貴方は私の物
表の世界から連れ出されて数時間。
彼は困惑を隠せぬまま、震える指先で『黒い帳簿』を捲り続けている。
「……信じられません。ですが、ここに記された不条理な既決事項は……これから私に起こる『確定事項』そのものに見えます」
マリアは無表情のまま、静かに表の世界を見つめていた。
空からは、止まない「黒い雨」が降り始めている。
それは、あの女が描いた『下手くそな悲劇』の幕開け――起源。
漆黒のインクで塗り潰された空の下、街の至る所で「不条理な暴力」が奔流となっていた。
意味もなく消されていく人々。消滅を待つだけの路地裏。
「……マリアさん。世界が、私を拒んでいます。私が『私』でいることを、この世界が許してくれない」
彼の声に、耐えがたい震えが混ざる。
マリアは内側に渦巻く殺意を押し殺し、彼から『黒い帳簿』を受け取った。
今の彼女には視える。この絶望を構成する演算要素も、それを焼き払うための脆弱性も。
全権限を解放すれば、この安っぽい悲劇ごと、作者の遺した負債を無に帰すことさえできるだろう。
だが、彼女はそれを選ばない。
「……大丈夫。貴方は私のものだから」
【改竄:所有権を強奪(Object Hijack)】
マリアは彼の首筋に腕を回し、その耳元で熱病のような吐息を漏らした。
彼女の指先から溢れ出す鮮血が、彼の胸元に「真の名前」を刻印し、物語の深層をどろりとした情念で焼き切っていく。
「あ、が……っ!? 頭が……灼ける……!」
「――貴方は、私が一括で買い取ったの。もう誰にも貸してあげない」
マリアの執着。彼の内側に強制的に植え付けられる「不条理」。
凄まじい共鳴が、彼という存在を跡形もなく支配していく。
「……はぁ、……はぁ、……マリア……さん……何を? ……があッ?!」
世界が彼の柔らかな「感情」も、ささやかな「未来」も、一文字ずつ冷徹に削り落とし始めた。
「……あ……ぐ……っ、マリア……さん……逃げ……て……!」
彼の絶叫が、次第に無機質なノイズへと変質していく。
マリアはそれを数歩離れた場所で、唇を血が滲むほど噛み締め、凝視していた。
(……ごめんなさい。でも、ここで救ってしまえば……私を助けに来てくれた『徴収官』が消えてしまう)
これは、二人が出会うために支払わなければならない、「過去」という名の負債。
彼がここでもう一度死に、絶望し、心を凍らせて「徴収官」という名の怪物に成り果てなければ、未来の絶望の淵にいた私の元へ、彼は現れない。
彼を救うためには、今、彼を見捨てなければならないのだ。




