これは愛のない婚約だと、分かっていますから
「じゃあ、私と婚約してみない?」
その台詞が目の前の貴公子の唇から紡がれた瞬間。
「わ、わたしでよければ、喜んで!」
アメリーは食い気味に答えてしまった。
餌に釣られてしまった感はあるけれど、ちゃんと分かっている。この結婚に愛がないことくらい。自分が彼にとってちょうどいい隠れ蓑だってことくらい、弁えていますから。
* *
アメリーはヌヴェール子爵家の次女としてフラデニア王国に生を受けた。
管理する土地は小さく、近年線路を伸ばしつつある鉄道の恩恵にも与れない、平均よりも下くらいの位置にいる。それが我がヌヴェール子爵家である。
実家が凡庸も凡庸なら、生まれたアメリーもまた平均を絵に描いた娘である。
髪は薄茶色で目の色は灰緑色。背は低くもなく高くもなく、胸のサイズも大きくもなく小さくもない。同年代の娘たちが集まれば没個性として埋没するくらいには平凡であった。
娘が平凡なら、兄と姉と弟、さらには両親も笑顔だけが取り得と言えなくもないほど全てにおいて平均点。つまり我が家は一家そろっての凡庸家族なのである。
そんな没個性な娘たちに母は説いた。
「いいこと。わたしたちのような平凡な人間は高位貴族のご令嬢の取り巻きになって、おこぼれに与ることで生存競争に打ち勝つのよ」と。
実は母、少女時代はとある侯爵令嬢の取り巻きをしていた。そして、そのご令嬢の婚約者のご令息の取り巻き青年と出会い、結婚。子爵家の新妻となった。
結婚後も母は、元侯爵令嬢・現オーヴェル公爵夫人の取り巻きを続けた。彼女の生んだ子供たちの取り巻きとして自身の子を宛がうためだ。
教えを受け継いだ姉は、とある子爵家の嫡男を射止め、二年前に結婚。
次はアメリーの番だと、母から発破を受ける日々だ。
そんなアメリーの取り巻き先は、オーヴェル公爵家の三番目のご令嬢、マリオン。
輝く金の髪に、美しい容姿。公爵家のお姫様としてのびのび育てられた彼女は、人見知りとも無縁。さらに父公爵は財務大臣ときた。
そのため、今年デビュー二年目の十八歳の彼女のもとには多くの人々が集まる。
彼女自身、己の価値をよく分かっている。オーヴェル公爵家の名前に惹かれてやってくる上流階級の青年たちを適度にあしらい、適度にもてはやしながら貴重な十代の僅かな自由時間を謳歌している。
「ごきげんようファビアン。六月らしい、いいお天気ね」
今日もマリオンは、散歩に訪れたリュアンレーヌ公園にて、近寄ってきた栗色の髪の青年貴族に薔薇のような笑顔を振りまく。
「しかし、この太陽ですらあなたの美しさの前では陰ってしまう」
「まあ、お上手だこと」
機嫌よく笑うマリオンにファビアンが腕を差し出した。しかし彼女は手を置かずにゆったりとした足取りで歩き始めてしまう。
彼はマリオンの恋人でも婚約者でもない。一応、レーテル侯爵家の嫡男なのだが、マリオンの中では数いる取り巻き青年のうちの一人という認識なのだ。こうやって焦らすところもいじらしくて可愛らしく映るのだとか。
アメリーが実践したら、確実に怒らせる類のものである。
社交シーズンも真っ只中の六月の夕方五時の公園には、そぞろ歩きをする上流階級の人間たちで溢れている。
王都ルーヴェでは、領地に立つような大きな庭付きの屋敷は持てない。土地が狭いからだ。そのため人々は日光浴と社交を兼ねて公園に集うのである。
ファビアンの合流を皮切りにマリオンの周りに青年たちが集まり始める。その目的は様々だ。マリオンを信奉する者、マリオンに顔を覚えてもらい父公爵へ顔を取り次いでもらいたいと考える者、父公爵と円滑な仕事をするために娘の心証をよくしようとする者などなどなど。
人の輪はあっという間に十人くらいになった。皆が皆、マリオンの側にはファビアンが張りついているため、他の男性たちはもどかしそうにしながらも、それを顔には出さずに取り巻きの娘たちに会話を振る。するとどうだろう、取り巻き同士で顔見知りになり、友人になり、意気投合して家同士の条件が折り合えば結婚という流れになるわけだ。
まさにアメリーの母の思い描く理想的な相手探しである。
ちなみに実家の子爵家はそこまで財産はないため、母からは「いいこと、持参金を期待するような家の男性は割けるのよ」と言い聞かせられている。結婚とはつまり持参金の額によって決まる世の中なのである。
取り巻き仲間のご令嬢たちが青年たちと楽しそうに会話をする中、アメリーはというと、あぶれてしまい集団の後方をついて歩くのみ。同じくファビアンの取り巻き青年の一人も会話に入れず、自分と同じように歩いているが、かといってあぶれた者同士で会話が弾むでもなく。挨拶をしてそれきり、沈黙が漂っている。
人には向き不向きがあるのよねえ……と実感する日々である。
結果、頃合いを見計らって集団を抜け出し、木陰で読書に励む日々である。
「オーヴェル嬢、ごきげんよう。私も混ぜてもらっても?」
朗らかな声が聞こえてきた。
その途端、取り巻き令嬢たちの気配が浮足立つのが分かった。
無理もない。
切れ長の奥二重の目に高い鼻梁、形のいい唇。すらりと高い背はしかし、やせ細ってはおらず上質な黒のフロックコートの上からも分かるほど、厚みがある。誰に対しても朗らかで、多くの人の目を吸い寄せる華やかさも有するその姿は、まさに貴公子そのもの。
美貌の貴公子の登場にアメリーもまた、笑みを深めて挨拶を返す。
「まあ、エルネストったら。みんなのようにマリオンと呼んでくれて構わないのよ」
「いいえ。公爵閣下の許しを得ておりませんから」
「真面目なのねえ」
控え目な態度を崩さないエルネストにマリオンは機嫌を悪くしたでもなく、くすりと笑う。
「しばらくぶりね。相変わらずアンジネット公爵は息子のエルネストを忙しくさせていらっしゃるのね」
「隣国のカルーニャからお越しになられた客人の案内役を仰せつかっていました」
二人の会話の通り、こうしてエルネストの姿を見るのは十日ぶりくらいではないだろうか。
彼はアンジネット公爵の三男で、忙しい父とあまり表に出てこない長兄の代わりに社交に勤しんでいるのである。
マリオンに声をかけるのもその一環のうちなのだが、最近彼女を中心とした男女の輪に長く留まるようになっていた。
取り巻きたちの間では「もしかして彼もマリオン狙いかしら?」「だとしても難しいのではなくて。彼、公爵家出身とはいっても三男で継ぐものが何もないし」「じゃあ片思い?」などと囁かれている。
「昨日王都に帰ってきたので、ひとまず皆さんにご挨拶を、と」
「その話なら知っているよ。呪われた城に招待したのだろう?」
ファビアンが割って入った。声に険が乗っているように感じられるのは、内心の焦りが現れているからだろう。
「正確には、奇怪な謂れがある椅子が安置されているカルソンヌ城の見学を客人が所望したため、所有者の一員として同伴したんだよ」
対するエルネストは気分を害したわけでもなく、合流した時と同じく明るい口調で返した。
「マリー・アンジュの椅子ですわね」
「ええ、政争に負けて処刑された王女が愛したという椅子です。それ以降、あの椅子に座った者たちは皆不幸の死を遂げる。処分しようとした人間もまた、事故に見舞われて、未だ椅子はカルソンヌ城に安置されたまま」
マリオンの言葉を引き継いだファビアンがエルネストに非難の目を向ける。
「そのような椅子を見学したいなど。きみは止めるべきではないのかい。客人が呪われたらどうするんだ」
「椅子をあの部屋からどかそうとしなければ不運は訪れない。それに今は、誰もあの椅子に座れないよう、天上から吊り下げられているから」
「アンジネット卿はそう言うけれど、カルソンヌ城から呪いを持って帰ってきている可能性だってある。マリオン嬢、あなたの安全のためにも彼にはしばらくの間近寄らない方がいいでしょう」
これに乗じてエルネストを遠ざけたいという思惑が透けて見えた。
未だ友人の域から脱せていないファビアンは、今年の社交期の間に公の場でマリオンを正式にエスコートしたいのだろう。
未だ彼女は誰のエスコートも受けていないのである。舞踏会や晩餐会の入場はいつも父公爵や兄や親族といった者たちと一緒だ。
ちなみにアメリーも決まった相手がないため、以下同文。しかし、娘を安売りするつもりはないオーヴェル公爵とは違い、我が家の場合はアメリーに興味を持つ男性がいないだけなのだが。
「ファビアンったら毛嫌いしているわりにマリー・アンジュの椅子について詳しいわね」
大体この話題を持ち出してエルネストの心証を悪くしようとするため、この話題はこれが初めてではないのだ。
(三度の食事よりもこの手の話が大好物のわたしにしてみたら非常にありがたいことだわ! 今日は何か、新しい情報が聞けるかしら)
実はアメリーはホラーとサスペンスをこよなく愛しているのである。呪われた〇〇なんて曰くつきのお城も品物も大好物。流行りの恋愛小説よりも猟奇殺人や白骨死体がゴロゴロ登場する小説ばかり読んでいる。
(本当はアンジネット卿を質問攻めにしたいけれど、わたしみたいな存在認知もされていない人間が会話に割って入るわけにもいかないものね)
だから毎回、この話題が出るたびに耳をそばだてて聞き入っている。あのお城を受け継ぐアンジネット公爵家の人間だからこそ知る話が繰り広げられるのを期待して。
「椅子ではなく我がフラデニア王国の歴史について詳しいのですよ」
「そういうことにしておいて差し上げるわ」
「実際のところ、ただの椅子ですよ。観賞して帰還した今もピンピンしています」
それでもロマンがあると思うのだけれど。いいなあ、関係者は。いつでも観に行けて。
羨ましさについエルネストをじっと見つめてしまう。
「そうだ。今度、オーヴェル嬢もカルソンヌ城にお越しになられませんか」
名案だとばかりにエルネストが言った。
さらに彼は、アメリーを含めた取り巻き令嬢たちへ視線を巡らせる。
次の瞬間。
目が合ってしまった。そうと認識するのと同時に、彼がふわりと微笑んだようにも思えて、アメリーは慌てて下を向いた。
「――もちろん、ご友人方も一緒に」
顔を見合わせる取り巻き令嬢たちから漏れ出るのは、戸惑う気配。明らかに気乗りしない様子が窺える中でただ一人。
(え、行きたい! めちゃくちゃ訪問したいわ‼)
アメリーだけは期待に胸を躍らせていた。
(生でマリー・アンジュの椅子を拝めるなんて、これを逃したら一生巡ってこないもの! お願いマリオン、行くって返事して~~~~‼)
胸の中で一生懸命祈ったものの。
「わたくしは怖くはないけれど、お父様が心配をしてしまうからやめておくわ」
父を理由にマリオンが断ってしまったため、アメリーはがっくりと項垂れたのだった。
* *
「あーあ。行きたかったなあ、カルソンヌ城」
王都ルーヴェのとある貸本屋の書架の前を歩きながらアメリーは溜息を吐いた。
何せカルソンヌ城とマリー・アンジュの椅子は、ホラーを愛する界隈では有名なのだ。
ことの始まりは今から百十年前の王の時代。六人いた王の子供たちが夭折し、残った王女二人の後見にそれぞれ貴族がつき、王位争いとなった。妹に負けた姉マリー・アンジュは幽閉されることとなり、選ばれたのがアンジネット公爵家が所有するカルソンヌ城であった。王女はこの城に父王から贈られた気に入りの椅子を持ち込み、座ることで寂しさを紛らわしたという。
人々はマリー・アンジュをすぐに忘れてしまったが、女王となった妹王女は、いつか彼女が復讐するのではないかと怯えた。そして罪をでっち上げて処刑したのだ。
その後、その椅子に座った者が次々と不可解な死を遂げたことで、呪われた椅子と称されるようになったのだ。不気味に思い処分しようと命じても、作業者が道中馬車に轢かれたり、屋敷に入る直前に心臓発作で亡くなったりと、不運が続き、呪いの話に拍車をかけた。
そんないわくつきの椅子、ぜひとも拝んでみたい。あの時マリオンが「行きたい」と言えば、お供しますと手を上げる気満々だったのが、人生とはそうはうまくいかないものである。
「うーん……これといって借りたいものはないわね」
予約待ちをしている本はどうだろう。カウンターに行って尋ねれば、運よく一冊順番が回ってきていたため、それを借りることにした。
人気作家の新作『コレンヌ渓谷の骸骨屋敷』である。題名からしてわくわくしてしまう。主人公が訪れたとある屋敷の地下から多数の白骨体が発見されるところから始まるらしい。新聞の広告欄で目にした時から読みたくてたまらなかった。
家で読んで母に見つかると面倒なので、公園散策の際にこっそり読んでいるのだが、それまで待てるだろうか。
アメリーのこの趣味を知った母は「女の子が血生臭い話を好むなんて、嫁の貰い手がなくなったらどうするの!」と大激怒で、それ以来家の蔵書にホラーやサスペンスといった本を加えられなくなってしまったのだ。苦肉の策として侍女の一人を買収してこっそり貸本屋に通っている。
ほくほく顔で扉を開けた時のことだった。
「うわっ」
外からやってきた人物とぶつかりそうになり、アメリーは慌てて立ち止まった。
「ご、ごめんなさい」
「いや、こちらこそ」
目の前に立つフロックコート姿の男性を認めたアメリーは固まった。
だって目の前に佇んでいるのがエルネスト・アンジネットだったからだ。
この貸本屋はルーヴェの官庁街の近くにあるため、周辺で働く者たちが入用とする法律や経済などの専門書から各年代の名鑑や辞典まで幅広く取り扱っているのだ。
だから彼がここを訪れても不思議ではない。
こっちは彼をよく存じているが、向こうはマリオンの取り巻き娘の顔まで覚えてはいないだろう。
だというのに。
「その作品、気になっていたんだ。読んだら感想を聞かせてもらっても?」
まるで友人に対するようにエルネストが話しかけてきたからアメリーはびっくりしてしまったのと動揺とで胸が早鐘を打ち始めた。
(わたしの趣味がバレた!)
こってこてのホラーサスペンスを手に持っている時点で時すでに遅し。
そして彼は自分を認識している。マリオンの取り巻きの一員として。
ひとまずアメリーは逃亡を選んだ。
彼の横をすり抜け、外に出た直後。
「危ない」
ぐん、と腕を引かれた。
危うく通行人とぶつかるところだったらしい。
衝突を免れたアメリーは「ありがとうございます」とお礼を言った。
そのついでにもう一言、願いを口にする。
「あ、あの。この趣味は秘密にしてくださると助かります」
「私がカルソンヌ城の話をし始めると、わくわくした顔を向けてくることも?」
「!」
なんということだ。バレバレであったらしい。
「……実はこの手の話が大好きでして」
身を小さくしながらぼそぼそと言い訳をして、さらに「すみません」と付け加えた。
歩き始めたエルネストに続いてアメリーも足を進める。
「気にしていないよ。現に先日も好奇心旺盛な客人を案内したわけだし」
「正直、とっても羨ましかったです!」
つい食い気味に食いついてしまう。
「一度でいいからマリー・アンジュの椅子を観賞したいのです。だからこの間、マリオンがあなたの申し出を受けてくれないかなあと念を送ったのですが」
大好きな話題とあって、ついつい余計なことまで口にする。
「断られてしまったね」
「そうなんです! わたしのような立場の人間ですと、マリオンの付き添いくらいでしかあのお城を訪れるチャンスがないので、すごく残念でした」
「きみは確かヌヴェール子爵家の出身だったね」
「ご存じだったのですか?」
目を丸くするアメリーにエルネストがふわりと微笑んだ。
マリオンの取り巻きたちの家柄について頭に入れているらしい。頭脳明晰との噂は伊達ではないらしい。
ふと、彼が立ち止まった。
「じゃあ私と婚約してみない?」
「ええ⁉」
突然何を言い出すのだ。同じく足を止めたアメリーは素っ頓狂な声を上げた。
「そうすればきみはカルソンヌ城にも入り放題。もちろんマリー・アンジュの椅子も眺め放題」
それはアメリーにとって殺し文句であった。
理性が吹き飛んだ瞬間とも言えた。
「わ、わたしでよければ喜んで!」
気付けばそう叫んでいたのだった。
* *
曰くつきの椅子の鑑賞権利に釣られて婚約の返事をしてしまったアメリーではあるが、こちらとて理解はしている。この婚約に愛のないことくらい。だって彼は足繫くマリオンのもとへ通っていたのだ。
彼女に想いはよせているが、爵位を継ぐ立場にない三男。夫候補と名乗り出てもファビアンには劣るであろうとは想像に難くない。それに国外にも候補となる貴公子はたくさんいるのだから。
苦肉の先として彼はマリオンの取り巻きを妻としようと考えたのではないか。そうすれば今後も彼女を近くで感じられる。
そうと思案していたところに、都合のよさそうなアメリーが現れたから声をかけたのだ。なるほど、と頷いた次第だ。こちらも餌に盛大に食いついた自覚はあった。彼の妻となればアンジネット公爵家の一員としてカルソンヌ城を訪れることができる。最高だ。
婚約自体は、とんとん拍子に決まった。我がヌヴェール子爵家は諸手を挙げて受け入れた。継嗣ではないとはいえ相手は目上の公爵家の御曹司。縁戚になれるだけでも御の字である。
アンジネット公爵もまた三番目の息子の結婚となれば、相手が爵位を有していればそれでいいくらいの感覚なのかもしれない。反対されなかったそうだ。
新聞の社交欄に二人の婚約が掲載された直後に注目の的となった時だけ、ぐったりしたけれど。
麗しの貴公子を射止めたアメリーに対して適齢期の娘たちは多少の羨望とやっかみの視線を浴びせたものの二言目に出るのは「でも彼ったら、継嗣ではないですものね」「公爵家と縁続きになれるとはいえ、エルネスト様はお兄様の補佐止まりですものね」という言葉たち。
マリオンもまた「驚いたけれど、あなたとならお似合いじゃないかしら。彼、三男だし」との感想を口にした。
エルネストは伝統ある公爵家の面子もあるのだろう、お飾りの妻が決定しているアメリーにも優しく接し、頻繁に手紙を書いて寄越し、さらに足繁く子爵邸に通ってもくれた。
社交の場でも彼はアメリーをエスコートしてくれるし、公園で出会えばマリオンとの会話もそこそこにアメリーの隣を歩いてくれる。
そのような様子にファビアンも安心したようだ。エルネストに突っかかるような真似はしなくなった。
優しいエルネストはアメリーの趣味にも肯定的で「うちで読書をしたらいいよ」と公爵邸に招いてくれもする。
最初こそ怖気づいたものの「あの著者の新刊を買ったんだけどなあ」と言われれば、欲望の前に遠慮など吹き飛んでしまった。訪れた公爵邸の彼専用の居間に置かれた書棚には人気作家のシリーズ(※怪奇ホラーもの)が揃えられており、結果として蔵書目当てに足繁く通うようになった。
読書に励むアメリーの近くでエルネストもまた仕事関係の読書をしたり、コーヒーを飲んだり、時には感想を言い合ったり。
愛のない婚約とはいえ、こちらをないがしろにするでもなく友好的に接してくれる彼のおかげで友人のように気負いなく話せるようになっていた。
「呪いっていうのは、心の作用が見せる錯覚だという考えもあるそうなんです。たとえば白い粉を飲んだとするじゃないですか。実は毒だと聞かされた途端に具合が悪くなる……なんて事例があるそうで。つまり呪いの椅子だって同じだと思うのです。始まりはただの偶然で不幸な事故だったのを誰かがマリー・アンジュの呪いと結びつけた」
「あの椅子に座ったから、撤去しようとしたから自分にも不幸が訪れる。そうと自ら暗示をかけてしまった……というのがアメリーの見解?」
「そこまで大袈裟なものではありませんけれど。そういう効果もあるのかな、と」
アメリーは肩を竦めた。
「だから、実はちょっとマリー・アンジュの椅子に座ってみたい気持ちもあるんですよねえ」
「いや、普通にだめだろう」
好奇心を疼かせるアメリーにエルネストが即答した。
「えええ~」
「万が一、きみに不幸が訪れたらと考えると苦しくなるからだめ」
不満を表すと、思いのほか真剣な顔と声で言われてしまい、アメリーは口を噤んだ。
「私を悲しませないでくれ」
「……分かりました」
念を押されて頷けば、彼は「よかった」と胸を撫で下ろした。
そんな態度を見てしまえば、胸の奥がくすぐったくなった。
分かっている。彼は友人として、そしてあの椅子を管理する一員として心配し、懸念を露にしただけ。
だというのに、二人で過ごす穏やかな時間にどんどん慣れてしまう自分もいて。
「エルネスト様、お茶のお代わりを淹れますよ」
「ありがとう、アメリー」
彼となら穏やかな家庭が築けるのではないかと、アメリーはうっかり希望を抱いてしまったのだ。
* *
それは、新しい年を向かえて二か月を過ぎた頃に起きた。
ある報せがフラデニア上流階級を席巻した。
なんと、アンジネット公爵家の後継者にエルネストが選ばれたというのだ。
彼は現公爵の三番目の息子だ。だがすでに長男と次男は継承権破毀の書類に署名をし、法務省に提出されており、さらには国王の承認も得ているのだという。
まさに青天の霹靂であった。目を白黒させるアメリーの前でエルネストが説明をしてくれた。
それによると。
アンジネット公爵のご長男は子供の頃から気弱で、表に出る性質ではなかったらしい。それでも後継者として育てられはしたものの、性格が治るわけでもなく、さらに次男・三男が社交的な性格だったこともあり、引け目に感じたのか気鬱を発症し、近年では外に出ることすら難しくなってしまったのだという。
結果、アンジネット公爵は次男と三男、どちらかを継嗣とすると決めたそうだが、ここで予想外のことが起きた。
なんと、西の海を隔てた先に建つ共和国に遊学中だった次男が、あちらの議員の娘と恋仲になり、結婚すると言い出したのだそうだ。共和国で骨を埋める覚悟のため、公爵位は継げない、うちにはまだエルネストがいるから、そっちはそっちでよろしくやってくれとの手紙が届いたのだそうだ。
その結果、三男のエルネストに将来の公爵位が回ってきたのだった。
最近の彼はこの件で忙しいらしく、事情説明のために子爵邸を訪れて以降、なかなか会う機会がない。
そんなある日、マリオンが尋ねてきた。
部屋に通した途端、彼女は言った。
「ねえアメリー。エルネストをわたくしに譲って」
「え……?」
前置きもなしに告げられた言葉に、胸がひやりとした。
顔色を失くすアメリーに向けて彼女は続ける。
「エルネストがあなたと婚約したのは……わたくしとの結婚が叶わない立場だったからでしょう」
彼女もまたエルネストの行動原理を見抜いていたのだ。貴族社会をよく知るからこそ、彼の立場ではマリオンを求められない。側に居続けるために取り巻きの一人を利用したのだと。
「障害はなくなったもの。今の彼なら、お父様も反対はしないわ」
「でも、あの……レーテル卿は……」
口から出たのはファビアンのことだった。
アメリーがエルネストと婚約して半年以上が建った現在、マリオンはついにファビアンにエスコート役を許したのだ。
先日行われた建国記念式典の舞踏会にて、彼女は両親とファビアンを従えて入場したし、一曲目も彼と踊った。人々の目には、二人が婚約間近であると映ったはずだ。
「あら、彼だって自分たちはまだお友達のままだって分かっているはずよ」
マリオンはなんてことない風に笑いながら答えた。
「今度、エルネストに手紙を送るわ。あなたも分かっているでしょう。彼にはわたくしのような出自の妻が必要なことくらい」
十分に理解している。言い返せないでいるアメリーに安心したのか、マリオンはそれだけ言って去ってしまった。
* *
胸が重い。苦しい。別れを告げるために便箋を取り出したもののなかなか書き出せない。
そういえば、まだカルソンヌ城に連れて行ってもらっていなかった。こんなことなら結婚後を待たずにさっさと訪れておくべきだった。最後にマリー・アンジュの椅子だけ見たいですと書いてもいいだろうか。優しい彼は、快く招待してくれるだろう。
でもきっと、彼はついてきてはくれない。案内役は誰か代理人が立つだろう。
そうと考えた途端、胸がずきりと痛んだ。
いつの間にか、こんなにも彼の存在が大きくなっていたのだ。
アメリーの趣味を受け止めてくれて、読書の時間を共有して、あの静かな居間で寛いで。あの時間が大好きになっていたのだ。
ポタリ、ポタリと雫が落ちた。
泣くなんてらしくない。
最初から分かっていたはずなのに。
エルネストはマリオンの側に居続けるために自分を選んだにすぎないのだと。
「わたしのばか……」
そうと呟いたアメリーは新しい便箋を取り出し、エルネストに向けて手紙を書いた。
* *
最後にもう一度会いたい。
別れは自分の口から言おう。
未練がましいが、許してほしい。彼の姿を目に焼き付けておきたかったから。
約束の日、アメリーはアンジネット公爵邸を訪れた。
思えばすっかり執事とも従僕とも顔見知りになっていた。彼らはいつものようにアメリーを二階にあるエルネストの専用の居間へと案内してくれた。
「アメリー、最近あまり連絡ができなくてすまなかった」
「いいえ。お忙しいのは分かっていますから」
事前に練習した通り、顔に笑顔を貼りつける。
飲み物を供した接客係が退出したのち、エルネストが切り出した。
「ここはアメリーの居場所なんだから、私が留守でも気軽に尋ねておいで。ああそうだ、新刊が届いていたんだった」
そう言って立ち上がった彼が件の新刊をアメリーの目の前に置いた。確かに好きな著者ではあるけれど。
いやいや、そうではなく。
今日はちゃんと、別れを伝えに来たのだ。
「エルネスト様、最後まで気遣ってくださりありがとうございます」
その言葉に引っかかったのか、エルネストが僅かに眉根を寄せる。
「でも今後は貸本屋を利用しますので大丈夫です。これまでわたしの趣味につき合ってくださりありがとうございました」
「アメリー、それは一体どういう意味?」
困惑する様子を見せるエルネストに、アメリーの胸が痛んだ。
分かっているくせに。
「将来アンジネット公爵位を継がれるのですから、もうわたしを隠れ蓑にする必要もございませんものね。わたしは身を引きますので、どうぞ安心してマリオンに気持ちをお伝えになられてください」
にっこり笑顔で、未練など感じさせずに。そうと意気込んでいたのに、最後だけくしゃりと顔を歪ませてしまった。
ああだめだ。涙が溢れそうになる。こんなの、全然格好よくない。惨めになんてなりたくないのに。
アメリーは慌てて立ち上がった。
「今日はこれだけお伝えしたかったので、失礼しますね」
何とか笑顔を浮かべてそれだけ言った。
そして踵を返しかけたその時。
気付けば、背後からエルネストに抱き締められていた。
こんな近い距離、婚約してから初めてだ。
「私が結婚したいのはアメリー、きみだけだ」
「……っ!」
耳元で囁かれた言葉が信じられなくて。
でも、熱のこもった声に胸がトクンと高鳴って。
アメリーの思考が停止する。
「オーヴェル嬢にも同じ言葉を伝えた」
「でも、あなたはずっとマリオンに会いに――」
「あれは単なる社交だ。父親同士が政界に身を置いていて、時には対立することもあるだろう。子供世代の仲は悪くありませんって周囲に見せる意味もあった」
「……えぇ?」
思わず振り返って彼を見上げれば、エルネストは笑みを深めた。
「私にはもうアメリーがいるだろう?」
「でもマリオンの取り巻き紳士たちの中に入っていたじゃないですか」
「その輪に入らないと、きみに会えないじゃないか」
「⁉」
さっぱり意味が分からないのだけれど⁉
「何か熱心な視線を感じるなと思ったのが最初のきっかけだった。でも私自身に興味がある態度でもなくて首を傾げたんだ。ファビアンからカルソンヌ城についてからかわれるたびにきみから熱い眼差しを受けて気がついた。ああそうか、カルソンヌ城に興味があるのかって」
「……だいぶ分かりやすかったんですね」
気付かれていないと考えていたのになんてこと。恥ずかしすぎる。
「いつの頃からかアメリーに見つめてもらうためにリュアンレーヌ公園に通うようになった」
「……」
それが本心だという目を向けられては、どう返していいのか分からなくなる。
「この子は呪いの椅子が怖くないんだ、むしろ興味があるんだって思ったら気になって。しかも貸本屋ではいつもホラーとサスペンスの書架の前で作品を吟味していただろう」
「あのぶつかりそうになった時が初めてじゃなかったのですか⁉」
「女性の客は珍しいから何となく眺めていたら、カルソンヌ城好きのヌヴェール嬢だってすぐに分かった」
「……」
まさかの認知に目を泳がせた。
「だからあの時、カルソンヌ城を餌にしたら釣れるかなって思ったら一発だったから嬉しいのと同時に切なかった」
こちらの背中に両腕を回したまま、エルネストは非常にいい笑顔で続ける。
「まあでも、婚約期間中に囲い込めばいいかって考え直した。何しろ我が家にはアメリー垂涎のマリー・アンジュの椅子もあるわけだし」
「ええと、つまりエルネスト様はわたしを面白い女だと思って婚約をしてみようという気に?」
「面白いだけで結婚したいとは思わないさ。アメリーは人の噂には加わらないだろう。それから人の悪口も言わない。女性たちのお喋りの声は案外、聞こえてくるもので、私自身の評価もよく知っている」
「それは、ええと」
「そういうところも信頼できるなって感じたから好意を持った。一緒になりたいと思った。さっきも言ったけれど、マリオンから前々から好きだったと言われたけれど、私にはアメリーがいるから遠慮するって断りを入れた」
どうやらマリオンはアメリーが婚約解消を伝えるのを待たずに行動に移したらしい。
互いの障害は取り払われたのだから気持ちを隠す必要はないとか何とか。
「私を追いかけても時間の無駄だし、あまりファビアンを焦らしすぎると彼も逃してしまうよって伝えた。実際、彼は彼で隣国の公爵家のご令嬢を紹介してもらったらしい」
ここで選択を間違えるとファビアンですら手に入らなくなる恐れがあるということだ。
もしかしたら今頃彼女はファビアンに可愛らしい手紙を書いているかもしれない。
「だからアメリー、そろそろ私の方を向いて。でないとマリー・アンジュの椅子に嫉妬してしまう」
「……もうとっくにエルネスト様の方を向いていました」
甘い目で見つめてくる彼を直視できなくて、思わず下を向いてしまう。
でも彼は許してくれなくて。
両頬を手のひらで包まれて上を向かされた。
「気持ちを聞かせて」
「好きです、エルネスト様」
「私もアメリー、きみを愛している」
囁きのあと、彼の顔が近付いてきたからアメリーは慌てて目を閉じた。
* *
そうして春を迎え、二人は無事に結婚式を終えた。
実は、長兄に代わり爵位を継ぐ条件としてアメリーとの結婚を提示したのだとあとになって教えてくれた。
もちろん、念願だったカルソンヌ城もエルネストと一緒に訪れて、マリー・アンジュの椅子の実物を前に大興奮した。
この感動を多くの人々と共有したいと、カルソンヌ城をホテルに改装する案を出し、各国にいるホラー怪奇ファンを喜ばせたのは別の話である。
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また、10月16日に『王太子の最愛姫』のコミックス1巻が発売となりました!
篠原先生によるとっても美しい作画が目印です。
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