婚約破棄、感謝します。……あれ、貴方、私が「借金の連帯保証人」だったこと、忘れてました?
「リゼット・アークライト! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」
王都の夜会、煌びやかなシャンデリアの下。
張り上げられた大声が、音楽と談笑を断ち切った。
声の主は、私の婚約者であるジェラルド・バロウズ子爵令息。
流行りの派手な燕尾服を着崩し、その腕には小柄で可愛らしい女性――最近社交界で噂の「自称・癒やしの聖女」ミミ様がぶら下がっている。
周囲の貴族たちが扇で口元を隠し、好奇の視線を突き刺してくる。
「あら、バロウズ家の……」
「また騒ぎを?」
「あそこのご嫡男、少し足りないと言われていますものね」
クスクスという嘲笑交じりのさざめき。
けれどジェラルド様は、自分が注目の的になっていることに酔っているのか、勝ち誇った顔で私を指差した。
「聞こえなかったのか、この地味女! 僕の隣にふさわしいのは、ミミのように華やかで癒やしのある女性だ。貴様のように、いつも帳簿ばかり睨んでいる陰気な女じゃない!」
「……」
「おい、なんとか言ったらどうだ! 泣いて縋るなら、手切れ金くらい恵んでやらんこともないぞ!」
ジェラルド様が喚く。ミミ様が「きゃあ、ジェラルド様ったら強引」と身をよじる。
私は、手に持っていたグラスを給仕の盆にそっと戻した。
そして、スカートの埃を払うように一度だけ深呼吸をして、顔を上げる。
「――承知いたしました」
「は?」
「婚約破棄の申し出、謹んでお受けいたします。今、この場で」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いて響いた。
ジェラルド様が間の抜けた顔をする。
「は……? お、おい、待て。正気か? 貴様の実家の借金はどうするつもりだ! 僕との婚約がなくなれば、アークライト伯爵家など路頭に迷うぞ!」
そう、それが彼の首輪だった。
私の実家は貧しく、商才のあるバロウズ家に借金をしていた。そのカタとして結ばれたのが、この婚約だ。
けれど。
「ご心配には及びません」
私は微笑んだ。これ以上ないほど、晴れやかに。
「家計のことは、当家でなんとかいたします。ですのでジェラルド様も、どうぞお幸せに。……私の『連帯保証』なしで、その派手な生活が維持できるのであれば」
「あ? 何を言って――」
私は彼に背を向けた。
これ以上、一秒たりとも時間を無駄にしたくない。
だって、今の私は自由なのだから。
(ああ、なんて清々しいの!)
私は心の中で快哉を叫んだ。
彼、忘れているのだ。
この婚約における契約条件の一つに、『婚約期間中、リゼットはジェラルドの個人資産管理および負債の連帯保証人となる』というふざけた条項があったことを。
そして、『一方的な婚約破棄の場合、全ての保証契約は即時無効となる』という免責条項があることも。
私は懐に忍ばせていた魔法紙の束――常に持ち歩いていた契約書の写し――を、ドレスの上からそっと撫でた。
この瞬間、魔法署名が発動し、私は彼の借金地獄から解放されたのだ。
「待て! おいリゼット、逃げるな!」
背後でジェラルド様が叫んでいるが、私は足を止めない。
ざわめく人垣が割れる。
その先、夜風の吹き込むテラスへの出口に、ひとつの人影があった。
夜の闇を凝縮したような黒髪。氷のように冷ややかな蒼い瞳。
王国の財務を影で支配すると言われる、若き冷徹公爵。
カイウス・フォン・オルコット様が、壁に寄りかかってこちらを見ていた。
心臓が跳ねる。
彼と目が合った瞬間、その無表情な唇が、ほんの少しだけ吊り上がった気がした。
彼は手にしたワイングラスを軽く掲げ、音もなく口を動かす。
『――よくやった』
その視線が、私に「約束」を思い出させる。
私は小さく頷き、そのまま夜会を後にした。
◆
馬車乗り場へ向かう暗い石畳を、私は早足で歩いていた。
ヒールの音がカツカツと響く。
実家に戻るつもりはない。戻れば、慌てた父がまた私を売り飛ばそうとするだろう。
私には、行くべき場所があった。
「お迎えにあがりました、リゼット様」
街灯の下、漆黒の馬車が停まっていた。
扉の横に立つ御者が、恭しく一礼する。その馬車には、金の鷹――オルコット公爵家の紋章が輝いている。
「……手回しが早いのですね」
「主が、一秒でも早く貴女様を保護せよと」
御者の手を取り、馬車に乗り込む。
ふかふかの座席に沈み込んだ瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、深いため息が出た。
終わった。
いいえ、これからが始まりだ。
馬車が動き出す。
私は鞄から手帳を取り出した。
そこには、ジェラルド様がこの三年間で使い込んだ金額と、その補填のために私が私財(母の遺品を売った金まで!)を投じた記録がびっしりと書き込まれている。
横領? いいえ。
私が管理していなければ、彼はとっくに破産していた。
それを「帳簿ばかり睨んでいる」と罵った彼に、現実を見せてあげなくては。
「リゼット様、ご到着です」
馬車が停まったのは、王城と見紛うほど壮麗な公爵邸の前だった。
玄関ホールに足を踏み入れると、使用人たちがずらりと並んで頭を下げる。
その中央、階段の上に、彼が立っていた。
カイウス様だ。
夜会服の上着を脱ぎ、シャツの襟元を寛げた姿は、先ほどの冷徹な雰囲気とは違って、どこか艶っぽい。
「遅かったな」
「……夜会を抜けるのに手間取りましたので。カイウス様こそ、もうお戻りでしたの?」
「退屈な茶番を見届ける趣味はない。君が自由になった、その事実だけで十分だ」
彼は階段を降りてくると、私の目の前に立ち、自然な動作で私の手を取った。
その手は熱く、大きく、私の指先を包み込む。
「ようこそ、我が屋敷へ。……いや」
彼は蒼い瞳を細め、甘く低い声で囁いた。
「待っていたよ、私の有能な秘書。――そして、未来の妻」
「ッ……! か、カイウス様、その『妻』というのはまだ契約に……!」
「口約束だよ。だが、私は欲しいものを逃がしたことはない」
彼が指先に口づけを落とす。
その執着を孕んだ瞳に射抜かれ、私は言葉を失った。
ジェラルド様に向けていた侮蔑や無関心とは違う、熱い何かが胸の奥で燻り始める。
◆
翌日から、私の新しい生活が始まった。
名目は「公爵家財務顧問」。
カイウス様が用意してくれた執務室は、バロウズ家の埃っぽい物置部屋とは雲泥の差だった。
最高級の調度品、整理された資料、そして何より――。
「リゼット、この書類の決裁を頼む」
「はい。……あの、カイウス様?」
「なんだ」
「なぜ、私の隣に椅子を置いて仕事をしているのですか? ご自分の机はあちらでしょう?」
広大な執務室なのに、カイウス様は私のすぐ隣、肩が触れそうな距離に椅子を持ってきて座っていた。
「ここが一番効率がいい。君の判断を即座に聞ける」
「書類を渡せば済む話では」
「君のインクの匂いが落ち着くんだ。……文句があるか?」
「……ありません」
文句はないけれど、心臓に悪い。
仕事中の彼は有能そのものだ。私の計算速度に合わせて資料を回し、私の指摘を即座に理解して指示を出す。
ジェラルド様のように、「数字のことはわからん!」と怒鳴り散らしたりしない。
それどころか。
「休憩だ」
一時間が経過するたび、彼は強制的に私の手を止めた。
そして、最高級の茶菓子と紅茶が運ばれてくる。
「君は痩せすぎだ。バロウズ家では満足な食事も与えられていなかったのだろう」
「……食事よりも、帳尻を合わせるのが先でしたから」
「愚か者どもめ」
カイウス様の瞳に、冷たい怒りの色が走る。
彼は私の髪にそっと触れ、愛おしげに梳いた。
「これからは、私のためにその能力を使え。その代わり、君の全ては私が守る」
「はい……」
守られる、という感覚。
それがこんなにも温かく、甘美なものだなんて知らなかった。
けれど、平穏は長くは続かないことを、私は知っていた。
◆
(ジェラルド視点)
「くそっ、どうなっているんだ!」
ジェラルドは執務机を叩いた。
リゼットを追い出して三日。屋敷の中は荒れ放題だった。
使用人たちが「給金が未払いだ」と騒ぎ出し、馴染みの商会からは「ツケでの支払いはもうできない」と商品搬入を拒否された。
「おい、金はどうした! 先月、領地から税収が入ったはずだろう!」
家令が青い顔で答える。
「そ、それが……帳簿を確認しましたところ、税収は全て借金の利息と、旦那様の先月の宝石購入代で相殺されておりまして……」
「はあ!? そんなはずはない! 先月までは何の問題もなく回っていたじゃないか!」
「それは、リゼット様がご自身の資産を取り崩して補填されていたようで……」
「あいつが……?」
ジェラルドは呆然とした。
あの地味な女が? そんな金を持っていたのか?
いや、違う。
「――盗んだんだ」
ジェラルドの目に、どす黒い光が宿る。
「そうだ、あいつは僕の金を管理していた。帳簿を改ざんして、金を中抜きしていたに違いない! だから羽振りが良かったんだ!」
そうだ、そうに決まっている。
僕が浪費などするはずがない。僕は貴族だぞ。
隣にいたミミが、不安そうに上目遣いをする。
「ジェラルド様ぁ……私、新しいドレスが欲しいって言ったのに、買えないの?」
「くっ……待っていろ、ミミ。すぐに金を用意する」
ジェラルドは羊皮紙をひったくると、ペンを走らせた。
リゼット・アークライトによる横領の告発。
そして、被害弁済として彼女を奴隷として売り飛ばす許可の申請。
「見ていろ、リゼット。僕を捨ててタダで済むと思うなよ……!」
◆
(リゼット視点)
「――という告発状が、監査局に届いた」
カイウス様が、一枚の汚い羊皮紙を机の上に放り投げた。
そこには、私の名前と、身に覚えのない横領の罪が羅列されていた。
内容のあまりの杜撰さに、怒りよりも呆れが先に立つ。
「……計算が合っていませんね。彼が主張する横領額、領地の年間予算を超えています」
「ああ。中身など誰も信じない。だが、問題は『貴族が正式に告発した』という事実だ。受理されれば、君は取り調べのために拘束される可能性がある」
カイウス様の声が低くなる。
執務室の温度が数度下がった気がした。
私は、震えそうになる手を膝の上で握りしめた。
やはり、彼らは私を逃がさないつもりだ。どこまでも、私の人生を食い物にしようと――。
ふわり、と。
温かいものが私を包み込んだ。
カイウス様が背後から私を抱きしめていた。
「カ、カイウス様!?」
「震えるな。言っただろう、君は私が守ると」
耳元で囁かれる声は、甘く、そして絶対的な響きを持っていた。
「この告発状は、私が握りつぶした。だが、奴は次の手を打ってくるだろう。……リゼット、君に選択肢を与えよう」
「選択肢……?」
「このまま私が裏で彼らを社会的に抹殺することもできる。だが――君自身の手で、決着をつけたくはないか?」
彼の手が、私の手の上に重ねられる。
その大きな手のひらの下に、私が作成した『反撃のための証拠書類』がある。
私は顔を上げた。
逃げるのはもう終わりだ。
私が何も言わずに耐えてきたから、彼らは図に乗ったのだ。
「……やります。私が、彼らに引導を渡します」
「いい返事だ」
カイウス様が獰猛に笑った。
その笑顔は、見たこともないほど美しく、恐ろしいものだった。
「舞台は三日後。バロウズ家が起死回生を狙って開く、婚約発表パーティーだ。そこで奴らは、君を『泥棒』として公開断罪するつもりでいる」
「まぁ。招待状は来ていませんけれど」
「私が連れて行く。――私のパートナーとしてな」
彼は私の顎を指ですくい上げ、強引に視線を合わせた。
その夜、君は世界で一番美しく、そして残酷な女になるんだ。誰にも文句は言わせない」
◆
そして三日後。
バロウズ子爵邸。
借金で首が回らないはずなのに、ジェラルド様は最後の見栄を張って盛大なパーティーを開いていた。
狙いは一つ。新しい金づるを見つけることと、私を公衆の面前で断罪して「被害者」になりすますこと。
会場がざわめく。
「おい、あれを見ろ」
「まさか、オルコット公爵か?」
「隣にいるのは……誰だ? あんな美しい令嬢、見たことがないぞ」
扉が開く。
私はカイウス様の腕に手を添え、一歩を踏み出した。
バロウズ家で着させられていた地味な灰色ドレスではない。
カイウス様が用意してくれた、深紅のドレス。
髪は艶やかに結い上げられ、首元には公爵家の家宝である大粒のダイヤモンドが輝いている。
会場の視線が一点に集中する。
その最奥で、ジェラルド様が信じられないものを見る目で口を開けていた。
(さあ、始めましょうか。最後の精算を)
私は優雅に微笑んだ。
その笑顔が、彼への死刑宣告になるとも知らずに、ジェラルド様が顔を真っ赤にして歩み寄ってくる。
「リ、リゼット……!? 貴様、その格好はなんだ! 盗んだ金で買ったのか!」
ジェラルド様の怒鳴り声が、静まり返ったホールに響いた。
彼は顔を真っ赤にして、私を指差している。その隣で、聖女ミミ様が私のドレスを見て、羨望と嫉妬の混じった視線を向けていた。
「答えろ! 我が家の金庫から消えた金で、そんなふざけたドレスを仕立てたんだろう! この泥棒女め!」
周囲の貴族たちがざわめく。
「泥棒? まさか」
「でも、アークライト家は貧しいし……」
疑いの目が私に向く。
これが彼の狙いか。私を犯罪者に仕立て上げ、横領の罪を着せて賠償金を巻き上げるつもりなのだろう。
私は、隣に立つカイウス様を見上げた。
彼は無表情のまま、ただ優雅に佇んでいる。だが、私の腰に回された手には、確かな力が込められていた。
『行け』
その瞳がそう言っている。
私は一歩前に出た。
扇をゆっくりと開き、口元を隠して冷ややかに告げる。
「ごきげんよう、ジェラルド様。相変わらず、計算がお出来にならないようですわね」
「な、なんだと!?」
「『消えた金』? いいえ、最初から貴方の金庫には、お金など一貨幣も入っていませんでしたわ」
私はドレスの隠しポケットから、一冊の薄い手帳を取り出した。
ジェラルド様が息を呑む。見覚えがあるはずだ。私がいつも持ち歩き、彼に見せようとしては「うるさい!」と払いのけられていた帳簿の写しだ。
「皆様、聞いてください!」
ジェラルド様が焦って声を張り上げた。
「こいつは嘘をついている! 我が領地は豊かだ! 税収だってある! なのに金がないのは、こいつが管理にかこつけて着服していたからだ!」
「そうですぅ〜! リゼットさんがいなくなってから、お店への支払いができなくて困ってるんですぅ!」
ミミ様まで加勢する。
完璧な布陣のつもりなのだろう。けれど、それは自ら墓穴を掘る行為だ。
「ええ、支払いが止まったでしょうね」
私は手帳を開き、朗々と読み上げた。
「先月三日、宝石店『ルミエール』にてネックレス購入、金貨五十枚。同十日、服飾店にてドレス三着、金貨八十枚。同十五日、高級レストラン貸切……」
「や、やめろ!」
「これらは全て、ジェラルド様とミミ様の個人的な浪費です。そして――ここが重要ですけれど」
私は視線を巡らせ、会場の全員に聞こえるようにはっきりと言った。
「これら全ての支払いは、バロウズ家の金庫が空だったため、私が『個人の資産』を売却して立て替えておりました。証拠の領収書も、私の署名入りで全てここにあります」
ばらり、と。
私は手帳に挟んでいた領収書の束を床に撒いた。
ひらひらと舞う紙片を、近くの貴族が拾い上げる。
「……本当だ。支払人はリゼット・アークライトになっている」
「日付も、婚約破棄の前日まで続いているぞ」
「じゃあ、泥棒どころか、彼女が彼を養っていたのか?」
空気が変わった。
嘲笑の対象が、私からジェラルド様へと反転する。
「ち、違う! 僕は知らなかった! 勝手にやったことだ!」
ジェラルド様が裏返った声で叫ぶ。
「そうだ、勝手に立て替えただけだろう! 僕は頼んでない! だから返す必要もない!」
ああ、言うと思った。
彼はそういう人だ。
だからこそ――ここからが本番だ。
「ええ、お返しいただかなくて結構ですわ」
「へ……?」
「その代わり、思い出していただきましょう。私と貴方が交わしていた『婚約契約書』の特約条項を」
私が合図を送ると、カイウス様が指を鳴らした。
ホールの扉が開き、厳格な制服を着た男たちが入ってくる。
胸には天秤の紋章。国の『監査局』の執行官たちだ。
「な、なんだ、監査局がなぜここに……」
「バロウズ子爵令息」
執行官の代表が、氷のような声で告げた。
「貴殿に対し、複数の商会から未払い金の返済請求訴訟が起こされている。そして、本日付で『連帯保証人』であるリゼット嬢からの契約解除申請が受理された」
「れ、連帯保証……?」
ジェラルド様が呆けた顔をする。
私は微笑みながら解説して差し上げた。
「私の実家への借金を盾に、貴方は私に『借金の連帯保証』を押し付けていましたよね? でも、その契約には条件がありました。『婚約関係にある限り有効とする』と」
「あ……」
「三日前、貴方は私との婚約を一方的に破棄なさいました。その瞬間、私は貴方の借金の保証人ではなくなったのです」
ジェラルド様の顔から血の気が引いていく。
理解したようだ。
私が立て替えていた分が止まり、さらに過去の借金が一気に彼一人にのしかかったことを。
「そ、そんな……じゃあ、今ある借金は誰が払うんだ?」
「もちろん、貴方ご自身です」
執行官が一歩前に出る。
「バロウズ家に対し、全財産の差し押さえ命令が出ている。屋敷も、領地も、今この瞬間から国の管理下だ」
「嘘だ! 嫌だ、僕は貴族だぞ! ミミ、ミミ! 君の実家に頼んで……」
ジェラルド様が縋り付こうとすると、ミミ様は「きゃっ!」と汚いものを避けるように飛び退いた。
「やだ、触らないでよ! 貧乏人なんて興味ないわ!」
「ミ、ミミ……?」
「私、次の方を探すから。さようなら!」
ミミ様はドレスの裾を翻し、逃げるように会場を出て行った。
残されたのは、借金まみれの男が一人。
「あ、あ……」
ジェラルド様が膝から崩れ落ちる。
そして、這うようにして私の方へ手を伸ばした。
「リ、リゼット……頼む、助けてくれ。僕が悪かった。婚約破棄は撤回する! だから、また元のように……」
「お断りします」
「頼む! 愛しているんだ! 君がいなきゃ駄目なんだ!」
見苦しい。あまりにも。
私は冷めた目で見下ろそうとした――その時。
「――薄汚い手で、私の婚約者に触れるな」
絶対零度の声が降ってきた。
カイウス様が、私とジェラルド様の間に割って入ったのだ。
彼はジェラルド様の手を革靴の爪先で軽く払い、私を背に隠すように抱き寄せた。
「こ、公爵閣下……」
「彼女は選んだのだ。君のような無能な男ではなく、私を」
カイウス様が私を見下ろす。
その瞳にあった冷たさは消え、溶けるような熱が宿っていた。
「リゼット。君の名誉は回復された。もう、こんな男に付き合う必要はない」
「はい……カイウス様」
「これからは、私が君の全てを引き受ける。借金も、過去の傷も、未来の幸福も。全てだ」
彼は衆人環視の中で、私の左手を恭しく取り上げた。
そして、薬指に嵌められた指輪――公爵家の紋章が刻まれた、本物の『誓いの指輪』に口づけを落とす。
「リゼット・アークライト。私の妻になり、この国の財務を私と共に支配してくれ」
「……ふふ、支配、ですか?」
「ああ。君の計算能力があれば、世界すら買えるだろうからな」
会場から、割れんばかりの拍手とため息が漏れた。
ジェラルド様は執行官に両脇を抱えられ、引きずられていく。
「ま、待ってくれ! リゼットぉぉぉ!」
その絶叫は扉の向こうに消え、二度と私の世界には届かなくなった。
◆
数ヶ月後。
私は公爵邸のテラスで、アフタヌーンティーを楽しんでいた。
バロウズ家は取り潰され、ジェラルド様は鉱山へ強制労働に行かされたと聞いた。一生かかっても返せない借金を背負って。
「何を考えている?」
背後から、カイウス様が私の肩に顔を埋めてきた。
最近の彼は、執務中でもこうしてくっついてくることが増えた。公爵邸の誰もが「氷の公爵様が溶けた」と噂している。
「いえ……幸せだな、と思って」
「それは良かった。だが、まだ足りないな」
「え?」
カイウス様が私の前に回り込み、悪戯っぽく笑う。
「君との『契約』には、まだ続きがあるだろう?」
「続き?」
「『幸福な家庭を築くこと』。……さあ、執務は終わりだ。寝室へ行こう、奥様」
彼が私を軽々と抱き上げる。
「ちょ、カイウス様! まだお昼です!」
「構わない。私は独占欲が強いんだ。君を誰の目にも触れさせたくない」
甘いキスが、反論を封じる。
かつて借金に縛られていた私の指には今、愛という名の逃げられない鎖が、心地よく絡みついていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
少しでも「スッキリした!」「公爵様の溺愛よかった!」と思っていただけたら、
下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆の励みになります!
(評価は作者の命綱です……! 何卒よろしくお願いいたします!)




