自覚
今日は、やけに蝶が近くを飛ぶなあ。
万朔がそう考えたのは、白い蝶々が彼女の目の前を触れそうなほど近くで通り過ぎて行ったからだった。少し立ち止まって、紋白蝶らしき影を追おうと振り返った。しかしそこには吐き出した自分の白い息があるだけで、他に白いものはもう見当たらなかった。広がるのはいつもの田舎の茶色い風景だった。
それにしても、こんな時期になんで紋白蝶なんかが飛んでいたのだろう?彼女は少し疑問に思ったものの、すぐに珍しいものを見られたのだという気持ちになり、ついついスキップしそうになったのだった。それは虹を見たとき、流れ星を見たときの感動に似ていた。
これから大学に行くって言うのに、この田舎はのんびりとした空気でいっぱいになっているものだから、困ってしまう。私までのんびりとした気持ちになってしまうではないか。そんなことでは、せかせか進んでいく都会の空気についていけなくなってしまうじゃないか。それはいただけない。ダメダメだ。万朔は少し微笑んで、駅へ進む歩みを再開した。
そんな浮かれた気持ちでいたからか、彼女は普段はしない行動に出る。
駅への道のりは、めったにはいないのだが、ときたますれ違う人がいる。ほとんどの場合は、ご老人である。ここに住んでいる年齢層が圧倒的に年配層で占められるから、それも当たり前だと言えるだろう。そしてこの日も普段と変わらず、前方から歩いてくるのは近所のご老人だった。そう、これだ。彼女はいつも、挨拶をするべきか、しないべきかで迷うのだ。そうして悩んでいるうちに、前方から来た人はそのまま通り過ぎて行ってしまう。それが、常だった。でも今日は違う。彼女は冬の紋白蝶を見たという、たったそれだけのことで浮かれ、気持ちに余裕があった。だからつい、前方のおじいさんに向かって、
「おはようございます」
と挨拶をしたのだ。
果たしてかのご老人は、返事をしなかった。
「え、」彼女は瞳を左右に揺らし、声が小さかっただろうか、聞こえなかっただろうかと考えた。いやそんなはずはない。確かにあまり大きな声を出すほど元気な女の子ではないが、聞き取れないほど小さな声でもなかったはずだ。それに、すれ違う瞬間に、目を見ながら言ったのだ、違う人に言ったのだろうとは考えにくい。
…しかしもしかしたら、さっきのご老人は難聴で聞こえなかったのかもしれない。それかきっと、気難しい気性の方だったのだろう。少し納得いかないものの、彼女はそう結論付けた。
折角勇気を出して挨拶をしたというのに、聞こえなかった(あるいは無視された)という事実は、少なからず万朔のやる気を削いだ。
そんな万朔に対し、追い打ちをかけるかのように犬が吠えだした。近所でも有名な、よく吠える犬だった。しかも、番で飼っていたのか年々その数は増え、今では大人でさえも少し驚くような音量となっていた。番犬にはもってこいだが、近所の迷惑を考えれば、常識的だとは言い難い。万朔が「馬鹿か、躾くらいきちんとしなよ」と、そう内心で毒づいても仕方あるまい。半ば八つ当たり気味に怒鳴ってしまおうかと思った瞬間、その家の奥さんが洗濯物を干しにベランダに出ているのが目に入り、大きく開けた口を、そのまま誤魔化すように欠伸をした。そんな万朔に見向きもせず、犬を叱ることも無く、黙々と洗濯物を干す奥さんをちらと見て、「どうせね、ええ、そうですよね、小娘に謝ってもね」と内心更に悶々としつつも、駅に向ける足を急がした。
そのまま進んでいくと、昭和の時代から立ち続けているような家並みが広がった。突然狭い路地にお地蔵さんがぽつんと立っていたり、小さな畑が現れたり。そんな家並みの一つの、庭とも呼べぬような隙間に、小人が住むような大きさの小屋があった。万朔が最初にその小屋を見たとき、小人が来ること、もしくは神様が来ることを想定して作ったのだろうか、それとも、小屋の形が家と似ているから、習作として作ったのだろうか、などと考えたものだった。以来、いつかその家の住人に、小屋の作られた理由を聞くのが密かな楽しみとなっていた。もちろん、今まで通りに想像だけで楽しむのも悪くはないが。
駅に着くと、やはり人は疎らだった。と、言うよりも、万朔を含めても三人しかいなかった。さっすがド田舎。このド田舎の駅で座れないほど人が乗る電車など遅延でもしない限り早々ない。と思いつつも、端の席に乗りたい万朔にとってはちょうど良い人数だったと言えるだろう。
電車に乗り込むと、残念ながら万朔の狙っていた端の席は空いていなかったが、比較的空いている昼なので端以外は空いていた。普段は降り辛いからと真ん中の席を倦厭していた始だが、その時はどうしてか、どうせなら、とど真ん中に座ってみた。そして慣れたように音楽プレーヤーと本を取り出し、耳にイヤホンを付けて文字を追って行った。車窓の外は、やはりのどかな田舎の、田園風景が広がるばかりだった。黒い蝶が、飛んでいた。
「次は、○○~、○○でございます。□□線にお乗換えのお客様はお隣りの3番ホームへお乗換え下さい」
万朔は視線を文字から電車の外へ移し、駅名を確認した。降りる駅はまだまだ先だった。昼時とはいえそろそろ車内も込み始め、立っている乗客もちらほら見え始めた。乗車口を見てみると、キツイ顔立ちの女の人がショートパンツにレザーのジャケットをひらめかせ、ピンヒールを響かせながら、颯爽と乗り込んできた。あまり関わりたくはないタイプの人だなあとぼんやり眺めたら、その女の人がこちらを向いて、カツカツと万朔の方に向かってきた。あまりのタイミングの良さに思わず心の声が漏れていたかと焦ったが、女の人の表情が怒りではないことに気付いて安堵した。しかしあまりにも一直線に万朔を目指してくるので、少し訝しげに彼女を見つめる。その視線も気に留めず、真っ直ぐ万朔を目指す女の人。そしてそのまま目の前に来たかと思えば、重そうな荷物を床に置き、腰を下ろそうとした。どこにか。万朔の上にである。
「ちょっ…」
いくら細い体でも、流石に人一人膝の上にのせるのはきついものがある。そもそも既に座っている人の上に座ろうとはどういった了見なのか。周りの人は何故何も言わないのか。様々な思いが万朔の頭の中を駆け巡るが、腰は目の前だった。もうどうしようもなくなった万朔は、目を閉じることもできないまま固まった。次の瞬間、
スッ
すり抜けた。
すり抜けた?
何、が?
私…の、身体、が…?
「っ、は…?」
思わず、といったように口に出た音は何とも間抜けな、吐息のような疑問符だった。人間は透けるものだっただろうか?いや、そんなはずはない。そんな馬鹿な。そんなはずない。そう思って何度も何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、試しても、ダメだった。透けるのは私の体。突き抜ける腕。掴まることのできないつり革。何があったのか。自分は一体なんなのか。誰も何も言わないのはなぜか。…そうだ。誰も何も言わないのは何故だ。
「誰かっ…!誰か、わかりませんかっ!私が、何が、どうしてこんなッ…!」
誰もこちらを見ない。頭によぎったのは触れそうに近かった蝶。挨拶を返さなかったおじいさん。犬を叱らなかったおばさん。どれも、いやでも、そんな…
私は 死んでしまったの かな
「違う!」
大声を出してから、はっと周りを見回すが、誰もこちらなど見ていない。…そうだ。見えないのだ。
世界でたった一人だった。誰も私のことを認識してくれない。声を大きくして、荒げて、枯らしたって、誰も、
だあれも。
ひゅっという音が聞こえた。
息を止めていたらしかった。そう考えて、おかしくなった。だって、呼吸(、、)を(、)して(、、)いる(、、)の(、)だ(、)!これが笑わずにいられるだろうか。滑稽だ。馬鹿馬鹿しい。しかし、こんなことでも考えていないと気が狂いそうだった。沈む夕日までもが私を見ていない気がして、酷く気分が揺らいだ。
しばらくして正気付いた。…そうだ、家へ帰ろう。某CMのようなフレーズに、思わずくすりときた。なんだ、まだ笑えるじゃないか。赤くなった目元と鼻をこすりながら、まだ大丈夫、まだ、まだ大丈夫。と繰り返し唱えた。ふふ、大丈夫。
しかし、どうやって帰ればいいのか。このまま浮いて帰る?ここから?家まで?とてもじゃないが道が分からない。携帯で道を検索するか?いやそもそもネット機能は使えるのか?ごそっと携帯の検索窓を開く。アンテナは立っているのに携帯は使えなかった。まあ、そうですよね。等々考え、電車で帰ればいいのでは?という簡単な答えにたどり着くまで時間を要した。
ドアの前の広くなっている場所、そこのど真ん中で体育座りをする。膝に顔をうずめ、じっと床を見た。ぐるぐると考えた。そうだ、もしかしたら、これは、身体が昏睡状態になっていて、魂が幽体離脱しちゃったんじゃないか。少女漫画とかでもよくあるじゃないか。幽霊の心残りを無くして成仏させたかと思ったら、相手が実は昏睡状態で生きていた、とか。あの幽霊たちにもこんな葛藤があったのかな。どうなんだろ。早くうちに帰りたいなあ。きっと大丈夫、大丈夫、大丈夫……