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第5話 1879年6月22日 初夏

規則正しい寝息が、静寂に満ちた部屋に響いている。


スマートフォンでのやり取りに疲れたのか、はたまた疲れが抜けきっていなかったのか、変な時間に起きてしまったからか…ユーリはまた眠っていた。


ツバキは寝台の縁にその体重の無い体を腰かけ、月明りに照らされた彼の寝顔を愛おしそうにじっと見つめていた。


無防備な寝顔。


あの絶望的な初対面では拒絶されても当然だと考えていたのだけれど、彼は優しかった。


こうして安らかな寝顔を見守れている今が、たまらなく嬉しかった。


そっと手を伸ばし、彼の額にかかる前髪を払った。


そこに先ほどまであった黒いアザは、「呪い」により焼き付けられていた。


それはツバキが忌み嫌う黒い情動、それと同じ類の思念がこびりついたような、おぞましいもの。


ツバキはそのアザのあった部分を、細い指先でそっと撫でた。


誰かがこの優しい少年に向けて、あるいは何らかの悪意を持って放ったどす黒い感情。


それにより理不尽に虐げられ、全てを奪われてきた彼の痛みを感じ取るたび、止まっているはずの心臓がズキンと痛む。


そんな彼に殺意を向けてしまったことが悔やんでも悔やみきれない。


せめて、彼にこれ以上の痛みや悲しみを与えたくない。


あの時を繰り返させてなるものか。

 


◇ ◇ ◇


それは、まだ椿が人であった頃。


椿には愛する人がいた。


村でただ一人の、心優しい医者の青年だった。


誰よりも命に誠実で、自分のことより人の事で泣くような、とても温かな人。


村に恐ろしい奇病が蔓延したあの時、青年は寝る間も惜しんで村人たちの治療にあたり、己の身を削って必死に解決策を探し続けていた。


『この村の病は、絶対に治るもののはずなんだ。絶対に解決してみせる。そうしたら一緒になろう』


いつしか、その約束だけが椿の生きる理由の全てとなった。


毎朝誰よりも早く出かけ、誰よりも遅くに床に就く。そんな青年を支えている時間は心苦しくもあり、同時に誇らしくもあった。


―――彼は疲れているはずなのに、私の作った料理やお弁当に対して「あのきんぴらの辛味は元気が出る」「魚の焼け具合が実にちょうど良かった」「おにぎりの中身を毎日変えてくれるのは嬉しいけど、大変じゃないか?」といったように感想を聞かせてくれた。


―――彼自身は仕事着以外新しい衣服をほとんど買わないのに、私の誕生日にはかんざしや櫛を贈ってくれた。私の手荒れが酷くなると、私の肌に合うように薬を調合してくれた。


―――そんな優しさを私だけではなくみんなに振りまくものだから、つけ入られてしまったのかもしれない。





◇ ◇ ◇


病の原因が中々掴めず、病に苛まれる者が増えるにつれて村人たちは疲弊していった。


青年は症状が和らぐよう、一人一人に対して丁寧に看病を行い、死病者こそ出なかったものの、村人には段々と現状に対する不満が蓄積されていった。


青年は日に日にやつれ、椿も彼の行う治療を手伝わなければと考えたが、危険が伴うとして断られた。



―――村が重い空気に呑まれかけた頃、あの男が村に現れた。


長い白髪の、中性的な顔つきの男だった。



『この村の病の元凶は、呪われたあの男にあるのです』



当然、誰も取り合わなかった。


彼がどれだけ村のために身を粉にして働いているかをみんなが知っていたからだ。


しかし、男は口が上手かった。疲労と恐怖で正常な判断力を失いつつある村人たちの心の隙間に巧妙に入り込んでいったのだ。



『私が煎じた呪いを和らげる薬です』



男はそう言い、怪しげな薬湯を村人に配り祈祷を施した。


後で知ったことだが、それは決して病の根本を治すものではなく、一時的に症状を麻痺させ、安らかな休息を与える「毒」だった。


先の見えない苦しみと、看病の疲れに喘いでいた村人たちにとって、それは劇的な救いのように感じられたのだろう。



『ほら、私の言う通りにすれば楽になる。なのにあの男が関わるとまた苦しみだすでしょう?』


男は事あるごとにそう囁いた。


その実態は麻痺の効果が切れただけなのだが、毒の本来の作用により病の苦しみが増した村人たちにとって、それはさも真実かのように映った。



『あの医者が毎日村を見回っているのは、呪いを振りまいているからだ』


『あの男が手当てをした者から順に死んでいくではないか』


『あれは治療などする気がないのだ』


彼の献身的な看病の甲斐なく命を落とす者が増えるたび、白髪の男の紡ぐ悪意ある虚言は、まるで真実であるかのように村中へ浸透していった。


彼は白髪の男が配った薬湯が、病に悪い作用を与えている可能性を考え、村人にその薬湯を飲まぬように伝え回ったが、その頃にはもう、彼を信じる者はほとんどいなくなっていた。



見えない病の恐怖に怯え、限界を迎えていた村人たちには憎むべきわかりやすい原因が必要だったのだ。


白髪の男は、その標的として最も村に尽くしていた青年を差し出した。


そして死の恐怖に狂った村人たちは、あまりにも簡単に唆された。


今まで自分たちを助けてくれていたことへの感謝を忘れ、手のひらを返し、元凶として一斉につるし上げた。





やがて悪意は行動に移される。


村人たちは農具を持ち、群れを成して青年の研究室に向かう。


―――もうすぐ、扉に手がかかるという時。





「やったぞ!!!原因を見つけた!西の井戸を使うな!みんな東の井戸を使うんだ!!」


若き医者は勢い良く飛び出し、笑顔で群衆に向かい、大声で叫んだ。


「全ては井戸の水のせいだったんだ!!」


彼は喉が張り裂ける程に、高らかにその吉報を伝えた。











だが、誰もそれを信じなかった。









◇ ◇ ◇


彼の帰りが遅いことを心配して弁当箱を片手に研究室に向かった椿は、群衆の輪の隙間から見えた光景に絶句した。




狂気に呑まれた村人たちは、輪の中心にいた彼に石を投げつけ、農具を力任せに、叩きつけていた。



呆然としていると、彼と目が合った。


私を見つけた瞬間、ひどく悲しそうに歪んだ。



『逃げろ』


  

声にはならなかったけれど、彼の血に染まった唇が確かにそう告げていた。


彼は抵抗することなく、ただ私に被害が及ばないようにと、己の身を丸めて殴打に耐え続けていたのだ。



「――っ!」



頭で理解するよりも先に、身体が弾かれたように動いていた。


狂騒に沸く村人たちの隙間を無理やりこじ開け、円陣の中心へと飛び込む。



「やめて!! 彼は、みんなを助けようと―――」


彼を庇うように覆いかぶさった直後、何者かが振り下ろした硬い棍棒が直撃した。


視界が赤く弾け、泥の中に倒れ伏す。


薄れゆく意識の中で椿が最後に見たのは、椿の方へ必死に。


血まみれの手を伸ばそうとする青年の姿だった。





















◇ ◇ ◇


どれくらいの時間が経ったのか。


冷たい雨の感覚で椿は意識を取り戻した。



全身の骨が軋むような激痛の中、泥だらけの体で這いずるようにして進む。



周囲に村人の姿はなく、ただ冷酷な雨音だけが響いていた。








どす黒い色の泥の中心に、彼は倒れていた。




『……ああ…… あああああっ……!!』





もはや原型をとどめないほどに打ち据えられたその身にすがりつく。


青年の体は既に冷たくなりかけていたが、椿の涙声に反応するように、かすかにその瞼が動いた。


焦点の合わない目が椿を捉える。


青年は血に染まった唇を微かに震わせ、ひどく痛々しい、けれどかつてと同じように底抜けに優しい微笑みを浮かべ、椿の頬に、そっと手を添える。


『…すまない …これまで、ありがとう……せめて……』






言葉を全て言い終わる前に、彼の手からふっ、と力が抜け、その瞳から永遠に光が失われた。


『……っ……!!!』


力の抜けたその手を抱え、椿は絶叫した。


哀叫が黒い空に吸い込まれていく。




彼が死んだ。




この世界で一番優しくて一番尊い人が




愚かな悪意によって踏みにじられた





なぜ どうして 彼が





限界を超えた悲しみと絶望が、やがて真っ黒な憎悪へと反転していく。




















◇ ◇ ◇


椿はふらふらと立ち上がった。


もう涙は枯れ果てていた。願わくば彼を連れて行きたかったが、ボロボロの体ではそれも叶わなかった。


村外れの、海沿いの岸壁へと向かう。


かつて二人で将来を語り合った、春の頃には、綺麗な桜の色で埋め尽くされる秘密の場所。







































―――愛してました







































眼下の暗闇を見つめ、椿は一切の躊躇無くその身を宙へと投げ出した。





































お前たちは愚かだ。 


彼の優しさを踏みにじった。


せいぜい 苦しんで 死ね。




















































―――ああ、でも。













































彼なら それも 悲しむかな?

















































◆ ◆ ◆


―――谷底で肉体が砕け散った瞬間、椿の魂はどす黒い怨念の塊へと化した。


白と黒が反転した悍ましい瞳を持つ「悪霊」の誕生だった。


自我は既に崩壊していた。


ただ恋人を奪った理不尽な悪意への果てしない怒りだけが、その魂を突き動かしていた。



底知れぬ怨念の霧が家々の隙間を這い回り、標的を探す。

彼を手にかけた者、彼の忠告を無視した者、それを傍観していた者…その全ての首に、黒い影が絡みついた。


逃げ惑う悲鳴も、命乞いも、怨霊の耳には届かない。



しかし、その黒い霧は、青年を信じて庇おうとした者や、死に対して涙を流していた者たちだけは、静かに避けて通った。怨念に呑まれ自我を失ってもなお、彼が愛した「善意」までをも傷つけることはできなかったのだ。



夜が明ける頃には、狂気に支配されていた愚かな者たちは一人残らず命を落とし、村には深い静寂と、青年の死を悼んだ少数の者たちだけが残されていた。





◇ ◇ ◇


――不意にユーリが寝返りを打つ気配で、ツバキは遠い過去の記憶から引き戻された。


(……あの時、私は何もできなかった)


目の前には、穏やかな寝息を立てる少年の顔がある。


遠い昔に喪った、あの優しく尊い人と同じ、温かな魂の輝き。


(でも、今は違う)


ツバキは、愛しい少年の頬に、そっと冷たい手を添えた。


二度と、奪わせはしない。彼を傷つける全ての理不尽は、私がこの手で完全に排除する。


『私があなたを守るわ……』


音にならない声で囁き、ツバキはユーリの額に口づけを落とした。

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