第4話 言葉はわからないけれど、悪霊の名前は「ツバキ」だそうです
その抱擁に少女は少し肩を強張らせた後、安心したようにゆっくりとユーリへと体を預けた。
しばらくの間、薄明るい部屋の中には小さなすすり泣きの音だけが響いていた。
やがて落ち着きを取り戻したのか、彼女は顔を上げる。
涙で潤んだ漆黒の瞳が、至近距離でこちらを見つめている。彼女は何かを伝えようとするように、薄紅色の唇を微かに震わせる。
『その…私の言葉は伝わっているかな…?』
彼女が言っている言葉…その音はわかる。
しかし、意味はわからない。少女自身も自分の言葉が伝わらないことを理解しているのか、ひどくもどかしそうに眉を下げて口ごもってしまう。互いに全く違う言語を話しているのだと察した。
黒目と、その白磁のような肌以外は自分たちと変わらない見た目の少女だが、遥か遠くの未知の国、あるいは全く違う世界から来た存在なのかもしれない。
(次元の間…か…)と、師匠の言葉をふと思い出した。
少女は少しの間俯いていたが、やがて何かを思いついたようにハッと顔を上げた。
彼女はゆっくりと自身の胸元に左手を当て、言葉を発した。
『―――椿、つ・ば・き』
ゆっくりと、一つ一つの音を区切るように、はっきりとした発音でそう口にした。
「ツバキ…それが、君の名前?」
確認するように問いかけると、その少女―――ツバキは花が綻ぶような笑みを浮かべ、力強くこくこくと頷いた。
「僕はユーリ。改めてよろしく、ツバキさん」
そう伝えると、なんとなく目の前の少女の表情が硬くなった気がした。
『椿さん…さん…いらない』
ジェスチャーで、「さん」の時に胸の前で指を小さくクロスさせている。
意味はわかるが、その挙動が面白くて少し笑ってしまう。
しかし何故だろうか。こちらの話していることはツバキには伝わっているような…。その事実に少し、背筋に冷たさを感じた。…が、深く考えることはやめた。
「わかったよ、よろしく。そしてありがとう、ツバキ」
穏やかに微笑みかけた瞬間、ぱあっと笑みを浮かべてツバキは抱きつき―――そしてそのまま、首筋にキスをされた。
ひんやりとした、けれどもどこか熱を帯びたような感触。それは優しく、そしてどこか途方もない「執着」を感じさせるような重い、口づけだった。
―――その時だった。
~♪♬ ♪…
静寂に包まれた部屋の中に、オルゴールの音色が響いた。少し、髪の毛が逆立つような気がした。
視線を向けると部屋の隅、綺麗に手入れされた自身の装備品の上に、あの夜に手にした「黒い金属製の板」が光っていることに気が付いた。
先程まで、装備を目にした時には確かに無かった。まるで何もない空間から唐突に現れたかのような…。
恐怖感から硬直していると、ツバキは彼の首筋からゆっくりと身を離し、音もなくその光へと歩み寄る。そして細い指先で強く発光する板の表面を撫でた。途端に、部屋に響いていたオルゴールの音色が鳴り止む。
あまりにもあっけなく、恐れの根源は停止した。
ツバキが差し出したその画面を恐る恐る覗き込むと、何やら小さな絵と、奇妙な文字が規則正しく並んでいた。
「なんだい、これ」
尋ねてみると、何やらツバキは得意げに、その板の操作を始める。
『スマートフォン、スマホ』
スマホ?というらしい。彼女は器用にその画面を指で弾き、小さな絵の一つを押した。
そしてその板に向かって何事か言葉を発する。
彼女はニコニコしながら、その板をこちらの耳に押し当ててくる。
「縺薙l縺九i繧医m縺励¥縺ュ」
「うわああああああああ!!!??」
脱兎の如く跳ね逃げた。
まるで無数の骨が軋み、その骨から虫が湧いてくるようなこの世のものとは思えない恐ろしい不協和音。己の耳に指を突っ込み中に何か入り込んでいないか確かめる。無事だ。
耳に指を突っ込みながらツバキの方を見ると、ツバキもそのおぞましい音声に驚いたのか毛布に頭を突っ込んでいる。
「これは…本来翻訳する装置なのかな?」と、彼女の尻に向かって問いかける。
ツバキはこちらに向き直り、涙目になりながら首を上下に振る。
どうやら彼女が発する言葉はこの装置を通すとあのようになるらしい。
気を取り直すように、ツバキは再び画面を操作する。
今度は画面にびっしりと並んだ異国の文字の羅列を見せて来た。
指で下から上へと弾くたびに、見たこともない形状の文字が次々と流れていく。
彼女の知る世界に存在する、あらゆる言語のリストなのだろう。
「…ごめん、どれも全く読めない」
申し訳なさそうに首を横に振ると、彼女は目に見えて落ち込み、犬の耳でもあればペタンと垂れ下がっていそうなほどにしょんぼりとした表情を浮かべた。
彼女の使う言葉や文字はわからない。
だけども意思疎通ができないわけではない。
こちらの発言や意図は伝わるし、彼女の表情や仕草でどう感じているかを察することができる。ならば頑張ればいいだけだ。
「大丈夫。少しずつでも、お互いに言葉を覚えていけばいいよ」
そう伝えると彼女は少し考えるように目を下に落とした後、気が抜けたように微笑んだ。




