表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

「若くて可愛い彼女と暮らすから、お前は出ていけ」と私を捨てた旦那様へ。私がやっていた『裏の仕事』が回らなくてパニックらしいですね。不倫相手にも見捨てられて投獄とか、本当にご愁傷様です♡

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/03/26

 秋の夕暮れが、バース邸のサロンを琥珀色に染めていた。

 暖炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが響く中、セレスティーナ・ランベールは、いつものように書き物机に向かい、夫の明日の会議資料を手直ししていた。誤字を直し、論旨の破綻を繕い、数字の辻褄を合わせる。結婚して三年、毎晩繰り返してきた作業だった。


 ペンを走らせる手を止めたのは、廊下から聞こえてきた甲高い笑い声のせいだった。女の声だ。聞き覚えのない、若く甘い響き。それに重なるように、聞き慣れた夫の低い笑い声。

 

 程なくしてグラン・バースが、見知らぬ若い女性の腰に手を回して入ってきた。


「聞け、セレスティーナ」


 グランが脚を組み直し、自分の妻を見下ろした。金色の巻き毛と形のいい顎。整った鼻筋に、薄い唇。顔だけは──本当に顔だけは──王都の社交界で「美丈夫」と呼ばれるに足る男だった。下級貴族の三男坊という出自すら帳消しにする、天が与えた唯一の武器。

 その武器を最大限に活かして、グランは筆頭伯爵家の令嬢であるセレスティーナを射止めた。実家の政治力と妻の実務能力を足がかりに、異例の速さで財務省の次長にまで上り詰めた。もっとも本人は、全てが自分の実力によるものだと心の底から信じ込んでいたが。


「今日から俺は、彼女──リリアーヌ・フォン・ピッケルと暮らすことにした」


 隣の女性──リリアーヌが、花のような微笑みを浮かべて小首を傾げた。淡い金髪が肩の上で揺れる。碧い瞳、白い肌、形のいい唇。二十歳そこそこの、確かに可愛らしい娘だった。ピッケル男爵家の令嬢。かつては財務畑の名門として知られたが、先代当主の放蕩で没落寸前と噂されている、あの家の。


「……それは、どういう意味でしょうか」


「お前は本当に野暮な女だ。離縁しろという意味だと何故わからん」


 グランがため息をつき、テーブルの上に一通の書類を叩きつけた。


 平民が使うような、簡易的な離縁状だった。本来、高位貴族の婚姻解消には両家当主の合意と王室への届出が不可欠だ。こんな紙切れ一枚で済むはずがない。だが──夫側の署名欄には、すでにグランの派手なサインが堂々と書き込まれていた。


「俺は異例の若さで財務省の次長に抜擢されたエリートだ。お前のような地味で可愛げのない妻は、俺の隣にふさわしくない」


 地味で可愛げのない。三年間、耳にタコができるほど聞かされた言葉だった。セレスティーナは派手な容姿ではない。栗色の髪を一つに束ね、化粧は最低限、ドレスは実用的なものを好む。社交界の華になるタイプではなかった。その代わり、二つの外国語を操り、複式簿記を暗算でこなし、外交儀礼の作法を完璧に心得ていた。筆頭伯爵家の長女として仕込まれた教養と実務能力は、王都の官僚ですら舌を巻くほどだった。


 そもそも、なぜ筆頭伯爵家の長女が下級貴族の三男坊などに降嫁したのか。それは愛でも政治的思惑でもなく、祖父の代の「絶対の恩義」が原因だった。かつての戦役で、グランの祖父がセレスティーナの祖父の命を救った際に交わされた『いつか必ず両家を縁付かせる』という古い誓約。その呪いのような約束を果たすための供物として、彼女はバース家に嫁がされたのだ。

 愛のない結婚と、無能で傲慢な夫。それでも伯爵令嬢としての「義務」を果たすためだけに、彼女は今日まで不満を呑み込み、懸命に尽くしてきた。


 だがグランにとって、そんなものは何の価値もなかった。


「若くて可愛いこいつこそ、俺の女に相応しい。お前は邪魔だから着の身着のままで出ていけ」


 グランは芝居がかった仕草で腕を組んだ。その背後で、リリアーヌがうっとりした目で彼を見上げている。「素敵な旦那様……」と聞こえるか聞こえないかの小声で呟くのが、セレスティーナの耳に届いた。


 あまりにも酷い仕打ちだ。

 にも関わらず、セレスティーナの胸の内に湧くのは、『歓喜』だった。


 ──だって、このお荷物から解放されるのだから。


 三年間。毎晩毎晩、誤字だらけで論旨が崩壊した政策案を一から書き直した。グランが宴席で口走った致命的な政治的発言──「東方辺境伯は無能の代名詞だ」だの「王太子の政策は小学生の作文だ」だの──を、裏社交で頭を下げて揉み消した。グランが「俺の実力で勝ち取った」と豪語する昇進の全てが、セレスティーナの見えない手に支えられていた。


 それが、終わる。



 今日で、終わる。



「……わかり、ました」


 セレスティーナはうつむいた。肩を震わせた。涙をこらえているように見えただろう。実際は、こみ上げてくる笑いを必死に噛み殺していた。唇の内側を強く噛んで、何とか神妙な顔を保った。


「なら、さっさとサインしろ」


 グランに促され、セレスティーナは離婚届を手に取った。手が震えた。嬉しさのあまり。

 光の速さで、妻側の署名欄にペンを走らせた。インクが乾くのすらもどかしいほどだった。


 (本来、家同士の合意がない離縁状など無効だけれど……まあ、いい。面倒な法的手続きなんて後で私がどうとでも料理できる)


「……随分あっさりだな」


 一瞬、グランの表情に不安が過ぎった。もう少し泣きすがられるか、あるいは怒り狂われるかと予想していたのかもしれない。だが隣のリリアーヌが「旦那様ぁ」と甘えた声で腕にしがみつくと、グランはすぐに尊大な表情を取り戻した。


「未練がないなら話が早い。ああ、それと。俺の稼ぎで買った家具には触るなよ」


 あの家具は全て、セレスティーナの持参金で購入したものだ。カーテンも、食器も、書斎の本棚も。だが──もう、どうでもよかった。家具の一つや二つで、この解放感は買えない。

 セレスティーナは自分の書き物道具と、母から受け継いだ懐中時計だけを革鞄に入れた。三年間暮らした屋敷の廊下を歩き、玄関の扉を開けた。


 外に出た瞬間、秋の夕風が頬を撫でた。空が高い。雲一つない、深い青。

 セレスティーナは大きく息を吸い込んだ。


 胸の奥にわだかまっていた、三年分の重い空気が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。



 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲



 翌朝、グラン・バースは人生で最高の気分で目を覚ました。


 柔らかな寝台の隣には、若く美しいリリアーヌが眠っている。鬱陶しい妻は出ていった。もう誰にも小言を言われない。今日から自分は、名実ともにエリートとして、自由に振る舞える。

 鏡の前で入念に髪を整え、最高級の仕立ての上着に袖を通し、グランは意気揚々と財務省に登庁した。

 そして、自分の執務室で凍りついた。


 机の上には、セレスティーナが残していった膨大な資料が積まれていた。次の御前会議に向けた予算案の草稿。各省庁への根回し文書。過去三年分の収支報告書の下書き。税制改正に伴う歳入予測の修正案。外交費の費目別内訳。

 その全てが──読めなかった。


「……何だ、これは」


 セレスティーナは資料を独自の分類記号と略号で整理していた。彼女にとっては当然の専門的体系だった。外交官だった父から受け継いだ文書管理術に、自身の財務知識を組み合わせた、極めて合理的なシステム。だがグランにとっては、一文字たりとも解読できない暗号だった。

 いや、正確に言えば、分類記号の問題だけではなかった。仮に平易な文章で書かれていたとしても、書かれている内容そのものが、グランの理解力を遥かに超えていた。「長期修繕費の分割計上」「対外債務の繰延処理」「金貨の品位改鋳への対応」──セレスティーナが毎晩、暖炉の灯りの下で何時間もかけて組み上げていたものの正体を、グランは初めて目の当たりにした。

 ほんの少しだけ、理解した。

 自分がこれを作れないということだけは。


「くそ。あの女、嫌がらせで暗号なんか使いやがって」


 グランは自分の無能を受け入れる回路を持っていなかった。だから、「妻の嫌がらせ」という結論に落ち着いた。こうなったら自分で一から作るしかない。グランは部下に過去の資料を持ってこさせ、それらしい文言を切り貼りし、数字は適当に前年度のものを流用した。見栄えだけは整えた。中身が伴っているかどうかは、グラン自身にも判断がつかなかった。


 徹夜明けの重い体を引きずって帰宅すると、リリアーヌが食堂でワインを用意して待っていた。


「おかえりなさいませ、旦那様。お疲れのご様子ね」


「ああ……。あの女が残した資料が滅茶苦茶でな。読めたものじゃない。俺一人で全部作り直す羽目になった」


 グランは椅子に崩れ落ちるように座り、ワインを一気に煽った。愚痴が止まらなかった。あの無能な元妻がいかに杜撰な仕事をしていたか、自分がいかに苦労して尻拭いをしているか──事実とは正反対のことを、グランは心底信じ込みながら語った。

 リリアーヌは微笑みながらワインを注いでいた。相槌を打ち、「大変でしたわね」と労いの言葉をかけ、完璧な恋人を演じていた。

 その手が、不意に止まった。


「まあ、旦那様。それほどお困りなら……少し、書類を見せていただいても構いませんか? 私でよければ、整理のお手伝いくらいは」


「お前に財務の書類がわかるのか?」


「父が男爵家の家計を立て直そうとしていた頃、少しだけ帳簿を見ておりましたの。ほんの真似事ですけれど」


 グランは鼻で笑ったが、断る理由もなかった。セレスティーナの残した資料の束と、自分ででっちあげた新しい資料の両方を、リリアーヌに渡した。

 リリアーヌは受け取ったそれらを、丁寧に──しかし素早く──読み始めた。


 没落寸前とはいえ、ピッケル男爵家は元を辿れば財務畑の名門だった。三代前の当主は大蔵卿を務め、二代前は王立銀行の監査役を歴任している。リリアーヌ自身、先代当主の放蕩で膨れ上がった借金と格闘し、債権者との交渉を十代の頃からこなしてきた女だった。財務書類を読む力は、並の官僚を凌ぐ。

 だからこそ、一目でわかった。


 セレスティーナの資料は、完璧だった。分類記号こそ独特だが、その中身は驚嘆に値する精度で組まれている。歳入予測の算定基礎、費目間の連関分析、税制変更の影響試算──どれをとっても、王都随一の水準だった。

 翻って、グランがでっちあげた資料は──。

 リリアーヌは無言でページをめくった。数字に根拠がない。論旨が途中で迷子になっている。前年度の数字をそのまま貼り付けた箇所が三か所。税制改正が全く反映されていない。控えめに言って、素人の落書きだった。


 リリアーヌは資料を閉じた。

 ゆっくりと、顔を上げた。


 ──この人、ただの無能じゃない。

 今までの完璧な政策案、あの緻密な予算案、各省庁が舌を巻いた報告書。全部──全部、あの奥さんが書いていた。


 不良物件を(・・・・・)掴まされた(・・・・・)


 リリアーヌの胸の中で、冷たい計算が回り始めた。ピッケル男爵家を立て直すために、「仕事のできるエリート」の隣を勝ち取ったはずだった。そのために、三年かけて社交界で情報を集め、グランに近づき、妻の座を奪い取った。──奪い取ったものが、空っぽの箱だったとは。

 だが、リリアーヌは泣き喚くような女ではなかった。損をしたなら、損を取り返す。それがピッケル男爵家の流儀だった。

 ふと、セレスティーナの資料の中に、不自然な帳簿の修正痕を見つけた。数字が二重に書かれ、片方が消されている。リリアーヌの目が細くなった。これは──公金の流用を、誰かが揉み消した痕跡ではないか。


「……旦那様、お疲れですわね。お先にお休みになって?」


 リリアーヌは変わらぬ微笑みでグランを寝室に送り出した。

 一人になった食堂で、グランのワイングラスを片づけながら、リリアーヌは静かに唇を引き結んだ。

 その碧い瞳は、もう恋する女のそれではなかった。

 損切りの時期と方法を冷徹に見極める、商人の目だった。



 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲



 数週間が過ぎた。


 王城の大広間。御前会議の日。

 高い天井から幾筋もの光が差し込み、大理石の床を白く照らしている。長卓の両側には、王族、大臣、各省庁の次長級以上の高官が居並んでいた。この国の政を動かす者たちが一堂に会する場──官僚にとって最大の晴れ舞台であり、同時に、最大の処刑台でもある。


 セレスティーナ・ランベールは、その席に着いていた。

 ただし、もうグランの妻としてではない。宰相シャルトル・アッシェンバッハの筆頭補佐官として。


 離婚後、実家に戻ったセレスティーナの元に、宰相府から一通の書状が届いた。差出人はシャルトル本人。『貴女の実務能力を、正当に評価したい。一度、話をさせてほしい』。短く、飾り気のない文面だった。

 シャルトルは以前から気づいていたのだ。財務省の次長が提出する完璧な書類──その筆致が、次長本人の口頭報告の粗雑さと全く噛み合わないことに。書類を書いている人間と、提出している人間が、別人であることに。


 今、セレスティーナはシャルトルの斜め後ろに控えている。黒髪を後ろに撫でつけた、冷たい灰色の瞳をした青年。二十八歳で宰相に就いた、実力主義の権化。感情を表に出すことは滅多にないが、今日に限っては、薄い唇の端がわずかに──本当にわずかに──持ち上がっていた。


「セレスティーナ嬢。今日は楽しめそうだ」


「お行儀が悪いですよ、閣下」


「事実を述べただけだ」


 開始の鐘が鳴った。


 議事が進み、いくつかの報告が滞りなく終わった後、財務省の番が回ってきた。

 グラン・バースが壇上に立った。自信に満ちた笑顔。金色の巻き毛を整え、仕立てのいい上着の襟を正す。見栄えだけは相変わらず完璧だった。この男は、自分が今まさに崖の淵に立っていることに、まだ気づいていなかった。


「──では、次年度の歳出見通しについてご報告いたします」


 最初の数分間は、暗記してきた文言を流暢に読み上げた。声の張り、間の取り方、視線の配り方。プレゼンテーションの「形」だけは、三年間妻の隣で学んでいた。

 だが、質疑に入った途端に、全てが崩壊した。


「バース次長。第三項の人件費だが、前年度比で四割増になっている。根拠を説明していただきたい」


 大蔵卿の質問に、グランの表情が強張った。


「それは……全体の、バランスを考慮した結果でして」


「バランスとは。具体的にどの費目との相関で四割増が妥当と判断したのか」


「……総合的な、判断です」


 場がざわついた。「総合的な判断」──中身のない言葉だということは、この場にいる全員が知っている。

 シャルトルが静かに口を開いた。


「バース次長。歳入見込みの算定基礎に、昨年の税制改正が反映されていないようだが」


「は……?」


「十七ページ。関税収入の欄。旧税率のままだ。改正後の税率で再計算すれば、歳入見込みは少なくとも二割変動する。このまま歳出計画を立てれば、年度末に巨額の財源不足が生じることになる」


 シャルトルの声は抑揚を欠いていたが、それがかえって指摘の鋭さを際立たせた。グランが慌てて資料をめくる。額に汗が滲んでいた。十七ページを開いても、そこに書かれた数字の意味が、彼にはわからなかった。


「これは……その、前任の補佐が残した資料をもとに……」


「前任の補佐? あの資料を作成していたのは、先月まで貴殿の妻だったランベール伯爵家の令嬢だろう。彼女が去った途端にこの体たらくとは、つまりそういうことか」


 大広間に、重い沈黙が落ちた。グランの顔が、みるみる赤くなり、やがて青ざめた。

 その時だった。


「失礼いたします」


 傍聴席の最後列から、一人の女性が立ち上がった。

 リリアーヌ・フォン・ピッケルだった。

 淡い金髪を丁寧に結い上げ、控えめだが品のいいドレスを身にまとっている。その姿は、数週間前に屋敷でグランに甘えていた女とは、まるで別人だった。


「ピッケル男爵令嬢? なぜ部外者がここにいる!」


 議長が声を荒らげたが、それを冷ややかに制したのはシャルトルだった。


「私が喚問した証人だ。発言を許可する」


 宰相の鶴の一声に、大広間が水を打ったように静まり返る。実はリリアーヌは事前に宰相府へ出向き、『バース次長の不正の証拠を渡す代わりに、ピッケル男爵家の借金返済の猶予を得る』という、したたかな裏取引をシャルトルと結んでいたのだ。


 シャルトルの庇護を得たリリアーヌは臆することなく、真っ直ぐに前を見据えた。


「緊急の告発でございます。王国法第七十二条に基づき、公金横領の証拠を御前に提出いたします」


 場が凍った。

 リリアーヌは会場の中央まで歩み出ると、深く一礼し、懐から一束の書類を取り出した。


「これは、グラン次長が自宅の書斎の引き出しに隠していた、横領の証拠の束でございます」


 リリアーヌが掲げたのは、立派な裏帳簿などではない。財務省の金庫から不正に金を引き出した際の『出金伝票の控え』と、その金で宝石やドレスを買った『領収書』の束だった。


「横領した金を何に使ったか分からなくなるからと、ただ無造作に束ねて隠してあっただけのご様子。犯罪の証拠を燃やして隠滅する知恵すら、この方にはなかったようです」


 呆れを含んだリリアーヌの言葉に、大広間がざわめいた。あまりにもお粗末で、杜撰すぎる手口だったからだ。

 セレスティーナは目を丸くした。妻として家計を管理する中で、グランの金遣いに不審な点があることには薄々気づいていた。だが、まさかこれほど直接的で愚かな証拠を、自分の書斎に放置していたとは。

 それを、リリアーヌは屋敷に入ってわずか数週間で探し出したのだ。


(……お見事ね)


 没落寸前の家を支えてきた女の嗅覚は、伊達ではない。セレスティーナは内心で、自分から夫を奪った女のしたたかさに素直な感嘆の息を漏らした。


「り、リリアーヌ!  お前、何をしているんだ!?」


 グランが壇上から叫んだ。顔は恐怖で引き攣っていた。


「これは罠だ! その証拠は偽造だ! こいつが俺を誘惑して——!」


「まあ」


 リリアーヌが小首を傾げた。その碧い瞳に、冷たい光が灯っていた。


「お誘いしたのはグラン様の方でしたのに。それに——この出金伝票の不格好なサインは、紛れもなくグラン様ご自身の筆跡。鑑定はいつでもお受けいたしますわ」


 証拠は動かない。弁明の余地はない。

 議長が衛兵を呼んだ。二人の衛兵がグランの両脇を固め、彼を壇上から引きずり下ろした。


「離せ! 俺は次長だぞ! こんなことが許されると思っているのか!」


 グランの叫びが、大広間に虚しく反響した。やがてその声は廊下の奥へと遠ざかり、完全に聞こえなくなった。

 セレスティーナは、シャルトルの斜め後ろで、その一部始終を静かに見ていた。

 哀れだとは、思わなかった。


 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲


 御前会議の翌日。

 宰相執務室は、朝の光に満ちていた。天井まで届く書棚に囲まれた広い部屋で、セレスティーナは向かいの机に座り、本日の案件一覧に目を通していた。


 宰相筆頭補佐官としての着任から、まだ三週間ほどだった。だがセレスティーナにとって、この仕事は驚くほど肌に合った。求められるのは正確さと緻密さ。感情ではなく、論理。見栄えではなく、中身。三年間、夫の影で磨き続けた能力が、ようやく正しい場所に収まった感覚だった。


「セレスティーナ」


 シャルトルが書類から目を上げた。


「昨日の会議で、君が事前に作成していた歳入修正案を読んだ。あれを正式な予算原案に格上げしたい」


「承知しました。午後までに体裁を整えます」


「それと、大蔵卿から問い合わせが来ている。外交費の費目別内訳について、ランベール伯爵家の過去の知見を踏まえた分析が欲しいとのことだ」


「父に確認を取ります。夕刻までには回答できるかと」


 シャルトルが頷いた。そして、珍しく僅かに口元を緩めた。笑顔──とまでは言えない。だが、あの氷のような表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「君の書く報告書は美しい」


「……は?」


「数字に無駄がない。論旨が一本の糸のように最初から最後まで通っている。読む者の時間を奪わない。それは才能だ」


 セレスティーナは一瞬、言葉を失った。三年間、誰にも認められなかったものを、この男はさらりと言葉にした。


「……お褒めにあずかり光栄です」


「褒めているんじゃない。事実を述べている」


 シャルトルはそう言って、再び書類に目を落とした。彼はいつもそうだった。感情を込めず、誇張もせず、ただ正確に評価する。「地味で可愛げのない」と言われ続けた三年間の後では、その素っ気なさが──不思議なほど、温かかった。


 昼過ぎ。午前中の案件を片づけ終えたセレスティーナは、執務室の片隅にある小さな棚から珈琲豆の瓶を取り出した。豆を自分の手で挽き、湯の温度を見極め、丁寧にドリップする。唯一の贅沢であり、唯一の息抜きだった。

 バース家では、この時間すら許されなかった。「そんな暇があるなら俺の靴を磨け」というのがグランの口癖だった。


「閣下、一杯いかがですか」


 セレスティーナが淹れたての珈琲をシャルトルの机に置いた。黒い液面に、窓からの光が小さな輪を描いている。

 シャルトルが書類から顔を上げ、カップを手に取った。一口含み、僅かに目を細めた。


「……うまい」


「よかった」


「毎日淹れてくれ」


「業務命令ですか?」


「個人的な依頼だ」


 セレスティーナは小さく笑った。笑ったのは、いつ以来だろう。少なくとも、この三年間では記憶にない。


「セレスティーナ」


「はい?」


「君がここにいてくれて、助かっている」


 それだけ言って、シャルトルは再び書類に目を落とした。

 不器用な人だ、とセレスティーナは思った。だが、この人の「助かっている」が「必要としている」と同義であることは、三週間の付き合いで十分にわかっていた。

 窓から差し込む午後の柔らかな光の中で、二つのカップから珈琲の湯気がゆらゆらと立ち上っていた。

 仕事が楽しい。自分の能力が、正しく求められ、正しく使われている。こんな当たり前のことが、三年ぶりにようやく──当たり前に感じられる。

 セレスティーナは珈琲を一口飲み、静かに微笑んだ。

 苦味の奥に、確かな甘さがあった。


 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲


 それから一月ほどが過ぎた、穏やかな晩秋の午後のことだった。


 王宮の庭園は、紅葉の盛りを迎えていた。楓の赤、銀杏の金、常緑樹の深い緑が重なり合い、午後の陽光を浴びて輝いている。石畳の小径を、セレスティーナはシャルトルと並んで歩いていた。次の外遊に向けた打ち合わせの帰りだった。


「セレスティーナ。外遊の随行だが、君には通訳も兼ねてもらいたい。相手方はファルメール語圏だ」


「問題ありません。母方の祖母がファルメール人ですので」


「知っている。だから君を指名した」


 シャルトルの足が止まった。晩秋の風が吹き、庭園の薔薇の花弁が一枚、ひらりと舞った。


「それと、一つ伝えておくことがある」


「何でしょう」


「外遊先では、君を単なる補佐官ではなく──」


 その言葉は、最後まで紡がれなかった。


「セレスティーナ!!」


 悲鳴のような声が、庭園に響き渡った。

 セレスティーナが足を止め、振り返った。シャルトルも同時に振り返った。


 石畳の向こうから、衛兵に両腕を掴まれた男が、こちらに向かってもがいていた。

 グラン・バースだった。


 見る影もなかった。あの完璧に手入れされていた金色の巻き毛は汚れて絡まり、頬はげっそりとこけ、仕立てのいい上着はとうに剥ぎ取られていた。代わりに身にまとっているのは、囚人用の粗末な麻の服。地下労働施設への移送を待つ身の姿だった。


「俺が悪かった! 頼む、セレスティーナ!」


 グランは衛兵の腕を振りほどこうと必死にもがいた。だが一月の拘留で痩せ細った体には、衛兵を押し返す力など残っていなかった。


「お前がいないと書類ひとつ書けないんだ! お前の実家に頼んでくれ! ランベール伯爵家の口添えがあれば、俺の罪は軽くなるはずだ! 頼む、もう一度だけ──!」


 縋るような声。涙と鼻水で顔を汚しながら、かつてのエリートは地面に膝をつこうとした。

 セレスティーナは、黙ってその姿を見つめていた。


 三年間、この男の後ろで必死に走り続けた。認められなかった。感謝もされなかった。「地味で可愛げのない」と蔑まれ、それでも書類を書き続けた。


 今、この男は初めてセレスティーナの価値を理解した。失ってから。全てを失ってから。

 遅すぎる、とセレスティーナは思った。何もかも。


「……そうだ、離縁状だ!」


 セレスティーナの冷たい視線に焦ったのか、グランは不意に顔を上げ、血走った目で叫んだ。拘留中にいらぬ悪知恵でも吹き込まれたのだろう。


「あの日俺が書いた離縁状! あれは両家の合意がないから本来は無効なはずだ! お前は法的にはまだ俺の妻だ! 妻なら夫を見捨てるなんて許されないぞ!」


 勝ち誇ったような、それでいてすがりつくような醜い叫び。


「黙れ」


 シャルトルの声が、氷の刃のように庭園に落ちた。

 一歩前に出た宰相の灰色の瞳には、怒りすらなかった。ただ、路傍の石を見るような、完全な無関心だけがあった。


「私の大切な補佐官に、気安く話しかけるな」


 グランが怯んだ。宰相の視線を正面から受け、顔を背ける。


 セレスティーナは、シャルトルの隣に進み出た。

 懐からレースのハンカチを取り出し、そっと口元に当てる。そして、すがりつく元夫を見下ろし、小さく首を振った。


「……貴方という人は、本当に最後まで浅はかですね」


「な、に……?」


「あんな欠陥だらけの紙切れ、私がそのまま放置するとでも思ったのですか? 屋敷を出た翌日には、不貞の証拠として提出し、正式に婚姻の無効を成立させておりますわ。私と貴方はもう何の関係もありません」


 セレスティーナの淡々とした宣告に、グランはその場に力なくへたり込んだ。


 最後の希望すら絶たれ、絶望に染まる男の顔。

 それを見て、セレスティーナは心の底から晴れやかに微笑んだ。三年分の重荷を下ろし終えた女の、透き通った笑顔だった。


「なにより私を追い出してまで選んだ不倫相手には、無能さがバレてあっさり切り捨てられるなんて」


 満面の笑みで、言った。


「本当にご愁傷様です♡」


 グランの顔が、完全に歪んだ。言葉を発する力すら残っていないのか、口を開閉するだけで声にならなかった。

 衛兵が彼の腕を引き、グランは石畳の上を引きずられるようにして遠ざかっていった。その背中が庭園の角を曲がり、紅葉の向こうに消えるまで、セレスティーナは微笑みを崩さなかった。


「……行ったか」


 シャルトルが、僅かに眉を上げた。


「随分と楽しそうだったな」


「ええ。とても」


 セレスティーナは隠す気もなく答えた。ハンカチを畳み、懐にしまう。秋の風が、二人の間を吹き抜けた。


「さあ、戻りましょう、閣下」


 セレスティーナはシャルトルの方を向いた。


「美味しい珈琲でも淹れますから」


「──ああ。頼む」


 シャルトルが頷いた。その横顔に、今度こそはっきりと、微笑みが浮かんでいた。

 セレスティーナは彼の隣に並び、王宮の廊下へと歩き出した。


 秋の空は高く、どこまでも澄んでいた。

 三年間背負い続けた重荷は、もうどこにもなかった。

 石畳を踏むヒールの音が、軽やかに響いている。

 その一歩一歩が、新しい季節の始まりを告げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ