

「無かったね」

「そういうことだ」

「そういうことね」

 国家、社会、組織など、諸々のシステムに振り回されながらもしぶとく生きる情報部の面々は、いちいち感情的になってはいられない。淡々とこの後の手順を確認し、関係各所への連絡を入れる。




 マルコがダウンタウンに到着するころには、双方の戦闘部隊は完全に引き上げた後だった。これは情報部の計画通りである。マルコ本人に何かを耳打ちする必要もない。シアンが予想したとおり、マルコは現場付近の路地裏に身を寄せ合っていた負傷者たちの治療を始めた。

 王子が何の躊躇いもなく下層労働者に駆け寄り、その怪我を治療する。新聞社が最も欲しがっている『英雄が英雄らしく振る舞ういい絵面』が、まさにその場にあったのだ。

 この日の夕方、中央市内では新聞各社が号外を出した。


〈マルコ王子、武力衝突をスピード解決!〉

〈悪徳貴族に一喝! ルール違反は許さない!〉

〈マフィアを牽制! ダウンタウン問題に王子参戦!〉


 新聞社ごとに何を大見出しとするかはそれぞれ異なるが、概ねどの号外も『王子は庶民の味方。貴族の横暴もマフィアの暗躍も許さない』という内容に要約される。

 午後六時。ようやく騎士団本部に帰還したマルコは、それらの号外に目を通し、ホッと胸を撫で下ろした。

「良かった……私、何とかうまくやれたようですね……」

「ホンット、お疲れさま! どうする? お昼ご飯食べ損ねたんでしょ? ちょっと早いけどお夕食にする? 先にお風呂? それとも、ア・タ・シ?」

 グレナシンの恐ろしい三択問題に、マルコは最も無難な回答を返す。

「いえ、今夜も挨拶回りの予定がありますから。それまでは昼間片付けそこねた書類を……」

「んもう! 頑張りすぎよ! その書類、総務の三人娘に丸投げしてもいいやつでしょ?」

「いえ、ですが彼女らの負担を増やすわけには……」

「あの子たちの実力、甘く見てない? リナがぼやいてたわよ? 王子が全然仕事回してくれないって」

「え? 本当ですか?」

「あのねマルちゃん。あの子たちは女の子だから、確かに体力的にはアンタにかなわないわよ。でも、事務仕事なら男と対等にこなせるの。女の子の負担を増やしたくないっていうその気持ちは分かるわ。女性を軽く見てるわけでも、差別してるわけでもない。純粋に優しさだと思う。だけど、だからこそ、あの子たちが困っちゃうのよ。アンタの優しさを受け入れると、他の事務員からは特別扱いされて楽してるようにしか見えないの。そう見えないように頑張りたくても、現状じゃ、頑張る機会すら与えてもらえないのよ? それって総合的に見てどう? あの子たちの負担、物理的には減っても精神的には増えてるでしょ? 女ばっかり楽しやがってって思われながら合同オフィスにいるの、すっごくつらいと思うけど?」

「それは……申し訳ありません。気付きませんでした……」

「明日朝イチで持っていけるように、項目別に仕分けておきなさい。何でも一人で背負い込むばかりが優しさじゃないわよ!」

「は、はい!」

 己の至らなさを指摘されているのに、マルコは不思議とすがすがしい気分だった。これは物事を『男性視点』で見ていないグレナシンだからこそ言えるのだろう。

 そう、視点の問題なのだ。男性目線で見れば正しいと思える『優しさ』も、それを受ける女性の側からすると、結果的にはマイナスであったりする。一方的に押し付けて自己満足に浸るばかりではいけない。自分の行動に対して、最後までしっかり責任を持って結果を見届けねば、結果的に相手に迷惑をかけることになる。

(……っと。あれ? もしかして私は、ザラキエルさんに偉そうなことを言える立場では……)

 物事の結果を見ようとしていなかったのは自分も同じだった。

 それに気づいた瞬間、マルコは恥ずかしさのあまり顔から火が出る勢いで赤面した。

 突然顔を押さえてうつむいたマルコに、グレナシンは問う。

「あら、なに? どうしたのよ? どっか痛いの?」

「い、いえ、そういうわけでは……その……己の至らなさを思うと、なんと言いますか……」

「あー、それねー。急になんか思い当たっちゃったんでしょ? それも一種の若気の至りってやつよぉ~。年取って面の皮厚くなると、けっこう平気になっちゃうのよね~。せいぜい若いうちにもがき苦しんでおきなさいよ~?」

「は、はい……」

 オカマ言葉の副隊長の至言に従い、しばし脳内でのたうち回るマルコだった。


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