契約完了
作者の気配が完全に消え、静寂が戻った世界。
空は、誰の意図も介さない本物の青色に染まり始めていた。
「……終わったわ。本当に、全部終わったのね」
マリアが震える声で呟く。
だが、それを支える隣の男の右肩からは、不気味なノイズが火花のように散っていた。
作者が最期に放った「特権命令(死ね)」の深手。
それは、物語の主権を奪い取るための「最後の代償」として、彼の核を修復不能なまでに破壊していた。
「ああ。……全ての債権は回収し、譲渡の手続きも、完了した。……この物語の主権は、今、完全に、……君たちの、ものだ。……自由に駆ければ、……いい」
徴収官の声は、かすれ、ノイズに混じって途切れ途切れに響く。
彼の身体からは、かつての冷徹な威厳が消え、ただ一人の「致命傷を負った男」としての脆弱さが露呈していた。
「ちょっと……何よ、その体。ねえ、冗談はやめてよ!! 権利なんてどうでもいい! あんた、私を置いてどこに行くつもりよ!!」
マリアが、必死に彼の腕を掴もうとする。
だが、その指先が触れたそばから、彼の体は光の塵となって零れ落ちていく。
「……計算違い、だったな。……奴の、最後の一撃を……完全に、相殺しきれなかった。……私の『存在』を、道連れに、……持っていかれたようだ」
彼は、苦しげに、けれどどこか満足そうに口角を上げた。
それは、かつて「人間」だった頃の、面影だったのかもしれない。
「ふざけないでよ!! 借金、まだ返してないわよ! あんたが命懸けで私を救った代金……一円も、一秒も返してない!! 勝手に死ぬなんて……そんなの、私が許さないんだから!!」
涙を流し、激昂するマリア。
彼女の「不条理な熱量」が、消えゆく彼を引き止めようと空を掻く。
だが、物語が、崩壊したイレギュラーを排除する動きは止められない。
「……悪いな。……返済期間を待ってやる、余裕が、なくなった……。……領収書は、……そこに、置いていく……」
徴収官は、震える手で最後の一枚となった領収書を彼女の足元に落とした。
そこには、何の金額も書かれていない。
ただ、彼女の全存在を承認する、サインだけが記されていた。
彼の体が、急速に光の中に溶けていく。
「……君は、……自由、だ」
「待って、行かないで!! ――好きだって、まだ言ってないのよ!!」
マリアが、なりふり構わず彼に飛び込んだ。
その背中に、愛しい男の体温を感じようと、腕を強く回した。
―― だが。
抱きしめた瞬間、マリアの腕の中には、もう何もなかった。
温もりも、白髪の感触も、冷徹な声も。
ただ、吹き抜ける風が、彼女のボロボロになったドレスを揺らした。
「……っ、あああああぁぁぁぁぁッ!!!」
主権を取り戻した美しい世界で、マリアの絶叫だけがいつまでも響き渡っていた。
―― 完済(PAID IN FULL) ――




