第3話 目が覚めると温かい部屋にいました
――ユーリの意識の浮上を促したのは、微かに爆ぜる薪の音と、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いだった。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、見知らぬ無骨な梁と、板張りの天井がぼんやりと視界に滲む。
上体を起こそうとした拍子に、反射的に己の脇腹へと手を当てた。
冷たい雨の降りしきる森で、かつての同胞に深々と刃を立てられ、致命の傷を負ったはずの箇所。
にもかかわらず、そこには焼けるような苦痛はおろか、少しの傷跡すら感じられない滑らかな肌があった。泥水と赤黒い血に濡れていた衣服さえも、清潔な麻布のものへと着替えさせられているようだった。
「……ここは、どこなんだろう」
寝台を降り、板張りの床に立つ。室内を見渡せば、飾り気のない机と椅子、そして柔らかな暖気を孕む石組みの暖炉が鎮座していた。机の上には木製の椀が置かれ、仄かな湯気と共に温かな食事の存在を主張している。つい先刻まで、確実に何者かがこの空間に滞在していたのだと推測するには十分な光景であった。
傍らの小窓から外を見れば、視界を埋め尽くすのは鬱蒼と生い茂る樹海の緑。葉擦れの隙間から射し込む穏やかな木漏れ日が、時刻がすでに正午を回っていることを静かに告げている。
(あれは、夢だったのだろうか)
魂すら凍てつくような、あの凄惨な雨の夜。それがすべて幻であったかのように、ただ凪いだ空気だけが漂っていた。
家屋の中をあてどなく歩き回るものの、主の姿はどこにも見当たらない。他者の気配はひどく希薄で、まるでこの世界から自分以外の生命が根こそぎ消失してしまったかのような静寂が降り積もっている。
視線を彷徨わせた先、部屋の片隅に立てかけられた古びた姿見に目が留まった。その鏡面の前へと歩み寄る。そこに映し出されていたのは、己の顔――。
その姿を認めた瞬間、ユーリは喉の奥で小さく息を飲んだ。
右目の周囲を覆っていた、あの何とも言えぬ忌まわしい黒いアザ。「呪われた子」と呼ばれるきっかけとなった烙印であり、理不尽な侮蔑を引き寄せて来た呪縛の証が、見事なまでに掻き消えていたのだ。
鏡越しに見える、つるつるとした肌。これが本来の自分の姿なのだと理解するよりも早く、強烈な困惑が胸中を支配していく。致命の傷も、忌々しいアザも、全てが幻のように失われている。
(――もしかして、ここは死後の世界なのか?)
自分はあの泥濘の中で命を落とし、この世界に辿り着いたのだろうか。
外界を包む森は、ただひたすらに静まり返り――。椀から立ち上る食事の湯気だけが、静謐な空間で静かに揺れている。
『ぐぎゅるるぅ……』
ひどく間の抜けた腹の音が、静寂に包まれた家屋の中に響き渡った。
呆然と鏡を見つめていたが、己の腹の虫が鳴らしたその音にハッ、と我に返る。
胃袋の底から強烈な空腹感がせり上がってきた。
思えば、あの冷たい雨の降る森を訪れてから、まともな食事など一切口にしていない。
(腹は、減るんだな……)
死後の世界だとしたら、こんな風に飢えを感じるのだろうか。視線は自然と、机の上へと吸い寄せられていた。木製の椀から立ち上る湯気が、芳醇な香りを漂わせている。中に入っていたのは細かく刻まれた野菜が煮込まれた、とろみのある粥だった。傍らには木彫りの匙まで丁寧に添えられている。
主がどこにいるのかはわからない。人様の家で勝手に手を付けるのは気が引けたが、どう見ても目覚めた自分のために設えたとしか思えなかった。
ふらふらと椅子に座る。
「……いただきます」
手を合わせ、小さな声でつぶやく。
匙を手に取り、温かな粥をすくって恐る恐る口へと運ぶ。
(おいしい……!)
口内に広がったのは、懐かしい味噌の香ばしさと大根と思われる根菜の瑞々しさ。そして卵のまろやかさが、絶妙な塩気と混じり合う。ふーふーと息を吹きかけなければ火傷しそうなほど熱いが、その熱さが冷え切った体を芯から温めてくれる。
一口食べると、もう止まらなかった。夢中で匙を動かし、口へ運ぶ。
空っぽだった胃が粥で満たされていくと共に、凍えた心までが少しずつほぐれていくような感覚に陥る。
誰かがこんなにも心のこもった食事を用意してくれた。
その事実が静かに、しかし確かに心へとしみ込んでいった。
机に涙が落ちる。
いつ以来かの人のやさしさに触れた安堵からか、涙は止まらなかった。
だけど食欲を抑えることはできなかったので、泣きながら食べ続けた。
◇ ◇ ◇
最後の一口を味わい、飲み込んだ。ふうっ……と長く息を吐きだす。
その粥は最後まで美味しく、量も実に丁度良いものであった。
ごちそうさま……と手を合わせた直後。
「……ふあぁっあ」
と、大きなあくびを漏らした。
猛烈な眠気が襲ってきたのだ。
思考は一刻も早くこの家の主に感謝を伝えたかった。
だが、空腹が満たされ、極度の緊張状態から解放されたことで、身体は強烈に休息を求め始めたらしい。
抗いようのない睡魔。椅子に座っているのすら困難になり、ふらつく足取りで、つい先ほどまで寝かされていた寝台へと向かった。
(少し……休んでから……)
清潔な布の感触に包まれた瞬間、意識は深い海の底へと沈むように、唐突に途切れた。
静まり返った部屋の中、規則正しい寝息だけが微かに爆ぜる薪の音に混じって小さく響き始めた。
◇ ◇ ◇
肌を撫でるひんやりとした夜の空気で、ゆっくりと意識を浮上させる。
何をしていたか……そうか、食事をした。
そして再び眠ったのだ。閉じた瞼からは明るさを感じない。
どうやら夜まで寝過ごしてしまったらしい。
ゆっくりと、目を開ける。
至近距離。
本当に、鼻先が触れ合うほどの距離。
漆黒の眼球が、こちらをじっと覗き込んでいた。
『……』
「わああああああ!!!??」
弾かれたように悲鳴を上げ、寝台から毛布を巻き添えにしながら転がり落ちた。思い切り左肩を打った。痛い。心臓の鼓動がドクドクと警鐘を鳴らし、全身の毛穴が粟立つ。ぼんやりとした月明りの中に佇んでいたのは、白いワンピースのような衣服に身を包んだ、長い黒髪の少女だった。
「痛っ…… あ、その……」
(しまった…… 自分を助けてくれたであろう人に取るべき態度じゃない)
黒髪の少女は、転げ落ちた僕を見ておろおろと戸惑っている。助け起こそうかと手を伸ばし、いや近づいたら驚かせるだろうかと、びくっと肩を揺らして手を引っ込めていた。
「驚いてしまいすみません…… あなたが、助けてくれたんですね。ありがとうございます」
床に座り込んだまま、深々と頭を下げる。少し間を置き、頭を下げながら、ある違和感に気が付く。
(黒い…… 目……?)
ばっと顔を上げて、改めて彼女の顔を正面から見つめた。
――そして、言葉を失った。
困惑したように自分を見つめ返す、その瞳。
白目と黒目が完全に反転している。
底なしの暗黒の中央で、白い虹彩だけが月明りを反射して鋭く光を放っていた。
(この……目は……)
落ち着きかけていた心臓が、今度は全く別の恐怖で跳ね上がった。
昨日、雨の夜。
自分の首を締め上げた得体の知れない怪異。
あの時もこんな至近距離で、この漆黒の眼球に見つめられ……。
(……)
そこまで考えて、思い出す。
自分を殺そうとしたあの怪異は、ひどく寂し気な表情を浮かべていたことを。
そして今、目の前に立つ彼女はどうだろうか。
自分が怯えたように顔を強張らせているのを見て、取り返しのつかない過ちを犯してしまったかのように、痛ましげに眉を寄せている。彼女はこちらから距離を取るように、一歩、また一歩と後ずさっていた。
命を刈り取る恐ろしい存在……だとしたら、自分は今、生きている。
致命傷だったはずの傷が跡形もなく消え、温かい粥で腹は満たされている。
先刻は気が付かなかったが、泥まみれでボロボロだったはずの自分の皮鎧や剣が、部屋の隅で綺麗に手入れされて置かれているではないか。
暴れまわっていた恐怖感が、天気雨の後のように急激に静まっていく。
「……あの時の?」
問いかけると、目の前の少女はびくっと肩をすくめた。ひどく怯えており、今にも泣きだしてしまいそうな様子だったが、やがて小さく頷いた。
「改めて、助けてくれてありがとう」
ゆっくりと立ち上がり、彼女のその真っ黒い瞳を真っすぐに見つめる。
「ごめん。もう驚かないよ。……本当にありがとう」
純粋な感謝を込めて、柔らかく微笑みかけた、
その瞬間。
少女の顔がふにゃりと歪み、その漆黒の瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
声にならない嗚咽を漏らしながら、ふらふらとこちらに歩み寄ってくる。
そして、細やかなガラス細工に触れるかのような……ひどく躊躇いがちな手つきで、胸元にそっとしがみついてきた。
密着した体から伝わるのは、夜の静けさを纏ったような、ひんやりとした冷たさ。やはり彼女は人ではない。その事実を肌で改めて認識したが、今目の前で泣いている彼女からは、人を害するような悪意など微塵も感じられなかった。
それどころか、衣服越しに押し付けられたのは柔らかな感触であった。
ユーリはすがりつく華奢な背中に、そっと腕を回した。




