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冷たく暗い闇の中で

作者: おだやか

 外に出た今なら解る。そこは、井戸の中だった。

 深い森の中に掘られた井戸、もう、足を踏み入れるものなどいないその中で、僕はひっそりと生まれた。

 ごつごつとした大きい石が敷き詰められたそこからは、滲み出す水の気配はなかった。

 朽ちかけた綱と繋がれた腐った桶、仰ぐ天井からは、白い光がいっぱいに差し込んでいた。


 僕は横たわり、しばし、微睡みの中にいた。夢と現の間を行き来していた。その夢も、もはやどんな内容だったのか記憶の中から消えてしまっている。夢とは常にそういうものだ。時々、こんな夢を見ていたのではないか、とふと思い返したりする、それでも、あまりの不確かさに、そんなことなどなかったのではないか、と思い直したりする、そんな曖昧なものだ。


 そして、僕が井戸の中にいた、その記憶と言うのも、今となっては、その夢と同じようなものだったのではないか、と、そんな気がしているのだ。

 僕は枯れ井戸の中で生まれた。身を縮めて、母を呼び泣き叫ぶこともなく、ただ、そこで生まれた。

 誰に産み落とされたわけでもない。何か、原因があったわけでもない。誰が望んだわけでもない。





 その森の中に、僕が、足を踏み入れていた。傍らには、クラスメートである女子、森永陽子が不機嫌そうな顔をしてついてきている。


 「燃えやすそうな枝なんて、あるわけないじゃない。今朝は雨が降ってたし」


 ぶつくさと言いながら、それでも、足元を眺めている。

 彼女の言うことは、きっと正しいのだろう。僕はぼんやりと頷いた。彼女の眉間に皺が寄る。


 「大体、何で、あんたと一緒にこんなとこに来ないといけないのよ」

 「それなら、君一人で拾えばいい」

 「ふざけないでよ。あんた、向こうに居ても役立たずじゃない! せめて、荷物運びくらいはしてもらうわよ」


 ずんずんと森の中に進んでいく。道なき道だ。とは言え、傾斜も急ではないし、見晴らしも悪くはない。深入りしなければ、迷うこともないだろう。

 枯葉で埋め尽くされた地面をざくざくと踏みしめる音が響く。僕はしばしその場に立ち止っていた。そして、僕らがやってきた方を向く。――今頃は食事の準備をしている頃だろうか。或は、僕らが枝を持ち帰るまでは何もするつもりもなく、残った人間で会話など楽しんでいるのかもしれなかった。

 小さな学校の中で、同じ学年の人間は六人。その六人が寄り集まって、どこかへ行こうと言う話になった。乗り気だったのは、その中に二人。朝比奈と雪野。クラスの中心人物だった。

 人間と言うのは、三人以上になれば、上下関係と言うものが生まれるものだ。六人いれば、複雑な人間関係と言える。そして、人間と言うのは、それと自然と残酷なものだ。まして、精神的に未熟な人間であれば、それと知らず、残酷なものだろう。


 朝比奈と雪野が特別悪い人間とは思わない。けれども、そのたったの六人しかいないコミュニティの中で、どこへ逃げ出すわけにもいかないまま、僕は彼らに付き従ってきた。そして、ここにいる――森永は強硬についていくことを望んだそうだが、僕はいつの間にか、ここにいた。

 いつものように。



 「浅川、ついてきなさいよ!」


 遠くから森永の呼ぶ声が聞こえる。彼女を追う足取りは自然と重くなる。彼女が向かう先には井戸がある。僕が生まれた井戸だ――僕は自分の両親の顔を思い出した。優しいが、僕のことを、愛玩動物のように考えている節のある、彼らの顔。恐らくは、実の両親なのだろう。御腹を痛めて産んでくれたに違いない。そして、僕がこんな風に考えることすら、彼らには失礼であろうし、的外れな話であるには違いない。


 まばらに立った木々の中で、柔らかく差し込む陽光は優しかった。それでも、身体は汗ばみ、夏の気配は確かに感じられる。彼女が腰に両手を置いて、仁王立ちしている。


 「走りなさい!」

 「随分と張り切ってるじゃないか」


 唇から毀れた言葉は、酷く醒めていた。彼女は戸惑ったように瞬きを何度か繰り返した。


 「早く枝を持って帰らないと、料理が作れないじゃない」

 「それなら、皆で探せば良い。そうだろう?」

 「役割分担て私たちが決まったんだから」

 「彼らが勝手に決めただけだ。従う謂れはない」


 まるで、そうなることが当然のように、彼らは指示を出した。森永は唇を尖らせていたが、反対することもなかった。

 僕はまるで無関心の儘、突っ立っていた。ここを訪れることを朝比奈が提案した時のように。雪野が賛同した時のように。他の皆が、さも当然のように、自分たちも行くのだろう、と思い込んでいた時のように。


 「何、勝手なことを言ってんのよ」


 彼女は顔を赤くして、ふるふると身体を震わせ出した。

 そして、僕を睨みつけ、地団太を踏む。


 「あんた、あの時、何も言わなかったじゃない! そんなことはしたくないなんて、言わなかったじゃないのよ!」

 「そうだね」

 「もう決まったことなのよ! あんたも手伝いなさい!」

 「断る」


 自然と唇から深いため息が漏れた。それが彼女の怒りを更に増幅させることになることは容易に想像出来た。けれど、僕にはもう、耐えられなかった。

 僕はどうして、ここにいるのか。そんな僕の心境の変化など、誰も気にかけてくれるわけもない。当然のことだ。僕は両親にさえ、この思いを語ることは出来ないだろう。



 まして、彼らになど。





 「…あんたがそんな風に言ってたって、あいつらに言ってくる」


 彼女は僕の傍を通り過ぎて、元来た道を戻り始めた。

 そして、一度だけ振り向いた。そこには、酷薄な笑みが浮かんでいる。


 「あんたが悪いんだからね、全部、あんたが悪いんだ」

 「どうでもいいよ」


 僕は投げやりな気分で彼女を見つめた。一瞬だけ、彼女は無表情になったように思う。


 「あんたが悪いんだ!」


 彼女は何度とも口にした。何度も、何度も、口にした。

 彼女の姿が見えなくなった後、きっと、どうしようもない不安が訪れると思っていた。

 もう、どうにもならない絶望感が僕を襲うのだ、と。

 儘ならない現実から逃避する為に、誰かに感情を押し付けた代償が僕を苛むのだ、と。

 森永の言葉に、彼らはどういう対応をするのだろう。

 朝比奈は何もかも分かっているかのような優しい受け止め方をするだろう。

 雪野は酷く冷静に、『お前は間違っている』とでも言うだろうか。

 山崎は唇を尖らせ、森永に同調する。島田は――へらへらと笑っているだろう。


 総じて、僕は『何の役にも立たない』置物として、無意味に時間を潰す羽目になるのだろう。

 森永がさっき口にした言葉は、間違ってはいないのだろう。彼らにとって、僕は何も出来ない存在でしかない。


 そして、恐らく、それは正しい。


 その結論に至った時、僕には、もう戻るべき場所は一つしかないように思われた。

 彼らが待つキャンプ場に戻る選択肢はない。そこを迂回して家へと帰る気にもなれなかった。

 森の中へと入っていこう。誰も足を踏み入れぬ、森の中へと。

 その先に何があるわけでもないことは、分かっていた。


 僕はゆっくりと足を進めた。






――――――――――――――――




 (何もかも勝手に決めすぎることは、私の悪癖だ)


 と、由香は分かっている。

 けれども、そうでなければ、誰も結論などは出せないことも、彼女には分かり過ぎるほど分かっていた。

 雪野は好ましくは思っていないようだが、最終的には折れる。彼には主体性などはない。けれども、まるで、自分が思うことは何事も正しいことだと思っている節がある。

 他の面々に関しては、考えることを放棄しているとしか思えないところがある。誰かが意見を口にしてくれる。それに従っていれば悪いことにはならない。

 だから、由香は提案をしてきた。

 あれをしましょう、これをしましょう。

 全て、良かれと思ってのことだ。それが、皆の為になる、と思ってのことだ。


 雪野は常にそれに乗っかり、自分の都合の良いように皆を動かそうとする。自分が望む形にしようとする。


 (雪野は私のことを好ましく思ってはいないだろう。疎ましいとすら考えているかもしれない)


 それは逆に言えば、彼女自身が、彼のことを似たような気持ちで見ているということでもあったが。

 その自覚がありつつも、彼女は、けして、自分は他の人間を見下すような真似をしているわけではない、と盲信していた。

 けれど、それは、見下されていると言う自覚有る人間にしか判別出来ないものだ。相対的なものに過ぎない。



 森永がキャンプ場に戻ってきた時、彼女は調理の下ごしらえをしていたが、他のメンツは何やら話をして、作業をしているようには見えなかった。森永は、それを見、やや茫然としていたが、すぐさま、眉間に皺を寄せ、その癖、口元には、酷く歪な笑みを浮かべていた。


 由香は彼女のことを好ましくは思っていない。彼女と一緒についていった『彼』には、気の毒なことをした、と申し訳なさも感じている。彼女は手ぶらで戻ってきたようだが、探し出した枝は『彼』が持ち帰る羽目になったのではないか?――朝比奈は彼女と入れ違いに森の中へ入っていこうとしたが、森永の甲高い声に留められた。


 「浅川! あいつ、枝拾いなんてやってられない!って!」

 「え?」


 ぐるるる、と唸りだしそうなほど荒々しい表情で、地面を踏みつけながら、彼女の怒りの発露は続く。


 「自分が決めたわけじゃないから、こんなことやってられない! って言ってたわ! こっちは真面目にやろう! 決められたことだから、やろう! って言ってるのに! むかつくわ! あいつ、いつもはぼんやりと何でも言われたことやってるのに、今日に限って!」

 「浅川が?」

 「そうよ! 枝拾いなんて皆でやればいいことをどうして私たちの二人でやらなくちゃいけないんだ! ってね!」

 「あいつが…?」


 皆、不審な目を森永に向けている。そんなことを口にするのは、大概彼女の方だった。『彼』は、そんなことを口にすることはない。いつも、穏やかな顔で、決められたことを真面目にする人間だった。

 だから、森永が嘘をついて、『彼』を陥れようとしているのでは?――と、そんな穿った見方をしてしまう。けれど、彼女は本当に怒っているのは間違いないところで、どうやら、彼と衝突してしまったらしい。売り言葉に買い言葉で、そんな言葉を『彼』が口にしなかったとは限らない。


 「解った。ちょっと様子を見てくる」

 「俺も行くよ」


 雪野が手を挙げる。何やら複雑な表情を浮かべている。枝拾いをするように指示を出したのは彼だった。そう言えばあの時、どこか、彼はいつもとは違う表情を浮かべていた気がする。森永は不満を絵に描いたようだった。差配が間違っていた、と思うところあったのかもしれない。


 「雪野は森永さんから話を聞いてて。私が話を聞いてくるから」

 「話になんてならないわよ!」


 森永が叫ぶ。皆で彼女を宥めているが、私は意識して、それを無視することにした。

 彼女のことをまるで信じていないわけではなかったものの、『彼』の話を聞かなければ、冷静に判断することが出来そうにない。







――――――――――――――――――――――




 井戸はなかなか見つからない。

 ついでに枝も探してみたが、乾いたそれを見つけるのは難しかった。

 とは言え、やろうと思えば、火をつけることも出来ないことはないだろう。

 自分がいなくなった後で、枝を探しに来た人間がそこまで困るとは思わない。そこまで、真面目にすることでもない。



 ――ぼんやりと辺りを見回した。

 キャンプ場が入口の辺りに設置されているが、この森は深かった。大人でも下手に足を踏み入れれば、戻ってこれなくなる可能性もある。家族でレジャーをするには避けたいところだ。

 まして、戻ってくるつもりなど欠片もなければ猶更だ。もう既に、ここからどう進めば森を出ることが出来るのか解らない。


 死ぬかもしれない。


 不安は訪れなかった。まだ、不確かだからだろうか。戻れる可能性がないこともないからか。そうではないだろう。それらを超越した何かがあるから、恐ろしさを抱くこともないのだろう。そんな確信がある。

 或は、これが夢だからだろうか。夢だから、そう思うこともない。感情の揺らぎもない?


 違う。






 がさり、と足元の枯葉が何かの動きに反応して動いた。

 身体がびくりと揺れる。顔を出したのは、酷く不気味な虫だった。枯葉色の迷彩色に斑な斑点のついた大きなバッタのような虫――それらが二匹飛び跳ねてどこかへ消えた。


 死ぬことは怖くないが、虫は怖いらしい。


 笑みが漏れた。ふと来た道がどこだったのかが気になった。ぐるりと周囲を眺めた後、天を仰いだ。

 黒色の雲が、雨の気配を伝えていた。







―――――――――――――――――――――



 「あいつが悪いのよ…。いきなり、勝手に決めたことだ、僕は従う謂れはない、だって」


 浅川の口真似をしながら、森永がぶつぶつと口にする。

 独り言じゃない。誰かに聞かせたいのだろう。自分は悪くはない、と。


 どうでも良かった。正直言って、浅川が気の毒だ、と言う思いが強くある。――朝比奈や雪野は気にも留めてはいないだろう。山崎は彼女の愚痴に付き合って、言いたい放題言っている。こいつは馬鹿だから、どうしようもない。

 山崎はまるで気づいちゃいないだろうが、彼女が森永の言葉に対して、よりきつい悪口を言う度に、森永の機嫌は猶更悪くなっている。火に油を注いでるだけだ。浅川が戻ってきた時には、森永はより苛烈に浅川を責め、山崎もそれに乗っかる。

 朝比奈も雪野もそれにやれやれと肩を竦めるばかりだ。俺は?――俺は後で浅川に、気にするなよ、と一言言うばかりだろうか。

 どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。俺も含めて、どうしようもない。浅川に呆れられるのも無理はない。よくよく、あのお人よしも堪忍袋の緒が切れたって奴だろう。

 そもそも、あいつは、このキャンプに乗り気じゃなかったのだ。朝比奈が『全員参加』と言わなければ、俺だってついていったか甚だ怪しいところだ。

 雪野は――あいつは、女だらけのところだって平気だろう。寧ろ、他の男連中がいないと言うことで羽目を外そうとするかもしれない。どうなるかは解らないが、帰って来てから面倒なことになるのは目に見えているから、結局、俺も行くことになったろうか。

 雪野はコテージの窓から外を眺めている。結局、飯盒炊飯は取りやめになった。切った野菜は備え付けの冷蔵庫の中に入れ、明日の朝早くに起きて調理をするということになった。

 晩御飯は皆が持ち寄った菓子等等――。実はこっそりと楽しみにしていたので残念だ。


 そうだ。


 「なぁ、誰か、枝拾いにいかないか?」


 俺は皆に提案をした。森永と山崎はこちらを見て、馬鹿にするように舌打ちをする。雪野は俺の方を見ようともしない――つまりは、こういうことになるわけだ。同じような状況だったら、浅川なら何も言わないだろう。

 俺は口にしてしまったことを激しく公開しつつ、コテージの外へと出る為、玄関へ出た。ようやく、雪野が俺の方を向く。


 「島田、どこへ行くんだ?」

 「どこでもいいだろ」

 「良くない。朝比奈も浅川も出てるんだ」

 「だから何だよ」

 「言うことを聞けよ」


 雪野の声が荒くなる。


 「そうよ」

 

 山崎がその言葉に触発されたように唇を尖らす。

 森永はただ睨んでくるばかりだった。

 俺は意識して口元を緩めた。

 そして、彼らを無視して、外へ出た。

 流石に追いかけてくる様子はない。



 浅川も水臭い奴だ。

 俺も誘ってくれれば良いのに。



 調理をするのにどれだけの枝が必要だろう?

 解らないが、適当に集めてくれば良い。

 浅川や朝比奈が戻ってきた時、俺が枝を集めていた、と言う話を聞いたら、あいつら、どういう顔をするだろう。

 雪野は、意地でも調理には加わらないだろう。山崎はそれについていくか。

 森永は――寂しがり屋のあいつだから、三人が調理を始めれば、自分もするだろう。浅川とのいざこざはそこで有耶無耶になるのではなかろうか。――余程、浅川が怒っていなければ。



 「てか、火をつけるのに適した枝なんてあるのかねぇ」


 ま、適当な枝を見つけてくればいいでしょ。多分。


―――――――――――――――――――――――――





 「何よあいつ…」


 山崎がようやく言葉を吐き出した。

 森永のことなどまるで考えずに、外へ出ていった島田を糾弾しているつもりなのだろう。

 まるで、自分が、六人の中で一番優しい人間であるかのように振る舞っている。重苦しい言葉の後で吐き出したのは、この場にいない人間の悪口ばかりだ。森永は、ただ、玄関を見つめるばかりで、何も口にしない。山崎の言葉に賛同などする筈は無い。ただ、黙然と唇を噛みしめている。


 はっきりと言えることは、このキャンプは失敗だった、と言うことだ。

 朝比奈がどういうつもりで提案したのかは知らないが、俺たちみたいな関係の連中が外へ出て巧くやれる筈がない。

 俺が六人要れば争いもないだろうが、島田や森永のような人間がいるのに、何故、巧く行くと思うのだろう。


 島田は今頃何をしているのだろう。適当に時間を潰しているのだろうか。それとも、もう帰る算段をしているのかもしれない。あのヘラヘラとした笑みを浮かべたまま、朝比奈に、『俺、帰るわ』とでも言っているのかもしれない。


 六人の持ってきた荷物はコテージの隅に寄せてある。俺はその中から島田のリュックを持ち上げた。


 「何する気?」


 山崎が尋ねた。


 「外へ出しておく。帰るつもりだろう。あいつも」


 浅川のリュックも後で外へ出そう。どういうつもりかは知らないが、皆、もう、あいつに居て欲しいなどとは思わないだろう。


 「やめてよ、そんな馬鹿なことすんの」

 「馬鹿なこと?」

 「嫌がらせじゃん」

 「あいつも中に入り辛いだろう?」


 山崎は玄関のドアの前で突っ立って、俺を睨みつけている。

 こいつは考える頭なんてないんだろう。いつも感情に振り回されて、皆にとって良い人間であろうとして、空回りしている。


 「お前だって、島田が戻ってきたら文句の一つも言うつもりなんだろう?」

 「言わないわよ」

 「あれだけ陰口叩いてたのにか?」

 「本人がいないんだから、良いんでしょうが」


 何が良いんだか解らないが。

 俺は肩を竦めて、リュックを元の場所に放った。

 島田だろうが、浅川だろうが、結局は文句を言って止められるに違いない。

 実際に、外に出しておいた方が、彼らもコテージの中に入らずに済んで助かると思うのだけれども。

 俺は外を見つめた。朝比奈が向かった森の方だ。戻ってくる気配がない。もしや、深入りしているのではないだろうか――。ハイキングコースを歩いているのなら良いのだけれども。


 「朝比奈は、傘を持ってたか?」

 「え…?」


 森永は、戸惑ったように顔をあげた。

 何かを考えていたようだが、ろくなことじゃないだろう。


 「朝比奈は、傘を持って行ったか?」

 「由香は、持ってなかったと思う」

 「…そうか」


 折畳傘はリュックの中に入れておいた筈だった。一応、二つ――。

 浅川は見つかったろうか。島田は適当にそこらで時間を潰しているだけだろうが、それでも、一応。


 「山崎、森永、コテージの中にいろよ。もうすぐ雨が降りそうだ」

 「え、嘘…?」

 「空模様が悪い。傘を持っているなら、出してくれ」


 二人は頷き、リュックの中を探った。二人が二人とも頭を振る。山崎の方は代わりに雨合羽を差し出した。小さなサイズだが、朝比奈なら着ることも出来るだろう。森の中ならこっちの方が良い。


 「私も行く」


 森永がそんなことを言い出した。俺は頭を振った。


 「人数は少ない方が良い。出来るだけ早く戻ってくるつもりだが、二時間経っても戻らなかったら、管理人に連絡してくれ」

 「解った…」


 「最も――浅川や島田はここに戻らずに家に帰るつもりかもしれないが」


 二人の良識を信じたいところだ。

 俺はため息を吐いた。


―――――――――――――――――――――――








 「戻らなかったらどうしよう…」


 陽子がそんなことを口にする。

 さっきまでは浅川くんの悪口ばかりを口にしていたのに。

 ――何となく、私は、戻らないような気がしていた。

 あの、温厚な人が突然、陽子に、彼女が言った通りのことを口にしたのだとすれば。

 それは、少し、いつもとは違う、異常事態と言ってしまっていいのではないか、と思えたから。


 そして、私は、とても恐ろしいことだけれど。

 戻らなければそれはそれでいい、と考えていた。

 浅川くんが嫌いとか、そういうことではなくて。

 別に、それは浅川くんに限ったことじゃない。


 由香にしても、さっき出ていった島田にしても、雪野くんにしても。

 誰でも良いのだけど。

 戻ってこなければ、面白い、と。


 私はそんなことを考えていた。


 戻ってこなければ、きっと、私たちの中では、忘れられない思い出になるだろう。

 残った人間にとっては、永遠に残るキズになるだろう。

 それはとてもドラマチックなことだ。

 私たちが、ありふれた日常から非日常に脱却する――そんな日になるのなら。

 誰かがいなくなってくれた方が面白いのではないだろうか。


 私は目の前で俯く陽子の頭を撫ぜた。


 「大丈夫だって。きっと、皆、無事よ」


 きっと、私は、どうしようもなく優しい表情を浮かべているに違いない。

 それはまるで、心底、親友を思っているかのように。

 内心では、こんなことを考えているのに。


 誰かが戻らなくなれば良い。

 けれど、それは少ない方が良い。

 だって、そういうモノを共有している人間は多い方が良いのだから。



 私たちはそれこそ、深い絆で結ばれることだろう。

 大切な人を失った幼馴染同士なのだから。

 それはきっと素敵なことだ。

 心の中に出来た隙間を埋め合うように、慰め合う関係。

 素敵だ。とても素敵だ。



――――――――――――――――――――――――







 外へ出たかった。

 どうして、あいつはあんなことを口にしたのだろう?

 いつも、皆の言うことを、はいはい、と聞いていたあいつが。

 私と一緒の時に限って、どうして。



 我儘を言ったろうか。

 要らないことを口にしたろうか。


 それらが気に障ったのだろうか。


 あり得ない話じゃない。いつだって、私はそうなのだ。


 つまらないことばかりを言う。

 酷いことばかりを言う。

 きっと、皆、私のことなど信じてはいないだろう。

 あれだけ酷いことを言って、身勝手に何もかも放り出したあいつの方を信じているに違いない。

 当然のことだと思う。


 目の前で私を慰めている美由紀は、どう思っているのだろう。

 きっと、彼女も同じだろう。

 私があいつに酷いことをして、だから、あいつも呆れて返って怒ってしまった。

 それだけのことだろう。いつものことだろう、と。



 ――私はいつも、後悔をしている。

 後悔をしているのに、繰り返す。



 どうしようもない。どうしようもないのだ。

 止めることは出来ない。


 私は人を傷つけずにはいられないのだ。


 誰かを傷つける瞬間、心の中が充足感で満たされる。

 何もかもがどうにでもなってしまえば良い、と言う欲望が満たされた時、溢れんばかりの、眩しい快感に身が震える。

 異常者だ――目の前で慰めてくれている彼女に、『お前は偽善者だ』と言ってやりたい。

 あの五人に、『あんたたちは全員身勝手だ』と言ってやりたい。

 そうなったら、私はもう、この中で生きて行くことは出来ない。

 生きて行くことなど出来ないだろう。




――――――――――――――――――――





 「島田」

 「雪野か」


 ふーっ、と汗を拭いつつ、島田が雪野の方を振り向いた。

 コテージの床下に空いた空間に大量の枝が置かれている。

 雪野は険しい表情を和らげた。――島田が気づいたのは、偶然だったが、すぐさま、雪野は顔を引き締めた。先ほどとは比べ物にならないほど優しいものに見えたが。


 「…枝を集めてたのか」

 「まさかお前が追ってくるとは」

 「お前を追ってきたわけじゃない」


 ソッポを向く。分かりやすい奴だ、と島田は苦笑した。

 彼の手に折り畳み傘や河童の折りたたんでいるものがある。

 成程――島田は空を見上げた。気が付けば酷く曇っている。何時雨が降ってもおかしくはないだろう。


 「俺じゃない、か。朝比奈か?」

 「朝比奈と浅川だ」

 「待ってた方が良いんじゃないか?」

 「そうしているつもりだったが」

 「雨か。気づかなかったな」


 島田は首を回しつつ、コテージを見上げた。


 「山崎と森永か。…うわ、あいつらと残るの? 俺」

 「ギリギリまで枝集めしてくれていても良い。雨が降ったら中に入ってくれ」

 「枝集めしてくれていても良いってのは、あんまりな言い回しだな」


 とは言え、別段、反発する程のものでもない。

 これが積もり積もれば爆発するかもしれないが。


 「頼む」

 「解った。それにしても、朝比奈もまだ戻らないのか」

 「ハイキングコースを走ってくるつもりだ。時間が掛かっても一時間も掛からないだろう。一応、山崎には、二時間経っても誰も戻らなければ管理人に連絡するように頼んである」

 「浅川、俺ら無視して帰ったんじゃないか?」

 「可能性もなくはないが、それならそれでいい」

 「そうだな」


――――――――――――――――――――




 ――いた。


 由香は駆け出した。足元は酷く覚束なかったが、そんなことは気にしていても仕方がない。

 『彼』の姿があった。黒色のジャージは薄暗い森の中では紛れてしまう。今捕まえなければ、もう見つからなくなるかもしれない。


 「浅川くん!」


 声に彼は振り向いた。血の気の失せた顔には、今までみたことのないような感情のない仮面のような表情が貼りついている。

 ――木の根に足を取られた。体勢が崩れる。無理矢理に自由な足を踏ん張った。彼はまた背を向け、急ぐでもなく歩き出した。

 そして姿が見えなくなる。それを幾度も繰り返していた。もう森の奥まで進んでしまっている。帰り道など、解らない。

 それでも、二人なら――根拠などはない。けれど、一人では、帰るわけにもいかないのだ。


 「ここから出られなくなるわよ!?」


 分かり切っていることだろう。それでも、彼は振り向いた。先ほどと同じような無表情で。

 唇を開く。


 「井戸を探しているんだ」


 背筋が凍りつくほど不可解な言葉だった。由香には彼が何を言っているのかまるで理解が出来ない。井戸――? そんなものがここにあるのか。そして、彼がどうしてそれを知っているのか。


 「井戸…。井戸、そ、それなら、後で皆で探しに来ましょうよ。一人じゃ危ないし、この森の中にあるなら、職員さんに聞いたら解るかもしれないし」


 ――森を管理している施設の人ならば、きっと知っている筈だ。けれども、彼は頭を振った。


 「僕はただ眠りたいだけなんだ。その中で、眠りたいだけなんだよ」

 「何を言ってるのよ…」

 「皆には関係ない」

 「関係なくない! 私たち友達じゃない!」

 「友達――」


 彼は少し考えるような素振りをしてみせた。由香はその話している間に、彼との距離を詰めていく。彼は歩き去ることをしなかった。ただ、その場で、佇んでいる。

 ――と、彼の足もとに、明らかに、自然に出来たものではない石が固められたような何かがあることに気がついた。近づいていく毎にそれが何か分かっていく。彼の傍にたどり着いた時、彼女には、それが何か、解った。



 それは、井戸だった。


 「井戸」


 口にした瞬間、どうしようもない恐怖に襲われた。恐怖――と言っていいのか解らない、只々、人を不安にさせる何かがそこにある。それは人間が持つ恐怖の大本のようなものなのかもしれない。未知の何か。自分を納得させるだけの材料のない、不可思議の塊。深い森の中に、何の意図があって、こんな井戸があるのか。


 「友達か」


 彼は無感情な口ぶりでそれだけ言った。

 そんな彼の身体が揺らいだ。ユラユラと揺れながら、その身を井戸へと投げ出す。



 由香にはそれを止めることが出来なかった。もしも、もっと早く反応出来ていれば――それが井戸であると気づかなければ、止めることも出来たかもしれない。

 それでも、これは、どうしようもないことだった。彼女は井戸の淵に手を置いて、その中を覗き込んだ。深い深い井戸の奥底に、浅川の身体は落ちていった。水が満ち溢れていれば、彼も助かるのではないか?――淡い期待を抱いた瞬間。



 ざばっ、と水音が井戸の中で響いた。

 それは重い何かが地面とぶつかった音とは思えなかった。

 ジタバタと水音が響く――


 「浅川くん!?」


 「大丈夫」


 中から声が聞こえてきた。

 声は先ほどの無表情なそれとは違って聞こえた。


 「水、入ってるとは思わなかったナァ」


 いつもと同じ、どこか遠くを見ているような。

 同年代の友人よりも、ずっと、先を歩いているような、それでいて呑気な人のいつもの声だった。


 「驚かせないでよ…」


 思わずその場に腰を下ろす――朝の雨の所為か、地面は湿っていた。


 「空井戸だと思ってたんだ」


 ――ドキッとする。

 床は思わず身体を起こした。井戸の中に顔を突っ込む。深すぎて、闇の向こうで彼がどんな顔をしているのか解らない。


 「眠りたかったんだ」


 彼は平常の彼の筈だ。

 それでも、どこかがおかしい。

 何かが、おかしい。


 「昇って来てよ…。ほら、釣瓶があるし――こ、これであがってくること、出来るでしょ?」


 井戸から返事が聞こえなくなった。










―――――――――――――――


 「朝比奈ー! 浅川ー!」


 ハイキングコースを歩く。森の外周を歩くわけではなく、その中の限られた範囲を歩くだけに過ぎない。

 それでも、その範囲に要れば、声をあげていれば、聞こえるだろう。

 雪野は大きく声をあげた――雨はまだ降っていない。降りだせば雨音にかき消されてしまうかもしれない。


 恐ろしい想像に足が止まりそうになる。泣き出しそうになる。もしも、二人が死んでしまったら――。

 雪野は自分がそういう側の人間なのだと、その時初めて自覚した。人間らしい感情など、自分が持ち合わせていないのではないか? と、自分を疑うことが多々あった。

 近しい人が死んでも、自分は悲しむことなどはないのではないか、と。


 その自覚は、喜びと共に訪れてほしいものだった。胸の中に渦巻くのは不安と恐怖だった。踏み出そうとする足が震えて動かなくなるのと反して、声だけは酷く大きく吐き出された。


 「頼む、返事をしてくれ!! 朝比奈! 浅川!」


 さっさと戻って、管理人に連絡をすべきだ。どうして二時間なんて制限をしたんだ。

 甘く見ていた。軽く考えていた。


 「一旦戻る! 頼むから、帰って来てくれ!!」


 決められたコースを外れなければ、迷うこともない。

 島田にも声掛けを頼もう。森永や山崎にも。


 (俺は馬鹿だ! 何も分かっていない癖に、何もかも分かった気になって!)


 震える足を殴りつけて、雪野は走り出した。森の中で比較的開けた道は簡易的な舗装が為されていて、木の根に足を取られるような心配はない。全力で走ればそこまで時間が掛かることもないだろう。その間に、迷った二人がコースの傍をそれと知らず歩いていたらと思うと恐ろしくもあったが、無理矢理に考えないようにする。

 そうしなければ、とても動ける気がしなかった。






―――――――――――――――――――――――








 「浅川くん…」


 ふらふらと由香は森の中を歩いていた。

 あれから幾度となく声を掛けたが、井戸の中から返事は帰ってこなかった。

 中に入って確かめようと綱に手を掛けたが、朽ちかけたそれは、触れた瞬間に千切れて落ちてしまった。

 井戸の壁面に指先で触れると、べとべととした苔が繁殖しており、降りればとても上がれたものではない。


 このままでは、浅川は死ぬ。或はもう、死んでいるかもしれない。



 由香はその場から駆け出した。助けよう、助けたい、との思いがないでもない。

 只、自分が間接的に彼を殺してしまったのだと言う恐怖の方が大きかった。





 このまま、戻れるだろうか。

 戻って、皆に、この話を出来るのだろうか。




 由香は茫然自失と歩いている。

 その内、ゆっくりと、雨粒が落ち始めた。



























 「…管理人に話をしに行こうか」

 「まだ、時間が経ってないし」

 「雪野はああ言ってたけどな、もしも大事になってたらどうするんだよ」

 「大丈夫よ。キャンプ場があるような森だし、迷ったって」

 「無責任なこと言うなよな…。…でも、そうだな。」


 島田は雪野の顔を思い浮かべた。朝比奈の顔も。浅川の顔も。

 ――大丈夫だろう。大げさに考え過ぎているだけだ。

 浅川だって、馬鹿じゃない。わざわざ森の奥深くまで足を運ぶもんか。


 「大丈夫よ。きっと、大丈夫よ。すぐに皆、帰ってくるわ」


 山崎は相変わらず無責任にいい加減なことばかりを言う。

 それでも、今回は正解かもしれない。

 島田はコテージの窓から、雪野が出かけるまで見ていた景色に目を向けた。

 皆が戻ってくれば、すぐに解る。


 「そうだな」


 島田は窓から視線を外して、山崎と、静かに俯いている森永の方を見た。

 こんな状況なら、浅川が戻って来ても、変なことにはならないだろう。


 (寧ろ、俺がしっかりと言うべきかな。…心配掛けやがって、って)


 それはそれで、どうだろう。俺のキャラに合うだろうか。


 ――島田が苦笑を浮かべて、頭を掻いていた頃、彼の背中の向こうの窓枠の中に、酷く疲れた様子で歩く朝比奈の姿が浮かんだ。

 それからすぐ後、雪野が入り込む。


 浅川の姿が映りこむことはなかった。また、もう、そこから覗き込む彼らの姿も無かった。








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