待ってて
青年が消えた場所に、一つの「黒い影」が生まれる。
それは、感情という余剰を切り捨て、論理だけを骨格とした、あの冷徹な「徴収官」の原型。
マリアはその影を抱きしめることも、声をかけることもせず、ただ静かに背を向けた。
彼女の瞳から、最後の光が消える。
ここから彼女は、遥か先の再会まで、「悪役令嬢」という名の汚れた泥を全身に浴び、その役割を完璧に演じなければならない。
未来で。
あの凍りついた舞踏会場で。
「彼」に再び出会うために。
冷徹な「原型」が、事務的な足音を響かせて過ぎ去る姿を視界の端に捉えながら、マリアは悟る。
なぜ、自分がこれほどまでに彼に執着し、彼を救いたいと願って止まなかったのか。
その答えは、自分の中にあった。
私は、あの女(作者)が切り捨てた「良心の残骸」だ。
かつて彼女が抱いていた、創作への無垢な憧れ。
彼という理想に恋い焦がれていた、ヒロインの原型そのものだ。
「そうか。……だから、あの女は私を許せなかったんだ」
あの女は、自分の「純粋さ」が誰にも受け入れられないことを恐れた。
否定される前に、自らそれを「悪役」へと歪め、愛していたはずの「理想(会計士)」を、自らのペンで処刑した。
マリアという存在は、作者がとうの昔に捨て去った「彼を愛していた記憶」そのものだった。
泥にまみれたドレスを揺らし、マリアは暗闇の中を歩き出す。
あの女が私を「悪役」に書き換えたなら、私は「悪役」として物語の深層を食い破り、最果てにある結末を強奪する。
それが、かつて私を生み出した、あの女への唯一の清算なのだから。
マリアは崩壊した「表の世界」へ侵入する。
そこに広がるのは、停止する荒廃した街並み。
マリアは、割れた窓硝子に透けて映る「泣き崩れる女」に向かって、慈しみを込めて手を伸ばした。
指先が冷たい硝子に触れる。
それは、自分を拒絶してきた創造主への、あまりに静かな和解。
「いいよ。もう、自分を責めなくていい」
硝子の向こうの震える肩に、言葉を重ねる。
「……アンタが彼を『殺す』ことでしか、この物語を存続させられなかった。そうでしょ?
だったら、その罪は私が全部、引き受けてあげる」
鏡の中の女が流す悲しみを、マリアは己という器の中へ静かに流し込んでいく。
彼女は「作者の良心の残骸」であることを受け入れ、そして、その役割から完全に脱却した。
「私はもう、アンタの操り人形じゃない。……私は、私が、あいつの隣にいたいから、ここにいるの」
壮大な使命も、創造主への復讐も、今の彼女には瑣末なことだった。
「私はただ、あいつと一緒に、夕食を囲みたかっただけなんだ」
その、あまりに無防備で純粋な答えに辿り着いた瞬間。
マリアの全身を覆っていた「悪役令嬢」の禍々しいノイズが霧散し、内側から澄み渡るような温かな光が溢れ出した。
「待ってて。……今、本当の『清算』を届けてあげる」
泥を振り払うように、マリアはドレスを翻す。
視線の先にあるのは、あの運命の舞踏会場。
すべてが始まる「あの日」に向かって、彼女は迷いなく一歩を踏み出した。




