(一)ミストの魔物:ウソ、だろ……?
「そっちはどうだ?」
「いや、何もない」
少し頭を上げて、茂みの向こうを覗き見る。白い靄の中、人影らしきものがそこに見えた。
「……ゼノリスの人たちかな?」
「そうかもしれません……」
助かった……。安堵の気持ちが胸いっぱいに広がっていく。やはり少女に従って正しかった。
「向こうの方を探してみよう」
「ああ、そうだな」
人影が立ち去るかに見えて、俺は急いで立ち上がると、茂みから道路へと進み出た。後で少女の「あっ」という声が聞こえた気がしたが、俺は意に介せず、手をブンブンと大きく振って人影に呼びかける。
「待って! 助けてくださーい!」
俺の声に2つの人影が振り返る。振り返ったその目は異様に大きく、真っ赤な怪しい光を放っていた。
その怪しげな目に「はっ」とした瞬間、白い霧を切り裂いて、巨大な魔物の前脚が俺の身体を薙ぎ払っていた。
「ぐぶっ!!」
罠だということに気づいた時には遅かった……! 呻き声さえ押しつぶされて、俺の身体が宙を舞う。投げ出された身体が二度三度、地面をバウンドし、ガードレールに叩きつけられた。
激痛に耐える間すら無く、黒光りする牙を剥き出しにして突進してくる魔物の姿が目に映る!
「うわああああああぁぁっ!!!」
呻き声ともつかない酷い声をあげながら、ありったけの力を振り絞って身を捩る!
次の瞬間、俺の髪の毛数本を巻き込んで、魔物の顎がガードレールを粉々に噛み千切っていた。
「ガキングキン」と金属が歪む音が無情に響く。魔物が口を開けると、ガードレールの破片と共に、煌めく何かが地に落ちた。
……俺の、精霊プリズムだ。粉々に砕けた透明のプリズムから青色の液体が、ドロリと溢れ出る。
一瞬でもタイミングが遅ければ、俺もこうなっていただろう……。こんな時だが、モンスレのフレーム回避並みの反応だったと我ながら感心してしまう。
息が乱れて心臓がバクバクと嫌な音を立てる。俺が見つめる先、壊れた精霊プリズムの上に浮かんでいた天使の輪が突然、「フヒャアアア」と悲鳴のような声を上げ、回転し始める。思わずビクッとする俺を尻目に、天使の輪は、砕けたプリズムごと青色の液体を吸い上げると、フワッと白い靄のように掻き消えた……。
「逃さぬ────」
鼻を突く獣臭を感じると共に、低い声がした。見上げると、フシュルフシュルと異様な呼吸音を立てながら、獰猛な狂気に満ちた視線が俺を見下ろしていた。
長く突き出た口蓋に、ピンと尖った耳。顔と下半身が狼で、上半身はゴリラのような分厚い筋骨隆々とした体つき。ホラー映画に出てくるような狼男そのものだ。両拳をどっしりと地面に突き、四つん這いで俺を睨みつけている。
さらにその全身を覆う黒い獣毛は、一本一本がまるで生き物かのように、ウネウネと蠢いている。
そして頭上には、ドス黒い靄が円状に渦巻いていた。
それは時折、悲鳴にも似た怪奇音を放ちながらゆっくりと流れている。死や恐怖、怒りや憎しみが綯い交ぜになったような不気味な何か……。
言い様の無い恐怖が俺を包み込み、今すぐでも逃げ出したい衝動が駆け抜ける。だが、痛みで全身が痺れ、呼吸すらままならない。
魔物が鼻先に皺を寄せ、ニヤリと笑うかのように口角をあげる。真っ黒などデカい犬歯が煌めいて、フシュルと臭い獣臭が漂った。
「虫螻め、キサマには永遠に続く常闇で這い蹲るがお似合いよ……」
◆
「『悪魔術 』を! 悪魔術を使ってください!」
突然、魔物の向こうから少女の声が響いた。
「その傷は混沌創です! 混沌創があれば悪魔術が使えます!」
混沌創? 悪魔術……?
悪魔術って精霊魔術とは違うものなのか……?
少女の言葉の意味が飲み込めず、混乱する。激しい痛みのせいで思考も鈍っているのだろう。
「クックックッ……キサマはすでに我が手に堕ちたのよ……法則に縛られ、力を絶たれたヒトごとき、我が意志の前では塵屑同然……」
俺を睨めつける魔物の目が、一層眩く爛々とした輝きを放つ。
「無為なる存在よ、我が血肉となる悦びに沐するが良い!」
言うやいなや、魔物は両腕を高々と振り上げた! 全身の血が凍りつき、俺の視界に死の淵が見えた気がしたその時!
「バラバラッ」と何かが魔物の背中を打ち付けた。予期せぬ出来事に、魔物は横っ飛びで身を翻す。
「やめなさい! その人を喰らうのはわたしが許しません!」
少女が小石を魔物に投げつけたのだ。なんて無茶な……!
魔物が「グルル……」と低い唸り声を上げながら少女を見やる。少女は対抗するかのように、そばに落ちている一際大きな石を両手で持ち上げた。
「わたしを倒してからにしなさい!」
凛と響く声の勇ましさとは裏腹に、とてもそんなものでこの魔物に太刀打ち出来るとは思えない。一体、彼女はどうする気なんだ!?
少女は、キッとばかりに表情を引き締めると、石を手にしたまま駆け出した!
「無駄なことを……」
侮蔑と嘲笑を含んだ低い声が耳に届く。
魔物が「グオオオオオッ!」と吠え声を上げると、頭上に浮かぶドス黒い円状の靄が呼応するかのように「キヒャアアアア!」と奇声をあげる。
「(マズイ! ダメだ……やめろ!!)」
願いは虚しく、魔物が高く持ち上げた尾っぽをブンと振るうと、3本の黒い矢のようなものが勢い良く飛び出した!
黒い矢は狙いを過たず、「ドスドスドスッ!」と鈍い音を立てて少女の胸や腹に突き刺さる!
少女は大きく目を見開いたかと思うと、声もなく足をもつらせ、白い靄を巻き上げて倒れ込んだ。
「ひっ……!」
全身が、恐怖で戦慄いた。
「う、ウソだろ……し、死んだ……?」
生きてるわけがない。それでも目の前で起こった出来事が、俄には信じられなかった。
まるで悪夢を見ているようだ……。
気が付くと、魔物の赤い目が再び、俺を捉えていた────。