第6話 裏切り者には悪夢を、優しい人には祝福を
白と黒が反転した瞳の奥で、漆黒の殺意が静かに渦を巻く。
彼を傷つける者は、私が全て消し去ってあげましょう。
あの裏切り者たちの魂が消滅するまで、終わることのない苦痛を与えてやりましょう。
規則正しい彼の寝息を聞きながら、ゆっくりと身体を離した。
(……しかし)
私がこの怒りに任せてその者たちを屠ったとして、もしそれを彼が知ってしまったら。
この縁が切れてしまうことへの恐怖よりも、彼が「己のせいで誰かが死んだ」と自分を責めてしまう、その可能性が何よりも恐ろしかった。
(あなたはきっと、私が復讐を提案したら止めるのでしょうね)
身体に満ちていた絶対零度の殺意を、ゆっくりと胸の奥底に引き戻した。
この心優しい少年に、新たな業を背負わせるわけにはいかない。
(……ええ。命までは取らないでおいてあげるわ)
◇ ◇ ◇
黒い霧と化し、窓の隙間をすり抜けて夜の森へと散っていく。
その霧は夜風に乗り、やがて、忌まわしき街へと辿り着く。
深夜の街は静まり返っていた。城壁をすり抜け、人々の深層心理を辿って関係者たちの寝所を探し当てる。
対象の魂に触れ、思考を読み取っていく。
――見つけた。
彼を裏切った三人。
酒の臭いが充満する部屋の中で、彼らは随分と幸せそうに寝息を立てていた。
すうっと黒い霧を飛ばし、その浅ましい記憶を盗み見る。
『ユーリが先走り、依頼を達成できなかった』
『あいつが欲をかいて財宝を持ち去り、行方をくらませた』
ギルドのリーダーへ報告した虚偽の言葉。
それを完璧な策だと思い込むその思慮の浅さには、呆れにも似た感情を覚えた。
―――ふと、寝室の机の上に置かれていた荷物に目を落とす。
その瞬間、再び空気が凍りついた。
そこには金品の他、何やら古めかしい地図、そして、彼の思念を感じる、ボロボロの財布があった。
(――ええ、本当に。命までは取らないわ)
ツバキの白磁のような顔に、ピキリとひび割れるような笑みが浮かんだ。
それは歓喜でも冷笑でもない。
ただ顔の筋肉を物理的に引き伸ばして、三日月の形に固定しただけの仮面だった。
白と黒が反転した瞳が、極限の怒りによってどろどろに渦を巻いている。
音もなく男たちの枕元へ滑り寄り、氷柱のように冷たい指先を、三人の胸の奥深くへと沈め込んだ。
実体を持たぬ指が物理的な肉体を透過し、その「魂」を荒々しく掴み取る。
途端に、豪快にいびきをかいていた男たちの顔から、一瞬にして血の気が失せた。
冷や汗が滝のように噴き出し、歯は凍えているかのようにガチガチと鳴り始める。酒により上気していた顔は土気色に変色し、やかましかった呼吸は、ヒュー、ヒューと掠れたような浅い喘鳴へと変わっていく。
(彼の治癒に使った分は、返してもらうわ)
生死を操る力の根源は「等価交換」にある。与えるならば、それと同等の生きる力が必要だ。ツバキは彼らの「生命力」を死なない程度に奪い、己の中に蓄えていく。死にはしない。だが、彼らは今後一週間、まともに歩くことすらできない深刻な衰弱に悶え苦しむだろう。
「……あ……ぐっ……」
激痛と悪寒に顔を歪め、浅い意識の中で呻く男たち。
その耳元に、仮面の笑みを張り付けたまま、ツバキは顔を寄せ、凍てつく声で囁いた。
『追加で、絶望を見せてあげる。……きっかり九時間、覚めない悪夢に沈みなさい』
◆ ◆ ◆
男は温かい部屋で酒を飲む。
陥れたユーリについては、特に何も思うことは無い。
世の中、お人よしな人間ほど利用しやすいものは無い。
遅かれ早かれ、あいつの性格だったらいつか食い物にされていただろう。
普段から人の顔色ばかり窺っては、誰もやりたがらない面倒な仕事を引き受けるような奴だった。俺たちが有効活用してやったんだ。むしろ感謝してほしいくらいだな。
男は下品な笑いをこぼし、机の上に無造作に放り出されたユーリの使い古した財布や、奪い取った金品の山を眺めながら、安い酒を喉に流し込んだ。
いい気分だった。これでしばらくは、危険な依頼を受けずとも遊んで暮らせる。
――その時だった。
ふと、部屋の空気が急速に冷え込んだ気がした。
暖炉の火は赤々と燃えているのに、骨の髄まで凍りつくような異常な冷気が、背中からじわじわと這い上がってくる。煌々と燃えているはずの暖炉からは、先ほどまでしていた薪のはぜる音が一切聞こえてこない。
……なんだ、急に……悪寒が……
酒の酔いとは違う、強烈で不自然な眩暈が男を襲う。
視界がぐにゃりと歪み、男は立ち上がろうとしてそのまま、糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちた。
――そして、男は「暗闇」の中で目を覚ます。
……っ!? ここは……
先程までの温かい自室ではない。
音の無い、夜の海を切り取ったかのような真っ暗な空間だった。
手足は凍りついたように重く、指一本動かすことができない。
そして男は、暗闇の奥で「それ」と目が合ってしまった。
濡れた黒髪の隙間からこちらを覗き込む、白と黒が反転したおぞましい眼球。底なしの闇のようなその瞳が、ぐるぐると渦を巻いている。
男が悲鳴を上げる間もなく、暗黒の底から無数の黒い手が肉体に絡みつく。
それは氷のように冷たく、そして岩のように重かった。
ただ、圧倒的な「死」の気配だけが、男の全身を容赦なく締め上げていく。
息が、できない。
肺に冷たい泥水を流し込まれたような錯覚。
酸素を求めて口を大きく開けるが、音すらもこの闇に吸い込まれ、声帯を震わせることすら許されない。
暗闇の奥から、「それ」が這い寄ってくる。
足音はない。
ただ、空間そのものが歪むようなおぞましい気配と共に、白黒が反転した瞳が、男の顔のすぐ目の前まで迫っていた。
逃げたい。
助けてくれ。
許してくれ。
俺が悪かった。
声にならない命乞いを叫ぶ男に、「それ」は笑みを浮かべた。
次の瞬間、男の体は底なしの深淵へと真っ逆さまに引きずり込まれた。
◇ ◇ ◇
―――ツバキはそれ以上、彼らを見ることはなかった。
机の横に無造作に放られていたユーリのものと思わしき財布を、大切に拾い上げる。
そして彼が本来得るはずだった財宝の中から、一番高価に見えた装飾された剣と指輪を袂にしまう。
冒険者であるユーリなら喜ぶかもしれないと思い、古めかしい地図も合わせて頂戴する。
(お前たちが汚い手段で得た残りの財宝は、そのままくれてやるわ。休業中の補填にでもなさい)
袂にしまった戦利品を闇に呑ませ、ツバキは部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
―――街を去る前に、ツバキはもう一つの部屋へと立ち寄った。
裏切り者たちの記憶の中にあった、ギルドのリーダーの寝室だ。
白髪交じりの初老の男は、執務机に突っ伏したまま浅い眠りについていた。
その手にはユーリのギルド登録証らしき羊皮紙が、強く握りしめられている。
そっとその思念に触れると、伝わってきたのはユーリの身を案じる強い心配だった。
わずかに、目を見開き、やがて毒気が抜けたように柔らかく微笑んだ。
あの心優しい少年の本質をちゃんと見て、心から案じてくれている人がこの街にもいたのだ。
男の耳元に顔を寄せ、夢に直接干渉するように、そっと囁いた。
『ユーリは 大丈夫 です』
初老の男の険しかった眉間が、その声を聞いてふっと緩む。
苦しげだった呼吸が安らかな寝息に変わったのを見届け、机の上に「白い百合の花」をそっと置いた。
彼が目覚めた時、今のがただの夢ではなく、確かな知らせであったと気付けるように。
――夜明け前の街を後にし、愛しい人が眠る、あの静かな寝室へと帰っていった。




