絶対に認めない
音も、風もない。
徴収官がノイズとなって消えてから、どれほどの時間が経ったのか。
マリアは、かつて彼が立っていた「真っ白な虚無」の上に、ただ一人膝をついていた。
「……何よ、これ。冗談じゃないわ」
彼女が手にしたのは、自由でも、勝利でもなかった。
指先に残るのは、彼が最期まで握りしめていた『黒い帳簿』の、凍えるような冷たさだけ。
持ち主を失ったその道具は、無機質な「事実」を突きつけてくる。
「『完済』ですって? 笑わせないでよ。……あんなの、ただの踏み倒しじゃない。……私への支払いが、まだ終わってないでしょ」
彼のいない世界は、あまりに白すぎて、吐き気がするほど空虚だった。
マリアが帳簿を開くと、ページが意思を持つかのように勝手にめくれ始める。
そこにあったのは、冷徹な数字の列ではない。
「作者」という名の神が、この世界を書き始めた時の、どす黒い本音の残骸だった。
『誰も読まない。この「真面目なだけの会計士」じゃ、数字が稼げない』
『もっと残虐に。もっと冷酷に。読者が喜ぶ舞台装置として、彼の心を削れ』
『そうだ。彼に「愛」など与えるな。ただの事務的な「徴収官」へ書き換えろ。そうすれば、作品は売れる』
ページをめくるたび、マリアの心に鋭い痛みが走る。
彼女は見る。
かつては世界の美しさを信じ、帳簿を片手に「街に溢れる小さな幸せ」を数えていた、若くて無垢な「会計士」だった頃の彼の姿を。
そして、作者のペン先によって、その温かさが一つ、また一つと「不要な設定」として削ぎ落とされていく様を。
「……アンタ、こんな風に『加工』されたのね」
マリアの瞳に、静かな、しかし烈火のような怒りが宿る。
作者が欲しがった「承認欲求」という名の、たった数円の端金のために。
彼は、その人生を、魂を、その「真実の名」すら奪われたのだ。
マリアは帳簿の末尾、まだ何も書き込んでいない「真っ白な余白」に目を落とす。
「ねえ、教えてくれたわよね。『帳簿は嘘をつかない』って」
マリアは、地面に落ちていた彼の眼鏡を拾い、自分の顔にかけた。
視界が歪み、再定義される。
論理と、不条理と、そして「書き換え可能な運命」の糸が見える。
「こんな不当な清算、私が認めるわけないでしょ。……全部、私が『改竄』してやるわ」
マリアは、自らの存在という「不条理な熱量」を、ペンを握るように帳簿の深層へと叩き込んだ。




